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緋色と灰の物語
3.萌動 ─Lumen Omen─
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時を隔てる空の色が茜色に焼け落ちた頃。ディア達孤児は無事何事も無く、白薔薇の修道院に預けられる事となる。レアニスはこの一件に終止符を打つも、何処か浮かない表情で小さくなる修道院をただ茫然とした表情で眺めていた。
帰還するレアニス達の馬車に向けて手を振っていたルクもディアも見えなくはなったが不思議と安心感は覚えられず、レアニスは苦悶した表情を浮かべる。
「・・・気になりますか?あのディアって子」
そう話しかけてきたのはレアニスの部下だ。彼もまた馬車の中から遠くなる修道院を眺め、似た様な感慨に浸っていた。レアニスは彼の言葉を首肯し、重くなった口を開く。
「貴殿は、どう思った?」
「・・・私はなんでしょう。何とも言えない気持ちになりました。その、あんな傷を負った子供が生きているだなんて信じられませんね。生まれ持った傷痕なのでしょうか」
確かにその通りだ。もしあの傷が生後の傷であるならば生きているのはやはりあり得ない話だ。いくら発達した魔法があるとはいえ、あれほどの火傷を負って生きている者等、まず存在はしないだろう。ましてや子供だ。しかしそれ以上に何かが引っ掛かる様な物を覚えて仕方が無かった。レアニスは部下の言葉を聞いてもなお腑に落ちない様子で「ああ、そう、か」とだけ相槌を打つ。感情の正体と理由はまだわからないが、それ以上にこの胸の感覚をどうにも吐き出さずにはいられなかった。レアニスは外の景色を眺めながら雨の一滴のような言葉を零した。
「私はそれ以上に、あの少年からは名状し難い何かを感じたよ」
数週間後
修道院での生活に漸く慣れてきた頃。ディア達を取り巻く環境は大きく変わっていた。
「化物っ!綺麗にしてやるよ!」
それは見るに堪えない光景だった。その掛け声とともにディアの頭上から水が落下する。ジャバっと音を立て、地面に広がる汚水と髪の毛にこびり付く様な異臭。この行為を行った犯人たちは「くっせ~!」とディアを嘲笑するとその頭に雑巾を投げつける。
ディアはそれに言葉も無く、ただジっと少年たちを見据えるだけだった。やり返すことも無く、ただジっと。突き付けるような視線だけを向ける。当然いじめっ子にはそんなリアクションは面白くはない。
「な、なんだよコイツ・・・やっぱり気持ち悪い」
ディアはその見た目から虐めを受けていた。全身を覆う火傷が不気味だとか、髪が白くて紅い目が気に入らないだとかその様な些末な理由だ。そう。子供たちにとって理由はそれだけで良いのだ。寧ろそれくらいの方が良かった。そういった不気味さは多くの意志を統率する本能的かつ直感的な分かりやすい差別行為だ。虐める側の味方は常に多く、ディアは孤立する。孤立した存在はいつだって弾かれた方が悪いと大人も取り合うことは無い。
当然人にはない傷痕を持つディアはその見た目から恰好の的となる。家族を戦争や様々な理由で失いフラストレーションの溜まった子供にとって、その最も醜く汚れた感情の矛先に、ディアは正しく持って来いの存在だったのだ。そして簡単な残酷さは、最初からレールとして敷かれていた。彼が此処に来て間もなくしてから誰も彼を知ろうとしたことは一度も無い。そう、彼自身を最初から異形の怪物と見て誰も彼もが目を背けていたのだ。ただ独りを除いて。
「ディア!」
けたたましい声が響く。その声の主は怒りに満ち溢れ、今にも虐めっ子達に殴りかかりそうな勢いで此方へと走って来た。
