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第1章 二人の婚約

セリーナ・ロッテ・デュボワ(Selina)

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 私が初めて自分の婚約者と対面したのはまだ三歳の時のことで、相手は四つ年上のエドワード様だったと聞いている。でもその頃のことはひとかけらも思い出すことができないので、私としては存在しなかったのと同じで……お相手だったエドワード様にしてみても、そんな昔の形だけだった婚約の事実など、記憶から消してしまいたいのではないかしら。
 婚約という言葉の意味さえよく理解せずに過ごしていたと思う。五歳の頃、二つ年上のウィリアムと出会うその日までは、そのことについて一度も真剣に考えたことがなかった。
 ウィリアムに教えられて初めて、大人になったら結婚して父と母のような家族になるという意味ことの重大さを理解した。



 物心つく頃には私にとっての弟――つまり嫡男の誕生は難しいかもしれないと周囲が諦めかけており、私には淑女教育とは別の知識が与えられるようになっていた。いわゆる領主の心得と呼ばれるものの類ね。
 それから、滅多に会うことのないエドワード様から、時々遊びに来てくれては仲良くしてくれていたウィリアムに婚約者が変わったことを知った時、私は素直に喜んだ。エドワード様のことが苦手だったとか、そういうことではないの――ただ、ウィリアムのことが大好きで、特別な存在になっていただけ。

 ウィリアムが伯爵家の次男であるために、将来は私と結婚して子爵家に婿入りし、二人で家督を継ぐことになると聞かされたその時、私は初めて小難しい勉強の数々が楽しく感じた。これは未来の旦那様を支えるために必要な知識なのだと考えたら、自然に反発心もなくなった。


 そして年を重ねるごとに教養が身に付き、女性としての役割を学びながら領主の仕事や必要な知識を覚えていくことに矛盾を感じたり、自分の存在に違和感を覚えることもあったけれど……
 人にはそれぞれ持って生まれた義務があり、子爵家の一人娘として生きる私には、たまたまその役割が多様化しているだけなのだと言い聞かせて納得した。

 何よりも、ウィリアムと一緒にその義務を果たして生きることはとても素晴らしいことに思えた。信頼できる大好きな人と共に生きるという幸運の中で、課せられた義務をも果たすことができる……彼との結婚は、夢のように幸せで楽しい未来そのものだった。



 私にとって、婚約者はウィリアムが最初で最後の人であると――今でもそう思っている。



 そんな彼との婚約が宙に浮き、最終的に消失したのが三年前――ジェームズ待望の弟が産まれた時のこと。
 私は自分の役目を理解していたつもりだし、本音を言えば気が抜けてほっと安堵してもいたの。これで相反する縛りから解放されるのねと……


 ジェミーは素直でかわいいし、姉の欲目かもしれないけれど、とても賢くて優しい子に育っていると思う。母似で見目も麗しい。このままいけば素晴らしく人心をつかむ領主になるに違いない。
 そして彼が家を継ぐからには、私はそれまでの繋ぎや後援に回るのが役目だった。

 我が子爵家と所縁ゆかりある伯爵家か侯爵家あたりの嫡男と婚姻を結んで後継ぎを残し、ジェームズが治める子爵家とその領地に生きる人々の利益となるような……情報提供や援助、投資、各分野に優れている人々の仲介や派遣――それらの端緒となる要人との橋渡し役や調停役として、身分ある夫人ならではの人脈を作って活かすのだ。


 ウィリアムとの結婚がなくなったことは残念に思うけれど……自分の立場を考慮して、何かを諦めることには慣れている。伯爵家で厳しく躾けられたウィリアムも、きっと同じように理解しているのだろう……

 そう思っていたのに――目の前に示された道から外れる気のなかった私に、彼が予想外の道を提示した。


 今すぐには無理だけど、自分は必ずそれに相応しい地位を得てみせるから、それまで自分との結婚を諦めずに――共に生きる未来を信じて待っていて欲しい。

 ウィリアムはそう言ったのだ。それは紛れもない求婚で……個人の幸せを一番に追求するような、まさに夢のようなだった。

 彼は我が家への婿入りがなくとも、私と結婚すると宣言した。


 そんな事が許されるのだろうかと――考える間もなく私は彼に頷いていた。その瞬間に初めて自覚したけれど、私は子爵家の娘としての義務よりも、自分の願いを優先したいらしい。
 いつからか私は彼を本気で愛していて、心の底では共に生きたいと願っていたらしい――口には出していなくとも、それは子爵家への裏切り行為に違いない。
 生まれもった役目を放棄し、受けてきた恩を仇で返すような……

 つまり〝私〟はとてもわがままで、自分勝手な人間だと知った――


 それは違う、と彼は言う。自分のことをそんなふうに貶める必要はないし、幸せを追い求めることは間違っていないとも……
 必ずしも名家に嫁ぐことが最良とは限らないし、自分ウィリアムと結婚したとしても、家のために出来ることは沢山あると……


 けれど、それはウィリアム個人を頼るということだ。私と結婚するために余計な努力や負担を強いておきながら、その結果としてウィリアムが掴み取ったものや築き上げたものを踏み台にして利用しろと言っている……

 自分は何も努力せず、ただ彼のことを信じて待つだけで、上手くいった後にはそれを横取りするような――そんなのあまりに不公平ではないの!


