【第一章完結】Tale of Despair 緋色と灰の物語

なしみぞれ

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緋色と灰の物語

【終】12.緋色と灰の物語 急 ─Opening─

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 いつも自分を守ってくれる人が居た。その人はいつも己よりも自分を優先し、自分の為に己を殺し続けていた。ずっと知っていた。気付けることではなくて、きっとその人は気付かなくたっていいと笑うだろう。「それが私の役目だから」とどこか悟った顔で、自分なんてそこに居なくていいんだと言葉無い言葉で語っていた。
 本当は自分がいちばん苦しくていちばん辛いはずなのに、泣いている自分にばかり時間を費やして、いつも自分の将来ばかり案じていた。そんな人。
 でもそんな人は常にずっといる訳ではないとわかっていても、失うまではわからなかった。
 泣くことしか出来なかった自分にはそれを覆せる力があると気がついた時だっただろうか?
 弱ってしまったその人を助けたいと思っていた。ずっと傍に居続ける為に、ずっと2人で笑い続ける為に、その人がそうしてくれたから、そうしたいと、思った。その人の幸せを願った時。身体は応えてくれていた。

 たった一人の家族を守る為に、命を投げ出す覚悟と勇気に。

「お、 ねぇ ・・・ ちゃ ・・・」

 掠れた声でその人を呼んだ。下半身の感覚は一瞬の強烈な痛みの後に解らなくなった。血は絶え間なく流れ、頭の中まで洗い流そうとする。モニカは震える唇で伝えたかった事がひとつあった。それは簡単な事で難しい事。ただそれだけでも幸せな事何だと、どうしても今、世界で1番不幸な少女に伝えたかった。しかし、視界が狭まっていく。深い微睡みへと身体が落ちていく。

「い・・・き・・・・・・て」

 微睡みの淵でモニカは精一杯叫んだ。唇が動いた感覚はなく届いたかはもうモニカにはもう解らなかった。

「モ・・・ニ・・・カ・・・?」
 時が凍り付く。肉塊の化物がその腕で穿った小さな体は力無く地面に叩きつけられ、そして奇しくもカリーナの目の前に転がった。カリーナはわなわなと瞳を震わせながら半分になった妹を抱きしめる。
 腕の中で妹の命が消えていくのをただ、感じた。血が抜けて軽くなっていく身体。冷たくなっていく体温。蕾の首は落ちてしまった。その事実だけが、モニカの思いとは裏腹にカリーナを責め立てる。

「わ、たしが・・・?」

 ーー私が殺した。
 自分の内側から己を苛む声がする。自分が殺した。自分があの場で足を挫いたせいで? それともあんな男に目を付けられたせいで? わからない。不理解と理解が入り混じる。ただわかるのは妹が死んだという事実だけだった。

「あ、ああぁぁぁああ・・・! 嫌、嫌、モニカ、死んじゃいや! お願い、お願いだから・・・! モニカァ!」

 生きる希望が、亡き両親との約束が、生きる理由が打ち砕かれ、其処に横たわるのは絶望だけだった。

「こ、こんな・・・こと・・・!」

 ディアはその状況が飲み込めずに言葉を失った。死んだ? 誰が? モニカが? あんなに元気だったあの子が? そんな言葉ばかり浮かぶ。あの一瞬で、まるで風が攫って行ったかのように、モニカは死んでしまった。頭が理解してしまう。嗅覚が告げている。濃い血の匂いが辺りにへばり付き、避けようのない死の残骸を。視界は下半身を失ったモニカの姿を瞳に焼き付け、絶望を教えてくれた。

「・・・もう、もう嫌・・・なにもかも・・・」

 譫言の様に呟いた。目から零した涙は紅く、妹の血で汚れた髪を搔き毟りながら、カリーナは絶望の底へと沈んでいく。其処に慟哭は無かった。全てを失った今、悲鳴は枯れ果て、涙は血に代る。全てが憎かった。両親を奪った世界も、見放した大人も、自分を穢した男も、修道院の何もかもが憎い。だから全てを呪った。消えてしまえば良いと思った。皆死んでしまえばいいと、カリーナは祈った。どうか全てが滅び去ってくれますようにと。
 その瞬間。辺りに蔓延っていた死と呪いは彼女の絶望に応えた。血で濡れた魔法陣は怪しい輝きを放ち、滅紫の閃光が駆け抜ける。雷の様に轟うねり、修道院に沈められていた世界を呪う意思と押しつぶされて来た絶望は力となってカリーナに注ぎ込まれた。

 それは魔法が使えないカリーナが起こした、たった一つの奇跡だった。

「だめだ、駄目だ! カリーナ! 行っちゃダメだっ! やめてくれッ‼」

 ディアの叫びが虚しく木霊した。
 そうして扉は開かれる。この世の理では無かった存在はこの世の理の一部となった。溢れ出したのはこの世界の穢れだ。憎しみ、妬み、嫉み、怒り、そして絶望。それを外界と隔てていた扉は役目を失い、溢れ出した穢れはカリーナという器に注ぎ込まれる。
 絶望だけが彼女に寄り添った。絶望だけが彼女に応えた。絶望だけが彼女の救いだった。だが、それが意味するのは、ディアが見たあの存在、変質した魂の末路に・・・カニスと同じ存在に成り果てるという意味だ。

「カリーナッ!」

 花が咲いた。

 それは紅い薔薇の様に美しく、蕾はしゃなりと花開く。そこにはカリーナだったはずの存在が静かに鎮座していた。

「嗚呼、なんて美しいんだ・・・」

 誰かがそう口にする。その姿は紅い薔薇とは比較にならないほど対照的に白く、まるで陽の日に照らされた修道院の白薔薇の様に、無垢で麗美な形だった。カニスの様な醜悪な肉塊とは違い、ヒト型でありながら、女神の様な穏やかな表情、そして拘束具が付いた両腕と縫い合わされた口と瞳。歪でありながらも美しいその姿は、正しく「天使」の一言に尽きるものだった。

「・・・っ・・・」

 恐ろしい程美しかった。しかしこの世のモノでは無いという実感がひしひしと纏わりつく。
 変貌したカリーナはその羽根を羽ばたかせる様に醜悪な肉塊となったカニスと向き合い、そして間髪を入れずにその指先で泳がす。瞬間。カニスだったものは一瞬で掻き消され、灰となって降り注いだ。

「・・・⁉」

 誰もが息を呑み、静寂の後に理解が訪れた。ほんの数秒前までは最も強い存在は一瞬でその肉体を消し飛ばされ、今では灰となって降り注いでいた。正しく奇跡と呼ぶのに相応しい偉業。彼等から恐怖の象徴を取り除く様は正しくシルヴァントゥスの信じる神の一端の様にも思えた。

「おぉ・・・! 同士シルヴァントゥスはこれを望んだのか!」
「嗚呼! 奇跡! 正しく奇跡よ!」
「〝天使アンゲロス〟だ! 天使は実在したのか!」

「・・・っ・・・・・・違う・・・」

 その様を見てディア以外が賛美を口にする。誰も彼もが先程の事等忘れたかのように、シルヴァントゥスの行いを肯定し、誰も彼もが救われると、カリーナが変貌した存在を「マキナスの使い」「救いの天使」と称し崇め奉っていた。
 だが、ディアは知っている。この存在はもうカリーナでも無くば、彼等の思う救いを与える存在でも無い事を。
 天使はその穏やかな表情で彼等の方へと向き直る。瞼を縫い合わされた瞳はまるで慈しみ祈る様で歪ながらも女神のように思えた。だが

「ギギギギ・・・」

 線が千切れて肉感のある音が鳴り響く。形容し難い音と共に、その瞳は開かれた。

「ひぃっ⁉」

 その瞳は血の色をしていた。瞳孔も無くば黒目も無い、彫像の様に張り付いた瞳は赤黒い眼光を放ち、その瞳からは血の涙が頬を伝う。開かれた口からも赤黒い液体が零れ落ち、その姿は一瞬で天使から魔物テラスへと変貌した。

「オォオオオオッ!」

 その咆哮に誰も彼もが動けなくなった。それは理解し難い音。獣の様な野太い咆哮に女の金切声が混じったかの様で、不安と恐怖と、否定と絶望と・・・それこそが全て彼女カリーナの慟哭そのものの様だった。それは天使の姿をした魔物。「テラス・エンゲロス」と寓話に搭乗する悪夢の存在そのものが、実体を得たかのようだった。空想から抜け落ち、現実に溶かし込まれて器に注ぎ込まれる。
 そして辺り一帯に蔓延っていた茨は彼女の声に応えた。ずるりと鎌首を上げた茨は何の迷いも無く、修道士たちに襲い掛かる。