「ッチ!またルクが来やがった!オイ人形野郎!また助けてもらってよかったな!臆病者!」
「臆病者!」
彼らはディアがやり返さない事をいい事に臆病者だなんだと罵るも、ルクを見ては逃げ出してしまう。彼らとルクはディアを廻り喧嘩に発展したことが何度もあった。しかし誰一人としてルクには勝てず、今の様にルクが来たら虐めを辞めて彼らは一目散に逃げてしまう。解り易い力の序列が形成されていた。
「ディア、大丈夫か?」
ルクは近くに乾いた布が無いのを判断すると自分の服を脱ぎディアの頭にかけてわしわしと強く拭いた。その突発的な行動にディアも驚き思わず口を開く。
「い、痛いってルク!大丈夫だから!」
「そんなこと言ったって、風邪ひいたらもっと面倒臭いだろ?」
ルクは濡れた衣服を抱えて上裸姿のまま得意げに述べる。しかし薔薇の咲く季節とはいえ、此処はまだ夜も寒ければ、風も時々その冷たさを思い出す程なのだ。だからこそ濡れたままでも上裸でも風邪をひくことには変わりない。
「そうだけど、ルクも風邪引くんじゃない?」
「俺は大丈夫だよ、丈夫だから・・・くしゅっ!」
解りやすいルクのくしゃみを見て、ディアは呆れた様に笑い、ルクの服を手に取り風に晒して乾かし始める。自分のことを放っておけばこんな風にくしゃみすることも無かったのに、と申し訳なさがディアの心の中で根を張っていく。それはディアの心を時々、痛めつけるのだ。それに比べれば悪意だけの彼らの虐めなど、ディアにとっては取るに足らないものだった。
「ほら言わんこっちゃない・・・僕の事は良いのに。君は何時もそうだ」
いつも助けてくれる。自分のことを放っておいて自分の為に時間を使えばいいのに、彼は何時も自分が虐められていると駆けつけてくれる。駆けつけてしまう。
「友達にあんなことされてたら見過ごせないよ」
即答が、ディアの心を揺さぶった。
「・・・、ありがとうルク。何時も助けてくれて」
その純粋な言葉淡い花の様に美しく、健気で尊いものだった。ルクの献身をディアは否定しない。それ以上に覚えた感謝の念は、何時でもディアの心を照らしてくれるのだから。
「えへへ、本当はみんなで仲良くってのが一番なんだけどさ。そううまくいかないよね。ディアは優しくて面白いって事、アイツら知ろうとすらしないんだ」
ディアはルクのことを此処にいる誰よりも知っている。だからこそ、その言葉の意味をそのまま受け取ることが出来た。ルクが彼等に激怒して喧嘩さえ厭わなかった理由はきっとこれだったのだ。理解をすることも無く、ただ見た目だけで物事を決めつける。子供の特権にルクは噛み付いたのだ。思い返せばルクはしきりに「ディアのことを何も知らない癖に」と彼等に怒鳴っていたの思い出す。確かに日は浅いが、何故だろうかずっと昔の幼馴染の様にお互いのことを理解し合っている。だからこそ、ディアは思った。逆の立場だったらどうしただろうか?そう心に問いかける。
「君だって、僕と関わらなければ彼等と仲良くできたんじゃないのかい?」
「そんなのは嫌だ。ディアは此処で出来た初めての友達なんだ。君を置いてなんて俺にはできないよ」
ああ、きっと自分は同じ事をするだろうと、ディアは強く確信する。ルクと同じ様に彼を守り、寄り添い、皆と打ち解け暮らせたら、きっと幸せだっただろう。だが幸せを手招いていてもやってはこないものだ。
「・・・、なら僕も頑張るよ。彼らは苦手だけど、ルク以外とも、誰かと話せるように・・・さ。上手く話せるかな・・・?」
ディアは決心する。それは小さな子供が掲げた小さな目標。目先の大きな壁のお話だ。
「ディアならできるよ。だって今のディアはだいぶお喋り上手になったしね」