 相手が爵位ある身分なら、その人の持つ力を利用することを躊躇わないのに、ウィリアムが相手だと「それはおかしい」と考えてしまうのだ……その考えこそが不平等だと自覚したあとも、なかなかその考えからは抜け出せない。

 ウィリアムが努力して一から築くのなら、妻になる自分わたしもそれをして当然なのではないかしら……

 それこそ、他家の令嬢と結婚して地位を得るという道を放棄した彼と共に過ごすに相応しい、それなりの利益を私も彼に与えるべきなのでは?――そんな考えに至ったところで、自分に「子爵令嬢」の肩書き以外の利点があるとは思えない……
 考えれば考えるほど、私には「令嬢」に相応しくない知識以外には、突出するものは何もないのだと思い知るばかり。


 それでも彼は、私が必要なのだと言い聞かせた。
 相応しいとか相応しくないとか、そんなことはどうでも良くて、私が彼の側に居続ける事が重要なのだと……





 言われてなびく私も私だけれど、ウィリアムの側を離れたくないと願う奥底の私は呆れるほどに貪欲だった。

 家族のことは大事だし、育ててもらった恩を含め、恵まれた環境で与えられ続けているものに対する返礼というか、家の貢献になるような事をきちんと果たしたいと思う。
 いつ、どこで、どのようにしたら、それを果たすことができるのか……今はまだ分からないけれど。社交界に出て、一人前と認められ、様々な場所で人付き合いを広げる事から始めたい。

 人と人との出会いには、著名な書物にも勝る経験に基づいた知恵や意外な発見が潜んでいる……そういうことが多々あるのだと。だからまずは人に会う機会を多く作りなさい――そう言った教師がいたように、私に必要なのは他者との交流と、後にも先にも〝経験〟なのだろう。



 ウィリアムは順調に地位を築いている。

 私も早く彼に追いつきたい。
 待っている間にも、私に出来ることがあるのなら……何でもしよう――そう思った。





   *



  

 かたかたと揺れる馬車の中で、私はとりとめのない昔の事を考えていた。
 ウィリアムのことや、自分のことで……これから先に待つ出会い、王宮で催される謁見、王都でウィリアムと会う時のこと、領地で待つジェミーたちのこと、お父様やお母様から受けた注意と心得、園丁に頼んできた庭のこと――そこに至ったところでふと気が付く。

 窓から見える景色の中に、不自然なものがあるような気がしたのだ。

 まるでこちらを窺うようにして、道の外れから更に離れた場所に潜んでいても判る大きな体に銀色の毛並み、ぴんと張った耳のある頭に小鳥を乗せたあれは……

「狼……?」

 驚きのあまり小さく声に出していた。
 縄張り意識が強くて獰猛で知られる狼の頭上に、青い小鳥が二羽も三羽もとまっている。なんと違和感のある光景だろうか……不自然でいて、愛らしい。

 少し身を寄せて窓に近付くと、小鳥の一羽が飛び立った。残りはじっとこちらを見つめ続けている。馬車が通り過ぎた後もずっと……

「どうかしたの、セリーナ?」

 マリーナ叔母様が不思議そうに問いかけた。

「いえ、ちょっと面白いものが見えたような気がして……」
「面白いもの?」
「はい。でも見間違いだったみたいですわ」
「そう……もうすぐ王都に着くはずよ。着いたらまずは身体を休ませなさい。ずっと座り続けで疲れたでしょう」
「ええ、そうさせていただきますわ。でも、少し散策してきても構いませんか? 身体を動かしたほうが、疲れも解れる気がするのです」
「それは構わないけれど……街へ行くなら一人では駄目よ。きちんと護衛のできる御付きの者がいなくては」
「大丈夫ですわ。向こうに着いたら、ウィルが待っていると思いますの」
「まぁ、セリーナ。貴女いつの間に彼に手紙遣いを出したの?」
「出しておりませんわ、叔母様。でも、待っていてくれる気がするのです。そういう事ってありませんか?」
「まあ、うふふ。良いわねぇ……起こるといいわね。そんな奇跡が」



 セリーナは〝はい〟と答え、にっこりと微笑んだ。


 それは期待にときめくような笑顔ではなくて、確信に満ちた余裕のある笑顔だった――


 
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