「い、茨が! 茨が襲ってくる! いぎゃああッ!」

 一つの悲鳴が二つに増え、三つ四つ・・・そして全ての声が悲鳴に変わる。茨はのた打ち回る様に暴れ、横なぎに振るった一撃で女の身体を裂いた。茨は逃げ惑う男の足に絡みつき、その足を引き千切ってから放り投げた。茨は小さな子供の身体を貫き、内側からズタズタに切り裂いた。「痛い」「苦しい」「殺して」「殺さないで」「助けて」「死にたくない」「怖い」そんな言葉と悲鳴がディアの耳を劈く。それはまるでディアがアスタロトに見せられた光景そのものだった。

 気が付けば、そこにはディアしか残っていなかった。

「・・・・・・」

 頬に付いた誰かの血飛沫と、目の前に対峙している圧倒的な存在。カニスだったものにすら勝てなかったというのに、その存在を一瞬で灰に変えた相手。勝てるわけが無かった。ディアは身体から力が抜け、血の海の中にへなへなと座り込んだ。
 挑めば間違いなく自分も死ぬ。挑まなくても殺されるだろう。死ぬのが恐ろしくなったわけではない。ただその頂上的な存在にどう足掻こうが勝てるわけが無いが故に、どうしようもなかったのだ。

 茨は溜まりきった血の海を啜り、その白い花弁を紅く染めていた。嘔吐く程匂い立つ血の香り。ディアがあの日感じたものは全て、今、現実となった。白い花はやがて紅く染まりきり、ヒトの血と肉で構成された薔薇が辺り一帯に咲き誇る。彼等を生かして来た薔薇は彼等を殺して生きてきた。この世界の穢れと怨念を啜り、咲き誇る事こそを予兆として。
 薔薇はずっと咲いていた。全ての真実を内包し、この日を待ち侘びていたかの様に。
 薔薇はディアに語り掛ける。これが絶望であると。これらは全て最初からこうなる運命だったのだと。
 全てが間違っていた。シルヴァントゥス達は開けてはならない扉を開け、そしてこの世界に這い出た存在が、今、ディアの目の前にいる。
 この世界に存在しないものは招かれてしまった。
 この世界に淀んでいた穢れはカリーナを器にして顕現を許されたのだ。扉を封じるための要石は穢れの浸食と生贄になった人間の怨嗟によって変貌し、何時しか生贄を求める棺へと変り果てた。そう、全ては物語が知識と伝説に変ったが故に招かれたのだ。形骸化、劣化、風化した伝説と伝承は廃れ、形を変えて本来あるべき姿を失ってしまった。其処に間違った解釈、出世欲。人の業が重なり糾い。歯車となった結果、導き出された運命の答え。それこそが今目の前に広がっている全てだった。

 頬に付いた誰かの血飛沫と、目の前に対峙している圧倒的な存在。カニスだったものにすら勝てなかったというのに、その存在を一瞬で灰に変えた相手。勝てるわけが無いとディアの身体から力が抜け、血の海の中にへなへなと沈む様に座り込んだ。
 挑めば間違いなく自分も死ぬ。挑まなくても殺されるだろう。死ぬのが恐ろしくなったわけではない。ただその頂上的な存在にどう足掻こうが勝てるわけが無いが故に、どうしようもなかったのだ。

「終わりだ・・・」

 そこにあるがままの絶望に打ちひしがれ、ディアの乾き切った唇は諦めの言の葉を吐き出した。
 此処で死ぬ。定まった事象から目を逸らすことなどは叶わない。自然と諦めがついてしまう。モニカもカリーナもいなくなってしまった。その漠然とした真実と絶対的な力を前にどうすれば良いか等、ディアには見当もつかない。
 だからこそ、ここでヘタリ込み、ただ自分の番が来るのを待つことしか出来なかった。錯乱した頭では視界も定まらず、ただ死ぬという事の意味ばかりを考えている。痛いのだろうか、苦しいのだろうか? 他者に与えて来たものを今、自分に突きつけられ、ディアはその意味を理解した。きっと宿命だったのかもしれない。そうとさえ思えた。だが、そんな時

 今にも掠れ消えそうな声が響く。

「逃・・・げ・・・ろ・・・」

「・・・! ・・・ル、ク・・・?」

 声の主が肩を掴む。震える指先で立つ事すらやっとな身体なのにも関わらず、まるでディアを庇うかのようにカリーナとの間に割り込んだ。

「俺が、なんとか・・・する・・・から、さ」

 途切れ途切れの言葉は不可能を謳う。だが、だがそれでも彼の瞳は

 諦めてなどいなかった。

 何かできるはず。何かできたはず。例え自分が瞬く間に殺されたとしても、誰かに生きる希望を、生きる道を示せるはずだと、物語る。それは絶望の暗闇の中の僅かな光明。星も月も無い暗い夜の小さなカンテラ。淡くて脆くて儚くて、どうしようもない程の安堵を覚える小さな灯。・・・絶望の中を進む術。希望というの名の灯。

「無理だ。無理だよ!」

「そんなことないッ!」

 ルクは傷口を抑えながら叫ぶ。傷口が開き、血が滴ろうとも。
 彼はそんな事を気にも留めず、ただ目の前のディアだけを見据えていた。

「そんなことないよ、ディア・・・ッ・・・! 」

 朦朧とする意識の中、ルクはそれでも命を繋ごうとする。

「そんな事あるだろッ! お前が死んだら僕はどうすればいい⁉ 誰と生きていけば良い⁉ 何をどうしろっていうんだよ‼」

「大丈夫、きっと大丈夫だよ。生きていればきっと」

 あまりにも無責任だった。だが、その無責任な励ましは今持てる精一杯の言葉。今すぐ死ぬよりもずっと良いと、ルクは言葉ない言葉で物語る。ルクはゆっくりと魔物の方へと身を乗り出すと、荒い呼吸を抑えて立ち上がった。

「俺が気を逸らすから、逃げろ、ディア」

 出来るわけが無い。だが、出来るわけが無いといって最初からやらないのは違う事だ。それが例え千に一つの・・・或いは万に一つでも在るとするのであれば、ルクはその最善に全てを賭けようとしていた。例え己が助からなかったとしても。

「・・・わかった」

 ディアは掠れた言葉でそれを受け取った。

「ありがとう、俺の分までどうか生きてくれ、ディア!」

 ルクはそういって笑い、自ら一歩前へと進み出る。魔物はルクと相対すると、ゆっくりと血を吸って重たくなった茨の鎌首を持ち上げた。その茨を鞭の様に振り回せばルク等忽ち消し飛ばされてしまうだろう。そんな事、二人は解りきっていた。ルクは自分の両脇から迫る死の影を見ながら目を閉じる。「嗚呼、死ぬ」と直ぐに理解できた。だがどうか、彼だけには、ディアだけには少しでも幸せに恵まれて、生きていて良かったとーー

「ッ!」

 空気を切り裂く音が鳴り響き、強い衝撃波が辺りを攫う。
 一瞬の沈黙が辺りを支配した後、降り注ぐ瓦礫の雨と巻き上がる煙の中からルクを抱えたディアが飛び出した。

「ッ・・・ディアッ⁉」

「二度とそんなこと言うな! 馬鹿ッ!」

 ルクは驚いた表情を浮かべるも何処か嬉しそうに「悪かったよ」と自嘲気味に呟く。ディアは何が出来るかを捨て、出来る事を選んだ。それは決して立ち向かうような王道でも無く、惨めでありながら困難な茨の道。

「そんな優しさ嬉しく無い! 僕だけ残って何の意味が在るんだよ!」

 モニカもカリーナも、もういない。ディアにはもうルクしか残されていなかった。だが、そのルクさえも居なくなってしまったら、もう彼の名を呼ぶ人間は存在しない。世界広しと言えど、ルクの選択はディアにとっては酷な選択だった。だからディアは「何方も生き残る」を選んだ。その結果二人で死ぬことになったとしても。
 魔物は彼等に手を伸ばす。その白い指先はディアに触れる直前に空を切る。カリーナはまるで走り去っていく彼等を眺める様に呆然と立ち尽くした後に、目から血の涙を零して咆哮を上げた。

「ッ!」

 耳を劈く咆哮を必死に耐えながらディアは礼拝堂から飛び出した。赤錆びた空は雷鳴を孕み、妙に絡みつく様な湿り気を纏った空気が辺りに蔓延り、そこに咲いていたであろう白い薔薇は全て紅く染まっていた。

「どこも血の匂いがする・・・」

 眩暈すら覚える程、それは匂いの枠を超え、毒気を放つ瘴気と言えた。気が狂わせ、忽ちに死ぬ。そう感じさせるほどの猛毒の瘴気だ。だがそんな中をディアはルクを抱えて一心不乱に走り抜ける。止まったら死ぬ。その直感は間違っていなかった。