初めて会った時の様な舌ったらずは無くなっていた。今ではすんなりと言葉も出る様になり、ルクとディアのコミュニケーションはとても円滑な物となっていた。ルクがあの日ディアに話しかけてくれたおかげで、今日に至るまで変わらず彼と接してきてくれた事の恩寵とも言うべき成果だ。
「それも君のお陰だね、ルク。もし僕に友達が出来たら、その時は真っ先にルクに紹介するよ。僕の友達に、僕の友達を知って欲しいんだ」
「アハハ!俺もディアの友達なら会いたいなあ!絶対紹介してくれよ」
穏やかな笑い声が響く中、風に混じって泣き声が耳を撫でる。それは幼年の少女の泣き声で、ディアとルクは互いにその声に何処か聞き覚えを感じた。
「ディア、チャンスだよ!一緒に見付けてあげようよ!」
ルクは宝探しでもするかの様に目を輝かせるとディアを誘う。
「えぇ!?でも、僕みたら余計泣いちゃうかも・・・」
「何言ってんだよ!大丈夫だって!」
ルクはそう言ってディアの手を掴み走り出す。わっとディアが空気を飲むも束の間に、二人は声の主を探して辺りを駆け回る。
「うぅ・・・」
その声の主は薔薇園の中にいた。一面の白い薔薇に囲まれたその中で、その美しい花弁を讃えた花々が彼女を慰める様に甘い香りを匂わせる。しかしその中でディアは少しだけ異質な臭いに気が付いた。
「・・・血の匂いだ。怪我をしてるかもしれない」
「鼻が良いんだなあ。それじゃあ俺、なにか布を貰ってくるよ。頑張れ!ディア!」
ディアの言葉にルクは感嘆を漏らすと、ディアの背中を強く押す。思わずよろめいたディアは迷惑そうにルクを見るも、彼は応援の言葉を一方的に投げかけ後先構わず走り去ってしまった。
「・・・はぁ・・・、ああいうところあるんだった・・・でも、大丈夫、大丈夫、怖がらせない様に・・・」
ディアは慎重に足音を殺しながらゆっくりと声の主に近づく。茨の道に切り裂かれない様に開けた庭先へと足を運び、声の主を見つけ出す。茨の道を越えたその先には、一輪の赤い薔薇が咲いていた。薔薇の様に透き通った肌と、滑らかで美しい紅い髪。朝露の様な涙を零しながら、その指先から紅い花弁がひらりと零れ落ちる。
「だ、れ?」
彼女はディアに気付きゆっくりと振り返る。ディアはその光景を見惚れていたとはいえず慌てて言葉を探した。
「あ、えっと・・・、あ・・・の、だい、じょうぶ?」
その目に焼き付いた姿には覚えがあって当然だった。何故なら彼女はあの日、同じ馬車に乗っていた姉妹の妹なのだから。名前さえも知らなかったが、お互い顔は知っていた。そんな不思議さに心を奪われあい、暫く言葉を失いお互いに困り始めた頃、救いの声が響く。
「おーい、ディア!包帯貰ってきたよ」
「あ、ありがとうルク」
遠くからかけて来たルクからディアは包帯を受け取るとその場でひざを折り、少女と視線を合わせた。
「怪我、してるでしょ?見せてくれる?」
なるべく優しく、丁寧に、視線を合わせてディアは少女に問う。一方少女は知ってるのに知らない顔が多く並んだせいで、すっかり緊張し、泣くことをも忘れてしまった様子で、コクコクと人形の様に硬い首肯を繰り返しながら怯える様に手を差し出した。
少女が緊張しているうちにディアは手早く包帯を巻き、止血を施した。その足元には一輪の薔薇が、少女の血を浴びて赤く染まって転がっている。ディアがその薔薇を拾うと、ぽたりと飲み込み切れなかった血液を肉厚の花弁が吐き出した。
「あ・・・お姉ちゃん・・・」
決して自分が欲しかった訳でも理由の無い好奇心だけでも無かった。あげたい人がそこにはいて、姉に渡したかった薔薇が、血で汚れているのを見て少女は酷く落胆した。痛い思いをして採ったというのに、これではまるで意味が無い。心細さが込み上げて泣き虫な少女はまたポロポロと目から涙を零し始める。