「追ってくるッ!」

 後ろを見ていたルクが叫んだ瞬間、礼拝堂の入り口が爆ぜた。土煙が上がり、崩れ落ちる礼拝堂から魔物と化したカリーナが這い出てくる。白い両腕を真っ赤に染め、血で煤け汚れたその両手は、赤錆びた空に良く馴染んだ。彼女はその手を逃げ離れていくディアへ名残惜しそうに何度も手を伸ばす。
 ディアは振り返らずに走った。彼女の顔を見たら、止まってしまう。そんな気がしたからだ。ディアは遠くなっては近くなるカリーナの足音を聞きながら地下水路を目指して走った。

「足跡が止んだ? 諦めた・・・のか?」

「・・・今のうちに地下へ行こう。カニスはここから逃げようとしてた・・・街へ繋がってるはず!」

 ディアはそういって地下水路への扉を開き、足早に水路へと転がり込んだ。そこは依然来た時とは打って変わり、鼠の息遣いも、小動物が隠れ潜む音も、何一つ聞こえなかった。しかし二人は気にする余裕も無く、街へと続く道を走り一刻も早く此処から離れようとしたその時。

『ディア、どうしてニゲルノ?』

 ディアの近くに咲いていた薔薇からカリーナの声が響く。それは間違いなく彼女の声だった。聞き間違える筈が無い。ディアは彼女の気配を強く感じてしまった。そしてその声にディアが振り返った瞬間。カリーナは既にそこに居た。

「走れディアッ! 止まったら駄目だっ!」

 ルクが叫んだその刹那、ディアの傍らに咲いていた薔薇が血を吐き出した。零れる血と共にあの血に煤けた白腕がディア目掛けて真っ直ぐに伸ばされる。彼女は茨を伝い、その身体をディアの元へと瞬時に移動させていた。それを理解した時には、その身体の殆どが薔薇から這い出て、ディア達に覆い被さらんとしていた。

「ッ!」

 反射的に飛び退いたディアの足を彼女の白い指先が絡んだ。血で濡れた感覚が足に伝わった瞬間。その指先はディアの足の骨をボキッと、枝でも折るかのようにへし折った。

「ぐああっ⁉」

 訳も分からない突然の痛みにバランスを崩し、ディアとルクは地面に投げ出された。妙な方向に曲がった足は骨が砕け、肉を裂く痛みが脳の奥へと突き刺さる。触れただけだった。掠った瞬間、彼女がその足を掴もうとしただけでディアの足は脆く、渇いた木の枝の様に簡単にへし折れたのだ。逃げる為の足を奪う。そう思えた。

「――っ・・・! ぐう・・・ああ・・・クソっ、動けっ、うごけっ・・・! ここまで来たのにッ」

 足先の鋭い痛みが身体を麻痺させ、無理矢理立ち上がろうとするたびにディアは躓いた。動くたびに足が痛む。まるで燃えているかのようだった。神経を伝い、身体を燃やすこの痛みを止められれば、まだ歩けるのに。そんな意思で歯を食いしばりながら、ディアは地を這いながらカリーナから距離を取ろうとしていた。

『ヒトツになろウ。ディア来テ。ミンナで一緒に』

 それは確かにカリーナの声だった。だが違う。思い出の中のカリーナを浮かべながらその言葉を必死に振り払った。声だけだ。カリーナの心も温かさもこの魔物からは何も感じない。感情の複写で偽物だとさえも思えた。だが、胸に残る確かな違和感は、彼女という確かな存在の気配。本人の言葉に聞こえてしまうのだ。

『ホラ、モニカもイル。よ』

 魔物と化したカリーナのその腹部に不気味な顔が一つ浮かび上がった。その顔は徐々に人の顔を形どり、忽ちにモニカの顔になり、モニカの声で話し始めたのだ。

『ルゥク、ディイア、キテエ』

「モニ・・・カ・・・?」

 確かに彼女はそこにいた。それは豚の悲鳴の様に掠れた声で、確かにモニカの声に聞こえるが何処までも感情の無い引き上げられた上澄みの様な声。本人では決してなかったが、居ると、そう思えてしまった。死んだはずの彼女の声だ。カニスに潰されて死んだ、あの子の声だ。

『ミンナイル、よ?』

 カリーナは恍惚とした声でディアを誘う。それに連なる様に無数の見知った顔がモニカの横に浮かんでは二人を求める音を上げた。

『アアア、オイデよ』『ホシイ。ホシイイ・・・』『ギギギギ・・・』『ヒトツ、ヒトツニィ・・・』

「ッ・・・! ディア、惑わされちゃダメだッ」

「解ってるっ!」

 どぷん、と魔物の身体に浮かび上がった顔達は一斉に引っ込んだ。カリーナは二人を歓迎する様にその両腕を広げて見せる。同化を求めていた。彼女の中に蠢く無数の人の気配。ディアにはそれが感じ取れてしまう。それは恐らくルクも同じだった。
 彼女の言葉の意味は融合を望み、そして自分達もあの一部になって欲しいと、そう告げいるのだ。だが、それは

『ミンナで、ヒトツ、イッショに・・・』

「!」

 ディアはその言葉に応じることは出来なかった。

「ごめん、カリーナ。」

 ディアは折れた足の骨を肉に突っ込み、無理矢理繋げた。大声を上げなければ出来ないほどの強烈な痛みに堪えながら、カリーナと対峙する。まるで感情でもあるかのように、魔物は震えだした。そして地鳴りがする程の悲鳴のような咆哮を上げたかと思うとその腕で身体を書き毟り始める。ブチブチっと肉を裂く様な音が鳴り響き、その強烈な光景にディアとルクは一瞬呆気に取られてしまった。

「何を・・・して・・・?」

 その答えは直ぐにわかった。自らの身体を傷付けた彼女の肉体からは無数の人間の手と足が生え伸びる。にゅるりと血と粘液を纏い、べっとりと重たい音を立てながら複数の手と足は重なり合い繋がれ合う。宛ら屍のドレスだ。彼女は自ら殺した人間の身体をその身に纏っていた。屍のドレスの手は地に指を這わせるとカタカタと動き出しディアとルクを飲み込もうと襲い掛かる。

「っ!」

 ディアは咄嗟にルクを抱えて走り出した。ディアが駆け抜けた瞬間にそれを追う様にカリーナから伸びた腕が地面に突き刺さる。

『ディイイアアッ!』

 絶望に嘆く亡者の様な声でカリーナはその両腕でディアに掴み掛かる。しかしその指の間をすり抜ける様にディアを捉える事は叶わない。カリーナは痺れを切らすと、口を大きく開け、身体を低くした。

「何か来る!」

 それにディアが感付いた瞬間、閃光が奔った。

「っー!」

 それは瞬く間も無くディアの身体を弾き飛ばし、天井を砕いた。

「うわああっ」

 ルクの悲鳴に瓦礫が容赦無く降り注ぐ。
 辺りを沈黙だけが支配する。砂埃に塗れ、砕けた天井からは外の光が漏れていた。その遮光は一人の傷だらけの少年を照らし出す。少年は血に塗れ、白い髪も紅く濡れ、命絶え絶えになりながらもただ必死に僅かに残った希望に手を伸ばしていた。

「ル・・・ク・・・、キミだけは・・・、」

 決意は固まった。後は己の全てをかけて、たった一人を助ける事を選ぶだけだ。

 それが例え、アスタロトの言う様に枯れる林檎だったとしても、今のディアには諦めるという選択肢はなかった。僅かであっても命を繋ぐ。それがどんな意味を持つのか、責任も意味も解らない。でもそれでもたった一人の友人だけには生きて欲しかったのだ。

 ディアは必死に地面を這いながら瓦礫に埋もれたルクを探し出す。咄嗟とはいえルクを投げたが、あの衝撃波を全て消せたわけではない。ルクは元より重傷を負い、満足に動けない身体だった。その上に先ほどの衝撃とくれば、死んでしまっても可笑しくはない。だが、ディアは何処となく彼が生きていると知り、ここで死ぬとも思えなかった。

「っ・・・! カハッ・・・ディ・・・ア・・・? 生きてるのか・・・?」

 命絶え絶えの言葉にルクは酷く安心した。一刻の猶予も無いというのに、彼が生きているというそれだけで強い安心感を覚えたのだ。

「ああ、生きてる・・・よ・・・」

 ディアはもう全身の何処にも力を入れる事が叶わなかった。口を使い、ルクの服を嚙みながら無理矢理その身体を引き摺る事しか出来ない。それが精一杯だった。
 ディアは真っ直ぐ水路へとルクを引き摺る。そこには先ほどの爆発と衝撃で水が氾濫し、激しい流れを生じていた。最後の最後に運がいいと、ディアは思った。

「なぁ、ルク、僕は・・・」

 最後だから全て伝えておきたかった。

「君と友達になれて凄くうれしかったんだ」

「何を、急に・・・?」

「誰にも話しかけられなくて、不気味かられてさ、君と話すまで話し方も言葉も知らなかったんだ。でもルクのお陰で、モニカとカリーナっていう友達が出来て・・・さ。」

「ディア? ディア何を言ってるんだ?」

「君のお陰で、今日まで生きてて良かったって凄く思えるんだ。」

「やめろ、辞めてくれ! 一緒に逃げるんだろ? 一緒に!ここから!っ‥」

 ルクはそこではじめてディアの右腕が無くなっていることに気が付いた。

「ありがとう、ルク、友達でいてくれて。大好きだ。君が守ってくれた分、今度は僕が君を守らせて」

 ディアはそう言って何時もの様に屈託のない優しい表情で笑った。

「やめろ、やめてくれ! そんな事の為に、俺は! 俺はただお前とッ!」

 そんな事の為にお前を助けたんじゃないと、叫びたかった。だが

「さよなら、ありがとう。」

 ルクの叫びも虚しく、ディアはルクを水路へと突き落とした。ルクの身体は忽ち水の中へと落ちていく。遠くなっていく水面に必死に手を伸ばしても身体は激流に攫われ、ルクが必死で水面に顔を出したころにはディアの姿は既に遠く小さくなっていた。

「ディアッ! ディアッーー!」

 まるで二人の間を裂く様に、再び天井が崩落し始めた。崩落する瓦礫は容赦なく二人の間を隔て、その叫びがディアに届くことは無かった。

「はぁ・・・」

 ルクは最後どんな顔をしていただろうか。きっと怒っていただろう。だが、もう目が殆ど見えていなくて助かったと、ディアは思っていた。きっと見てしまったらディアは一人になれなかっただろう。何故なら自分の願いは

『ァァアア、ルクゥ、ガ・・・ イッショ、イッショニ・・・』
 
 彼女と同じなのだから。
 カリーナは必死に流されていくルクを追う様に手を伸ばしていた。その屍のドレスの指先や足先をバタバタと暴れさせながら癇癪の様な悲鳴を上げる。ディアに解っていた。これはきっとカリーナの最期の夢だったのだと。四人出ずっと一緒に居たいという小さく簡単な願いはもう既に手折られてしまった。それは例え彼女が化物になったとしても願い思いつ続ける希望だったのだ。

『ディア、マッテ、テ? ね? アハハハ、スグに、イッショ、ニ、なロウ、ね』

 カリーナは動く獲物を追う蜘蛛の様に身体を動かし、崩れた天井から外へと這い出ようとする。きっとルクを追うつもりなのだろう。きっとすぐに追いつかれてしまう。そしたらディアが必死で逃がしたつもりのルクは忽ちに取り込まれ、そうしてからきっと自分を取り込もうとするのだろう。それはつまり、ルクを殺すと言う事。カリーナは自分のせいでモニカが死んだと思っていた。そのカリーナが修道院の人間を鏖殺し、そしてルクさえも手にかけようというのだ。

「それだけは・・・駄目だ・・・」

 ディアはまだ死ねなかった。もう、これで死んでいいとさえ思えていたが、それに気づいたが故に、こんなに悲しい事はないと思うが故に死ねなかった。

「僕を殺すのはまだいい、僕は君になら・・・って思えるから・・・でもね、でも、それは駄目だ」

 そういってディアは壁伝いに立ち上がる。ディアはこの状況を打開する術を一つ知っていた。それは無意識に避けていた事の一つだったが、もう何かを選んでいる時間は無く、ただ「縋るしかない」という状況だけが答えだった。

「・・・アスタロト! 見ているんだろ! アスタロト!」

『もうすぐ、もうすぐだよ。キミがワタシを求める時が来る。』『そしてキミはワタシの名を口にするんだ』全ての言葉は今この瞬間の為にあった。ディアは見えない目で辺りを見渡し、枯れた声で叫ぶ。

『やっと、ワタシの名を呼んだね、愛しい仔よ』

 そしてその声は直ぐ耳元で囁かれる。ずっと待っていたと言わんばかりに、彼女は恍惚と興奮を隠しきれない様子で傷だらけの彼の声に応えた。

『そう、それでいい。お前は無力な羊だ。羊が羊を逃した所で、狼は逃げた羊も簡単に噛み殺すだろうよ』

 アスタロトはそう言ってルクの命運を嘲り嗤う。彼女にとっては全てがどうでも良い事だった。例えあのルクという少年が死のうが良きようが、カリーナやモニカがどうなろうと知った事では無かった。だからこそ他人事のように淡々と事実だけを配慮も無く告げられる。

「・・・、助けたいんだ・・・、ルクを・・・」

『嗚呼、フフ、そうだねぇ、助けたいねぇ? だが、お前に何が出来る? このまま朽ちていくだけのお前に何ができる? 何が差し出せる?』

 代償無くして得られない。解っていた。ディアという存在はずっとアスタロトが語ってきたように持たざる者だ。持たざる者は何時だって何かを犠牲にして力を得る他に無い。

「わからない、でも・・・、ルクを助けられる為なら・・、なんだって、する。できるんだろ?」

 その言葉を聞いたアスタロトは口角を上げて嗤う。

『嗚呼! 嗚呼そうだとも。ワタシならお前に力を与えられよう。あの娘を殺し、目先1つの命を救うだけの力なら簡単に与えてやれるとも』

 その言葉を聞き、ディアは押し黙る。ルクを守るために本質的に彼女を殺すことになると、アスタロトは望まずともその結果になると告げているに過ぎなかった。

『それとも、今このまま尽きて死に、あの小僧を見殺しにしてみるかい? そしてあの娘にさらに多くを殺させてみるかい? それも見物だ! アハハハ!』

『犠牲を恐れるな。お前は犠牲を出さずに何かを得られる程恵まれた存在ではない。屍の上に立て。お前はこれから多くを積み上げるのだから。屍に埋もれる事を恐れるな。お前はそこから産み落とされたのだから。』

 アスタロトはその螺旋模様の瞳にディアを映し出す。

「・・・わかってる。」

 息を呑んだ。正しい意味で解っていた。それは決して変えられない事実。覚悟はできていた。

「だから、僕に力をくれ」

『フフ、アッハッハッハ! 良いだろう! それに伴い相応しい対価を頂戴しよう。お前は与えられるモノではない。与えられたいと願うのなら代償を差し出すが良い。』

 アスタロトは歓喜の音を上げながらディアの両頬をその細い指先で掬い上げ、お互いの額をくっ付ける。

『綺麗な瞳だ。本当に惚れ惚れする。その瞳をワタシに頂戴?』

 甘く絡む様な声音でアスタロトはディアの左目を求めた。その瞼に口づけをする。

『お前が未来を案じる必要は無い。精々現状を打ち壊すが良い』

 アスタロトはそう言って自身の魔法を展開する。それは契約の儀式だ。彼女の紋章である反転した五芒星がディアの足元に広がり、滅紫の閃光と共に感じたことも無い程の魔力が氾濫する。

『さぁ、汝が真名を告げよ。汝は偽りの戒律を砕く剣。この世界に仇為す者よ。汝が真名と共に、我に供物を捧げるが良い』

 ディアは己の名を知っていた。脳裏に刻まれて離れないその言葉。口にしてしまえば今度こそ元には戻れない。だが、今はそれでもいいと思えた。ディアはただ、今すぐに力が欲しと願う。目の前の存在を滅し、たった一人生き残った友人を守る事の為だけに。

「我が名は・・・ディアボロス! 全てを奪う者なり!」

 ディアボロス。それは聖典に記されし悪魔の王。魔物を統べ、世界に災いと混沌を招く闇より出でし者。それこそが彼の真名であり、彼の命運そのものを指し示すものだ。彼はこの瞬間、悪魔となった。

「この者を滅する、力をッ!」

 そう吠え叫びながらディアボロスは自らの手で左目を抉り出し、引き千切った。悲鳴と咆哮。痛みと熱が脳を焼き焦がし、しかしそれはやがて高揚へと変わっていく。その様を見てアスタロトは微笑み、器の完成に喜んだ。

『嗚呼、やはりお前で正解だった。迷いなく選ぶお前だからこそ意味が在る。お前という存在はたった今生まれたのだ! おめでとうディアボロス! この世界に生れ落ち、そして、ワタシの愛したこの世界を更に知るが良い! そうした果てにお前はマキナスを・・・人が作り出した偽りの神デウス・エクス・マキナを滅ぼす存在へと至るのだから! アッハッハ!』

『ワタシはその瞬間を見届けよう。お前の唯一の神として、お前の傍らでずっと!』

 そう言ってアスタロトはディアが抉り出した左目を貪った。口の中でゆっくりと咀嚼し、そしてごくりと飲み込んだ。その瞬間、魔法陣はより一層力強く魔力を氾濫させ嵐の様に唸る。そして周囲の空気を震撼させるほどの強大な魔力の渦となりディアボロスの器へと注ぎ込まれた。

『ギギギ・・・』

 それはルクを狙っていた魔物すら無視できず、その存在を敵として認識したかのように振り返させるほどだった。屍のドレスを引き摺りながらカリーナは新たに表れた脅威に畏怖したかの様に喉を鳴らす。


『ーーーーーッ!』

 両腕を地面に着き、無数に広がる手と足で地面に己を縛り付ける。弓なりに身体を傾け、魔力を口先に集中させる。そして光が爆ぜた瞬間。ディアの身体を弾き飛ばした光弾を今度は間髪入れずに無数に撃ち放つ。

「・・・。」

 カッ、と閃光が一瞬で辺りが吹き飛ばし、爆発ともに硝煙が立ち上る。間違いなく直撃だった。掠っただけで身体を弾き飛ばす威力を何発も撃ち込まれ、そしてそれらは間違いなく直撃の機動で注ぎ込まれたのだ。しかし、

 煙の中から翡翠の光が溢れ零れた。

 ぬらりと巻き上がる硝煙に人影が浮かび上がった。それは小さな少年の姿のまま、左目から溢れる翡翠の光を讃える。硝煙を切り裂き現れたディアは健在だった。

 しかしその左目は翡翠色に変り眼球は三つに増え犇めいていた。その左目は異形と呼びに相応しい形へと変貌し、右腕を失ったその姿を見れば、誰もがディアもまた魔物であると叫ぶだろう。だが今のディアにとっては些細な事だった。今彼が感じられるのは、圧倒的な万能感と酩酊感。自分でも想像のも及ばない何かが自分の中で蠢いていた。

「・・・やれる。」

 ディアは確信を持った。もう痛みを感じる事は無く、死への恐怖感も今は何も感じない。身体に満ち満ちる力は麻酔の様にディアの感覚を鈍らせる。

『グギギギ、ギャギャギャッ!』

 カリーナは悲鳴のような咆哮を上げながらディアを押しつぶそうとその身体を自ら弾き飛ばし、圧し掛かり潰そうとした。質量では向こうのほうがずっと強大だ。圧倒的なフィジルカから繰り出させられる圧し掛かりは例え外れたとしてもその衝撃波と一撃の重さは想像に難くはない。

「・・・」

 ディアには全てが遅く見えた。力の流れや魔力の流れが見えたわけではない。ただ相手の攻撃の機動が手に取る様に理解できたのだ。あとはそれになぞって身体を動かすだけだった。従って身体はそれに応えるだろう。だが、意識はまだ酩酊の中にありながらも突き刺す様な冷たい感覚がずっと残っている。
 それは絶体絶命からくる感情では無かった。眼前には勢い良く迫る敵が来てもディアは動じない。冷静にドレスに下がった腕を掴み、相手の勢いを利用しただ投げ飛ばす。

 ガシャンッ、と埃と瓦礫が宙を舞い、血で汚れていたカリーナは煤を被り汚れていく。

「・・・ごめんね」

 ディアはもういないカリーナに呟く。彼のその腕には屍のドレスにされていた誰かの腕が握られていた。掠め取ったのだ。

「貰うよ」

 その腕が誰のものかディアには解らない。だが、ディアは静かに目を伏せたままその腕を開いたままの右肩にくっ付けた。

「・・・ッ!」

 神経の走る感覚が痛みとなって体に伝わった。ディアの身体から伸びた肉体は、誰かの片腕と結びつき、そして瞬く間に、失ったはずの彼の右腕に置き換わる。ディアはゆっくりと腕の感覚を確かめながらカリーナを見据えた。

 胸が張り裂けそうだった。

 例えもう知っているカリーナはいないとて、これが例えもう意識も何もないただの魔物だったとて、この存在がカリーナである事には変わりは無かった。例え、この世に新たな理が刻まれ様とも、純然たる事実は変わらない、覆らない。

 彼女はもう誰がどう見ても魔物であり、カリーナだったころの面影を感じ、こんな気持ちで相対するのはきっともう世界どこを探してもディアだけだ。もし仮に自分以外が彼女を殺す事が出来たとて、それは化物退治の英雄の様に至極事務的な感情で、華々しく美しく世界全てから肯定された死を与えるのだろう。そんな死を与えるのはきっと、彼女の慟哭への否定だった。生きた証は何処にも残らない。だからこそ

「・・・カリーナ・・・君を・・・殺すね」

 己の手で終わらせたいと思った。溢れる感情を飲み込みながら、自分が力を手にした瞬間の感情を思い出させる。あの酩酊感に浸り切り、考える間も無く殺せていたらどれだけ良かっただろうか。でもそうは成らなかった。ディアは即座にこの戦いを終わらせることを選び、追撃の姿勢に入る。相手に狙いを定め、一撃で仕留めうる拳を叩き込む事だけを考えた。そして息を吐き、一気に地面を蹴って加速する。

『ギギ・・・ギギギ・・・』

 しかしカリーナはゆっくりとその躯体を起き上がらせる。そして獣の様な咆哮を上げると、自分を中心に魔力を集中させ始める。そして踏み込んできたディアが間合いに入った瞬間、爆ぜた。

「しまっ・・・」

 ディアは衝撃波に苛まれ瓦礫の山へと叩きつけられる。
 カリーナを中心に発生した爆発は天井を砕き、遠くには崩れた礼拝堂が見えていた。破壊された天井からは赤錆びた空が覗き、辺りに充満していた血が滝の様に流れ込む。

「・・・っ、痛・・・」

 今程度の攻撃では死なないと、身体の頑丈さを感じながらディアはゆっくりと瓦礫の中から立ち上がる。しかし其処へ間髪を入れず風を斬る音がディアの鼓膜を叩く。激しい足音が響き、暗がりと血の滝の中からカリーナがディア目掛けて一直線に突進してきていた。

「っ!」

 眼前に迫った巨体をディアは咄嗟に回避した。その瞬間にディアが居たであろう場所は忽ちに破壊され、瓦礫は終ぞ木っ端となって降り注ぐ。この狭い空間では質量で圧倒する相手に利があった。

「分が悪い・・・っ」

 ディアはすぐさま崩れた天井を、外を目指した。ディアを捉えようとする腕を掻い潜り、その腕を足場にして外へと躍り出る。そこは、修道士と戦った礼拝堂の前だった。

「こっちだ!」

 ディアの後に連なってカリーナは破壊された地下水路から飛び出す。着地と同時に辺りに飛び散った血液が薔薇の花弁の様に飛び散る。
 稲妻とカリーナが重なって見えた。その紅く汚れた身体が紅い稲妻に晒され、歪に照り返えす。彼女の蒼い瞳はもう陰も無く、ただ塗りつぶされた瞳は死と絶望を讃える。世界は絵画様の様に美しくない。あの日の彼女がもういない事実は、ディアの心臓を締め付ける。もしもこの世界に神が実在したとてその存在はきっと、誰よりも無常な存在なのだろう。或いはきっと無関心だ。

『ディ、ア・・・イッショに・・・』

「・・・」

 稲妻が二人の間を切り裂いた。そして雨が降るのだ。
 ディアは落ちていた剣を拾い上げるとカリーナに突きつける。
 もう言葉は必要なかった。

 静寂の中で最後の戦いが幕を開ける。

 雷が瞬いた瞬間。ディアは駆けだした。足元で跳ねる雨を踏み分けながら、一直線にカリーナへと突進する。しかし彼女も黙ってみている訳ではない。走り迫りくるディアを破壊せんと溜め込んだ魔力を吐き出す様に幾つもの光弾を打ち放つ。風を斬る音と共に、魔力の弾丸はディアのすぐ横を掠め抜ける。続く光弾を身体を逸らしていなし、彼我の距離を一気に詰める。そして地面を蹴り跳躍した勢いを使い、ディアは刃を振り降ろした。

 ガキン、と鉄と骨がぶつかる鈍い音が響く。カリーナのドレスは人間の腕は骨の鎧でもあった。それを振り回しディアの攻撃を凌いだのだ。そしてそれだけでは止まらない。腕を振り回したその直後に別の腕と足が既に攻撃を仕掛けてくる。

「っ・・・!」

 ディアは一歩ずつ後ろに引きながら迫りくる腕を切り落として距離を取る。しかし腕はいくらでもあり、その攻撃は止むことを知らない。まさに攻防一体だった。そして距離を取れば即座に彼女は光弾をディアに打ち込んでくる。近づけたとしても防がれる・・・これを繰り返し攻めあぐねていた。

 一歩引き、また一歩と引き離され、じりじりと追いやられたディアはこの状況を打開するためにあえて後ろに大きく後退した。一度冷静に敵の行動を観察し、今度こそと剣を構える。
 しかしそれは大きなミステイクだった。視界の端で何かが蠢く。
「っ!」

 反射的に身を翻した瞬間、蔓延る茨が鞭の様にディアに襲い掛かったのだ。バシンッと激しい鞭音の音共に地面が抉れるほどの威力。ディアはその瞬間、相手のテリトリーに入ったのは自分だと悟った。この修道院全体を包む様に咲き乱れる薔薇が、蔓延る茨全てが彼女の武器なのだ。

「クソっ・・・」

 勝てるという確信はあった。だが勝てない。自分が与えられるのは致命傷に至る為のたった一手だ。だが相手は何十も手を持ち、何処からでもディアに攻撃を仕掛ける事が出来る。

「知らないんだ・・・まだ戦い方を・・・」

 力だけでどうにかできる相手ではなかった。だが勝つための知識がディアには無い。今のディアはただ力が強いだけの化物だ。力押しだけではやがて穿たれるのは此方の方だった。

『攻めあぐねているようだね』

 アスタロトの声が響く。彼女はディアの傍らにふわりと現れると、苦戦するディアを眺め嗤う。

「アスタロト⁉」

『戦い方を教えてあげよう』

 アスタロトはそう言って指を振るう。すると彼女の周りには夥しい数の魔法陣が一斉に広がった。一つ一つから感じ取れる強大な魔力は、今のディアでは到底及ばないものだった。そしてそれは一つに収束し、彼女の指先でぐるりと回る。

『魔法だよ、覚え給え』

 パチン、と彼女が指を鳴らした瞬間、ディアにはカリーナの肉体がはじけ飛んだように見えた。否、目では追えなかっただけだが紫電の閃光が槍となってカリーナの身体を貫いたのだ。残留する魔力と、帯電した空気がそれを物語る。圧倒的すぎるが故に答えを教えていた。

「なんだよ、それ・・・」

『魔法だよ。フフ、さぁお前に出来るかな?』

 出来るわけが無い。そう思った。だがアスタロトはその答えを見透かしたかのようにディアの言葉を遮り、言葉を述べる。

『言っただろう? お前は持たざるものだ。どんなに努力を重ねたとて、それが実ることはない。』

『だが。お前には奪う力がある。無いモノは奪え。そしてお前のモノにするが良い。知っているだろう? あの中にいる魔法の才を持った娘を。』

 その言葉を聞いてディアは固まった。その人物はディアの中では一人しか存在しない。

『奪えよ。その為の力だろう』

 アスタロトは耳元でそう囁くと煙の様に消え去った。ディアは息を呑み沈黙の後に眼前を見る。そこにはアスタロトの一撃を喰らい、身体が満足に動かせなくなったカリーナの姿があった。人間で言う下腹部を喪失してはいるが、今まさに身体を繋ぎとめて修復せんとしていた。

「モニカ・・・」

 カリーナという器に注ぎ込まれた世界の穢れ、その渦巻く螺旋の中心に、ディアは確かにモニカとカリーナを感じた。寄り添うように重なり合い、まるで痛みを分かち合う様に、二人はそこにいる。

「・・・ごめん、カリーナ。」

 ディアは自分がこれから行う仕打ちが苦しくなった。きっと怒るだろう。だが、そうしてでもカリーナを止め、ルクを救うとそう決めたのだ。
 そして後はそれを遂行するために走り出す。致命傷になりかねない攻撃で動けないカリーナは必死になって腕を振り回そうとするが、それは先ほどの様な切れ味も無く、むしろディアに直撃させることすら能わなかった。ディアは素早くカリーナに接近すると一瞬の隙を突き、懐に飛び込んだ。そして誰に習った訳でも無く、手を空いての傷口に突っ込んだ。そして自分の中に宿った力を意識しながら、たった一つ己に与えられた権能を行使する。

 それは奪うと言う事。ディアは彼女の体内で何かを掴むとそれを思い切り引き抜いた。

『ギャァァァアアッ!』

 劈く悲鳴と共に、血と穢れた魔力が零れ落ちた。ディアはその手に握られたものを開くと、そこには小さな薔薇が握られていた。否、薔薇の花に見える血の結晶だ。脈打つ様な感覚と共に、ディアはそこにモニカを感じて居た。嗚呼、ここにいる。彼女はここにいる。モニカが、いる。これこそがモニカのカタチだった。紅い薔薇の様に美しく、恵まれた血の美しい色が映える。

『――――ッ!』

 しかしそれを奪ったことでカリーナは狂い始める。身体を書き毟り、傷口を治す事すら辞め、ディアが奪ったものを奪い返さんと大暴れし始めた。それはカリーナにとって最も大切なものだ。例え身体を穢されても、器になって絶望や世界の汚れを注ぎ込まれ、魔物に成り果てたとしても、それでも手放さないとしたもの、彼女の存在そのものだった。それが今、奪われたのだ。怒り狂い暴れ回り、ディアを縊り殺そうとする。

「・・・・・・、ごめんね、モニカ。・・・カリーナの為とか君の為とか、言わない。ただ僕の為に、力を頂戴。」

 ディアは小さな薔薇に話しかける。それに応じる様に小さな薔薇は紅い輝きを放った気がした。

「ありがとう」

 ディアはそれをカリーナの目の前で喰らい飲み込んだ。
 瞬間、身体中に頭の先から指先に至るまで新しい神経が通った様な感覚が奔った。そしてそれは風が吹く理由も、炎が燃える理由も、水が生まれる理由も、雷鳴が轟く理由が直感的にディアに教えてくれる。理屈で知らなかった事も理解できそしてそれを再現できる気がするという漠然とした感覚。そしてそれらはディアにある感情を沸き上がらせた。

「・・・ああ、モニカ、君は本当に凄いんだね」

 人の努力を横から掠めた。無いモノを、才能を奪った事が重たく圧し掛かる。彼女が天才だと言われる理由が解ってしまったからこそ、ディアは苦しくなった。彼女が生きていたらきっと教えてくれた事だ。風が吹く理由も、炎が燃える理由も、水が生まれる理由も、雷鳴が轟く理由も。きっと全て教えてくれた事だった。だが、それは今、ディアの中でのみ、情報として乱反射する。まるで最初から全部自分が知っていたかのような気分だった。

「全部君の言葉で聞きたかった。全部、君に教えてほしかった・・・」

 しかしそんな感傷に浸れる時間はない。怒り狂ったカリーナは咆哮を上げ、空気が震撼させる。そしてそれに連なって大地が揺れたかと思うとディアの足元から無数の茨が地面を砕いて飛び出した。
 モニカを失ったカリーナはもう破壊の衝動を振りまくだけの存在に成り果てる。それは例え身体が圧壊しようと関係ない。アスタロトに与えられた傷等気にも留めず、ただモニカを奪った存在を殺そうとする。

『―――ッ!』

 魔力の波が大きくうねり、緋熱が爆ぜた。

「・・・っ、ぐあっ」

 その爆発の勢いに身体を吹き飛ばされ、ディアは地面へと転がった。今までにない攻撃だった。光弾でも無く、屍のドレスでもない。感じたのは強い拒絶の感情だった。拒絶から連なる否定の魔法。それが恐らくカニスを吹き飛ばした魔法だとディアは直感的に理解した。

「・・・僕を一緒にするのは・・・嫌だな!」

 ディアは焼き焦げた身体を引き摺って立ち上がる。彼女の最も大切なものを奪ったのだから仕方ない。そう解っていても耐え難いものだった。しかしそんな事に感情を裂く余裕は既に無い。間髪を入れず、茨が横薙ぎに振り回され、ディアもろとも薙ぎ払わんとしていた。

「―ッ!」

 ディアは剣でそれを僅かにいなし、その力の向く方向のまま態と吹き飛ばされた。引き飛ばされると解っていればすぐさま行動に移れる。その直感は正しかった。地面に身体を投げ出されながらもなんとかして受け身を取り、態勢を立て直す。しかしカリーナはそこへ容赦なく光弾を打ち込んだ。

「炎よ!」

 ディアはあの日見たモニカの炎を想像する。そして彼の持つ魔力はその想像に応え、火球を生み出した。カリーナの光弾とディアの火球が空中でぶつかり合い、互いを相殺して激しい砲煙を生む。
 一瞬の煙幕にディアは飛び込んだ。そして砲煙を切り裂きながらカリーナへ急接近し、相手の虚を取った。思わぬ奇襲に反撃が遅れたカリーナにディアは容赦なく刃を振り下ろす。

「とった! ―ッ⁉」

 しかし突如としてカリーナは煙の様にその場から消えた。ディアが振り下ろした刃は誰に届くわけも無くただ、虚空を切り裂くだけに終わる。
 意味が解らず困惑するディアを瞬間、死角から伸びた足が勢いよく蹴り飛ばした。

「あがっ⁉」

 奇襲されたのはディアの方だった。ディアの身体は小石の様に勢いよく地面を這寝て転がる。しかしカリーナの攻撃は止まない。ディアの理解を越える速度で、カリーナはディアの転がった先に現れ、その身体を今度は拳で地面に叩きつけた。

「かはっ・・・!」

 地面に叩きつけられバウンドしたディアの身体をカリーナはその足で踏み付ける。地面に身体が沈むほどの強力な脚力で押さえ付け、逃げ場を無くしたところでカリーナは魔力を集中させた。このままディアを完全に薙ぎ払おうというのだ。

「・・・っ!」

 確実な死を予感した。例え肉体を治す術があったとしてもこの距離であの爆発を受けてしまったら一溜りも無いだろう。だが、自分よりも強い力で抑え込まれ、身体の骨はもう何本も壊れてしまっている。そんな状態で何が出来ただろうか。

 何もできない。

「・・・諦めないッ・・・! ルクが教えてくれた事だッ!」

 諦めない。何かできたはずだと己を奮わせる。それが意味のない行為だったとしてもやらない言い訳にはならないのだ。ディアは足の隙間から腕だけを這いだすとカリーナへと向けた。

「猛ける紅蓮よ、大気を喰らいそして爆ぜよっ・・・」

 詠唱を口にする。自分の中に刻まれた誰かの魔法だったが今はどうでも良かった。モニカが行使した魔法とは比べ物にもならないほどの魔力が炎となってその腕に収束する。使い慣れない魔法に全身が悲鳴を上げ、精神が酷く曖昧になり始める。だがそれでも持ちうる全ての力を持って魔法を行使した。

「メギド・フレアッ!」

 大火は起きた。火球はカリーナへと直撃した瞬間に勢いよく爆ぜる。火炎の渦はディアもろとも、カリーナの巨体を飲み込むと火柱となって空をも焼き払った。

 大火が空を焦がし、地に広がる血の海はやがて、火の海へと変り果てる。しかし、その日の海の中に、カリーナはいまだにその存在を留めていた。

「・・・クソッ・・・」

 ディアの決死の一撃は確かにその巨体を一瞬は吹き飛ばし、大きなダメージを与える事となったが、しかしそれでも、彼女は健在だった。彼女の身体を守った茨は燃え尽きて灰となり、その身を守っていた屍のドレスも崩れ落ちる。だが、彼女はまだ死なず、魔力を滾らせたままだった。耐え凌いだのだ。窮鼠の一撃に怯む事無く、ただ相手を葬り去る為だけに。この賭けに勝利したのはカリーナだった。
 ディアは身体中がバラバラに砕ける様な錯覚に襲われ、膝をつく。もう何もできなかった。魔力は底を尽き、深手を負いすぎた肉体はもう彼の言う事を聞くことはない。

「・・・はぁ・・・ハァ・・・まだ・・・、まだッ・・・!」

 立たねばならなかった。少しでも前に進み、彼女を、カリーナを殺さねばならなかった。だが、それと同時に「充分戦った」「善戦はした」「彼もきっと誰かが守ってくれるだろう。」と自らの頑張りを肯定する声が、諦めるに足る肯定の声がする。ディアの本心はもうずっと折れていた。その声は紛れもなく自分の言葉と本音なのは間違いない。
 諦める理由と言葉はいくらでも見つかった。だが、だがそれでも己を奮い立たせ、前に進む術が欲しかった。何故ならそれはルクが教えてくれた事だ。決してディアが奪って得たものじゃない。彼の中の人としての時間に得たたった一つにして最後の希望だった。ディアは自分の胸倉をつかみながら叫ぶ。

「諦めるなっ!」

 自分に向けて叫ぶ。何ができ、何ができないというのは関係なかった。やるか、やらないか。人生は常にその二択しかないのだ。だからディアはやることを選び続ける。例えそれが死ぬに足る理由だったとしても。

『――――ッ』

 カリーナは再び甲高い咆哮を上げる。もう感覚というものは当てにならず、本能も役には立たないが、それでも見据えた相手が今まさに最も強力な一撃を以てして自分を屠ろうとしている事だけは理解できた。彼女を中心に大きく滾る魔力の渦が、再び緋熱を生む。ディアはそれに抵抗する様に死に体を引き摺りながら一歩前に出る。

『グ・・・オォオオッ!』

 彼女の魔力は遂に臨界点に達し、氾濫した魔力が嵐の雷の様に辺りに程奔る。

「カリーナ、モニカ、ルク・・・。僕はーーー」

 緋熱が爆ぜ、修道院諸共ディアを飲み込んだ。その魔力は大きな波となって地面を削り、全てを光の中へと溶かす眩き溶熱。大地を削り全てを燃やし尽くす。正しく彼女が溜め込んだ破壊の衝動とも言える破壊魔法だった。

 しかし、その熱は急速に衰えた。それは決して氾濫している魔力が収まったからではない。寧ろ留まることを知らない濁流の様な魔力は今でも渦巻、そこに存在する全ての物体を押しつぶす力となって乱反射している。

『へぇ、考えたね』

 何かに気付いたのか傍観していたアスタロトは静かに嗤った。大きな力の流れは今だにそこには存在している。しかし緋熱の魔力は突如として跡形も無く消え去った。

「うっ・・・ぐっ・・・」

 その中心にいたのはディアだった。ディアは自らを器として其処に蔓延る全ての魔力を全て力として喰らったのだ。強大な魔力が力となって彼の炉心に注ぎ込まれる。ドクン、ドクンと心臓が脈を打ち、身体中に魔力が、力が程奔る。抑えきれない力の波は濁流となって身体中を駆け巡り、そしてディアの理性を押し流した。

「オオオォォォオオオッ!」

 ディアの瞳から翡翠の光が溢れさせながら文字通り獣の咆哮を上げた。そして腕をだらんとさせながらゆっくりと獲物を見据える。カリーナは相対した脅威に立ち向かう様に残った茨を全て集結させ、そしてそれをディアに差し向けた。無数の茨がディアの急所目掛けて放たれる。

「・・・」

 しかしディアは動かず。ただその場で踏鳴をする。
 その瞬間、ディアに向かっていた茨はその勢いを失った。踏鳴の衝撃波だけでその勢いを完全に殺したのだ。そしてそれはディアの攻撃の合図でもある。
 茨が堕ちるよりも早く、ディアは全速力を持ってカリーナの身体を蹴っ飛ばした。

『グギャアッ!』

 カリーナは軽々しく吹き飛ばされ、重々しい音を立てて地面に転がった。
 ディアは腕をだらんと下げたまま鎌首をもたげる。その翡翠の瞳が映すのは美しい少女だった彼女ではなく、ただの獲物を映し出す。その獲物を仕留めんとディアはゆっくりと歩み出した。灰と瓦礫の大地を進む。ただそれだけで本能的にな畏怖を抱かせる。もしここに生きとし者がいるのであれば、彼こそを魔王と呼ぶだろう。少年という肉体には見合わないまでの肩書を納得させるだけの圧力が今の少年から溢れ出ていた。

『ギギギギ・・・』

 迫りくる脅威にカリーナは反撃に打って出る。歩み寄るディアが射程に入り込んだ瞬間、その身体を茨の中へと落とし込んだ。そして目にもとまらぬ速さでディアの背面に出現する。しかしディアは視線を動かさず、ただ初めから其処に来るのが解っていたかのようにカリーナへ裏拳を叩き込んだ。

 そして一瞬の怯みを与えた瞬間、ディアはカリーナの腕を掴む。そして勢いよく地面に放り投げると、逆手の爪を使い相手の腕を抉り切った。彼女から溢れた血がディアの顔面を覆う。しかしディアは顔色一つ変えない。もぎ取った腕を興味も無さげに投げ捨てると、更に追撃を加えんと手に力を籠める。そして貫手でカリーナを穿とうとした。

『――ッ!』

 しかしそれは彼女の茨に寄って防がれた。だが防いだのも束の間、ディアの攻撃を防ぎきるには能わない。茨の壁はその場で粉々に切り裂かれ、風が逆巻いた。指先を鉤爪の代わりにしてその茨を引き裂いたのだ。

「ヴァア・・ッ!」

 ディアは低い唸り声を上げながら猛進する。切り裂いた茨と彼女の腕を掻い潜り、懐に飛び込んだ。身体が接触する程の至近距離で火炎を爆ぜさせた。
 爆炎が巻き上がり両者を勢いよく吹き飛ばす。転がるカリーナと静かに着地したディアは既に勝敗が決しているかのように見えた。だが、この二人を染める衝動は目に付くすべてが消えるまで収まらない。獣と獣、怪物と怪物の戦いだ。

 しかし終局はやって来た。

 ディアは喰らい尽くし溜め込んだ魔力を解き放つ。身体中から溢れ出ようとする魔力は緋色に輝く。それは拒絶と破壊の衝動そのものだった。その両腕に魔力を集中させながら前に突き出して狙いを定める。とどめの一撃とでもいうべき攻撃を仕掛けようというのだ。だが、カリーナも黙っている訳ではない。その身体を這わせて魔力を充填させ始めた。

『―――ッ!』

 そして咆哮と共にカリーナは緋熱の光線を吐き出した。それは今までの光弾や瞬間的な爆発とは違い、押し流しそして消し飛ばす為だけの魔力の奔流だ。

 そしてその光線はディアを飲み込んだ。緋熱の閃光は瞬く間にその影を消し飛ばし、そしてその遥か後ろの瓦礫を吹き飛ばし、爆炎を上げる。
 しかし砲煙が掃けるとそこには、いまだ健在なディアが居た。攻撃を耐えたのだ。
 ディアはカリーナの攻撃が終わったのを見るとその昂った魔力を一気に腕に集中させた。圧縮された魔力が一気に活性化し、収束し切らずに氾濫し始める。それは緋色の稲妻を抱えているかの様だった。魔力はあたりに狂い弾け、解き放たれる時をただ待っていた。

 そして圧縮された緋色の魔力は臨界点を迎える。

 キンッ、と小さな閃光が彼方で輝いた。それは流星の様な淡く小さな輝き。儚く、見間違えとも思える程の刹那の輝きだった。しかし

 その閃光は瞬く間に魔力の奔流に変った。連鎖爆発の群れを生みながら行き場を失くした魔力たちが対消滅しながら押し寄せる破滅の魔法。滅びの濁流だった。それはカリーナを襲い容赦なくその身体を焼き払い、消し飛ばす。

『キャアァァアアッ!』

 彼女は劈く悲鳴と共にその身体の至る所が爆ぜた。消滅し合いながらも氾濫し続ける魔力は彼女の身体を膨張させては砕きを繰り返す。あれだけ強大だった存在も強大が故にその一撃が致命傷となった。

 そして、カリーナはとうとう斃れた。

 静寂が訪れる。ディアは虚ろな瞳のまま、半身だけの少女の姿となったカリーナへ止めを刺そうと近づいた。「まだ、生きている。敵はまだ生きている。殺さなきゃ、殺さなきゃ。」とそんな漠然とした感覚に突き動かされながら、相手が誰だったかすらも忘れ、歩み寄る。
 そこには灰に変っていく少女の姿があった。薄く閉じられた目。今まさに漸く死にゆけるカリーナの姿があった。その少女は紅く血塗られた瞳を開き、ディアの姿を映す。

「あ・・・ああ・・・、ディ・・・ア・・・」

 その言葉が、声が、仕草が、ディアを正気に戻してしまった。ディアは糸の切れた人形の様に立ち止まると、視線を泳がせる。

「カ・・・リーナ・・・?」
 それは先ほどの魔物が己を呼んだ時の様な惑わせるための声でも無く、ただ本当の、本物の・・・

「カリーナ・・・!」

 彼女の声だった。

「ご・・・め、ん、ね」

 カリーナはぼろぼろのディアを見て何かを察したのかそんな言葉を口にする。目から零れた涙が地面に落ちる頃には灰に変った。もう何もかもが燃え尽きていた。カリーナにはただ己の身体が朽ちて死ぬことだけが分かっていた。だからこそカリーナはディアへと手を伸ばした。最後に伝えたい事が・・・沢山あったから。

「―っ!」

 ディアはその手慌てて取ると彼女の元で膝をついた。

「僕は、僕はただ、君をっ・・・! 君の願いを・・・!ごめん、ごめんね、僕は君を助けたかったのに・・・、僕はッ! 僕はッ!」

「助けられなかった。何もできなかった・・・!」

 ディアはそう言って大粒の涙を零す。ずっと謝りたかった。彼女を傷付け殺してしまう事を。モニカを、カリーナを守れずにこうなってしまったことを。伝えたいことがたくさんあった。だがカリーナは、笑った。それでも嬉しかったのだという様に笑った。
 彼女は最後にディアを感じたから、終らない悪夢に囚われ、絶望の中で自分のカタチさえ全てを失くしてしまったが、それを終わらせて、目覚めたときに居てくれたのはディアだったのだから。カリーナは自分の夢に漸く気が付けた気がした。それは

「そ、ばに・・・いて・・・? ずっと、い、させ・・・て?」

 ずっと傍に居たかった。心から彼が好きだったから、愛したからこそ、ずっと傍に居たかった。彼にだけには幸せになって欲しいと心から願えたからこそ、カリーナは最後の力を引き寄せて彼の涙を拭う。泣かないで、笑っていて、そんな言葉はもう、喉から出てくることはない。だからせめて、涙を拭った。

 ディアは感情を抑えきれず、彼女を抱きしめ、「ああ、ずっと、一緒に居よう」と泣きながら笑って答える。

「・・・あ、りが、とう」

 カリーナは嬉しそうに笑いながらディアの頭を撫でると、彼の手の中で灰へと変わった。

 さらさらと流れる。灰をディアは握りしめた。

「―――――――っ!」

 今度こそ何も残らなかった。全てが灰に還ってしまった。ディアの慟哭だけが赤錆びた空に響き渡る。それに応える様に、空から灰が降り注いだ。しかしそれはこの世界の穢れだった。この世界の人々の嘆きや絶望、排斥されていった汚泥がカリーナという器を失くしてディアに注ぎ込まれていく。それはディアの絶望に呼応したわけではない。彼自身がこの世界の穢れを喰らい溜め込む為の器だからだ。作られた理は、人の意を問うことはない。ただあるがままに従って、彼の心を踏みにじったとしてもそれを行使する。きっと彼はこんな事の為に生を許されていた。

 ディアは打ちひしがれてただ空を仰ぐ。失ったものが手か

 ら零れ、何もかもが消えていく。正しく絶望だった。こんな事なら何も知らないほうがずっと幸せだったとそう思えるほどに。だが自分は生きてしまった。殺して奪って、命を繋いでしまっている。だからこそ自ら命を絶つ選択肢すら何処にも無く、ただ絶望の暗闇だけが広がっていた。

「ああ、・・・おいていかないで・・・」

 そんな言葉を零してディアは灰の中に蹲る。それを慰める様に分厚い雲の隙間から光が差した。崩れ廃墟とかした修道院。血塗られた礼拝堂。そして燃え尽きて残った灰。全ての形が残骸へと変り果てる。ディアは全てを失った。しかし彼の物語はこうして幕を開ける。

 例えすべてが灰に還ったとしても物語は続いていく。

 何故なら物語はまだ始まったばかりなのだから。
 —————

 空が焼けた日の夜。その日は満月の夜だったとされている。一人の修道女が河原を歩いていた。その瞳を覆った包帯からして目が不自由なのは明白だというのに、彼女は確りとした足取りで杖も突かずに踊る様な足取りで河原を散歩していた。

「・・・あら?」

 彼女はスンと鼻を鳴らした。

「・・・陽光の香り・・・。それもとても愛された・・・」

 鼻先に付いた臭いに誘われ、首を傾げて臭いの方向へと歩き出す。そして彼女の歩く先には一人の少年が打ち上げられていた。大怪我をしてはいるものの僅かに繋がれた命の気配。ルクは生きていた。それは幸か不幸かディアが繋いだ最初の命だった。修道女はルクに気が付くと水辺から彼を引き上げる。そして修道女は胸が張り裂けると言わんばかりの表情で、傷付いたルクを抱きしめた。

「ああ、こんなに傷付いて・・・なんて可哀想。ええ、ええ、ちゃんと癒しましょう。貴方の心も体も。えぇ、貴方は愛された人。愛される人。今はどうかゆっくり、おやすみなさい」

 修道女はすぐさまルクを負ぶると病院のある街へと歩み出す。その背中でルクは薄目を開け、静かに「ディ・・・ア・・・」と彼の名前を呟いた。

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みんなの感想(2件)

イカᔦꙬᔨ
2023.06.14 イカᔦꙬᔨ

情景の表現が綺麗で、また目に浮かぶようなのに、それに対比する様にヒトに対する表現は残酷で、とても引き込まれました。
また、話がどのような方向に進むのか、とても楽しみです。

解除
negi
2023.06.08 negi

作品を一貫する、詩的な言葉の響き、ダークな雰囲気、それらに対するこだわりが感じられます。
キャラクターひとりひとりの純粋さと、それと対比するような世界観の暗さがいいコントラストを出しています。
あえて硬く書かれた文体も世界感にマッチしていて、ダークファンタジーとしての質感をじっくり味わえる硬派な作品です。

解除

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