「茨で切っちゃったんだね?もう大丈夫?痛い所はない?」
ルクは優しく視線を合わせ、その頭を撫でながら、少女を宥めようとする。少女は言葉を無くしてコクコクと頷いた。きっとあまり他人と触れ合って来なかったのだろう。人見知りの少女は緊張し硬い人形様な動きで狼狽え始める。そんな時だった。
「モニカ、モニカ何処?」
姉の声がディア達の耳に届いた。モニカ、そう呼ばれた紅い髪の少女はパっと顔を明るくして顔を上げると声の方へと走り去る。
「お姉ちゃん!」
モニカは元気いっぱいに勢いよく、姉のひざ下に飛び付く。其処にはディア達よりは少し年上の少女が心配した表情でモニカを探していた。少女はモニカの手の包帯を見るとその手を優しく握りながら視線を合わせ、慈愛に満ちた声で話し掛ける。
「怪我したの?大丈夫?」
「ぅう、痛かった・・・けど」
怒られたのかと思ったモニカは声をくぐもらせる。顔は見たことはあるのに名前を知らない人物たちをどう紹介すればいいかわからなかったからだ。モニカが言葉に困っているとモニカの後を追ってきたディアが顔を見せ、不意に視線が絡んだ。
『あっ』
風がそよいでモニカの姉の髪を撫でた。さらりと空を泳ぐ紅い髪は幻想的な美しさを秘め、彼女のその顔立ちはモニカにもよく似ていた。蒼い瞳を少し伏せながら、少女はディアを少しずつ思い出す。
「た、確か同じ馬車・・・の」
「う、うん」
気まずい空気が重たく圧し掛かる。お互いにあまり良い記憶では無いのは確かだった。
「あのね、お姉ちゃん、白い人が治してくれたよ!」
モニカにはそれが解らなかったらしく、明るく健気な声で自分の手を見せる。ディアは申し訳なさそうに会釈をするとモニカの姉も合わせて申し訳なさそうに会釈を交わした。
「妹が・・・すいません。お世話になってしまったみたいで、あ、私はカリーナっていいます。こっちは妹のモニカ。ほら、モニカ、ちゃんとお礼言って?」
カリーナ、そう名乗った少女はモニカにお礼を言う様に施す。モニカは面と向かって話すのが苦手なのか、先ほどの明るさを既に落とし、カリーナのスカートの裾をつまみながら小さく細々とした声で「ありがとう」と口にした。
「僕は、ディア。此方こそ、大した怪我じゃなくてよかったよ」
ディアはそう言って、モニカに視線を合わせてその頭を優しく撫でる。そして、白いドレスで着飾った大輪の美しい薔薇を一つ手折るとモニカに差し出した。
「お姉ちゃんに上げたかったんでしょ?」
「!」
ディアの言葉にモニカは姉と話す時の様に顔を明るくし大きく頷く。ディアは茨を取り除いた薔薇をモニカに持たせると、モニカはカリーナのスカートの裾を引っ張り、ひざを折らせる。視線がようやくあったカリーナにモニカはゆっくりとその薔薇を髪留めの様に彼女の髪に飾って見せた。
「お姉ちゃん、いつもありがとう!」
その言葉を聞いて、カリーナは一瞬目頭が熱くなった。ゆっくりとモニカがつけてくれた薔薇の髪飾りに触れながら、モニカを思い切り抱きしめる。
「あ・・・、あはは、ありがとうモニカ!・・・すっごくうれしい。誕生日、覚えていてくれたんだね」
それはきっと、二人で歩いて来てから初めてカリーナが感じた本当の喜びだったのだろう。カリーナの心からの喜びの声が、モニカにも伝わり、二人は年相応の幼い表情ではしゃいだ笑みを浮かべているように、ディアには見えた。その光景は余りに優しく温かいもので、胸に突き刺さった冷たい棘を溶かし、憧れさえ抱かせる。
「・・・、あの、ありがとうございます。ディアくん」
「あ、いや・・・ううん、どういたしまして」
「・・・今度、お礼をさせてください。何ができるかはまだわかりませんけど・・・何か・・・」
それはディアにとって願ってもいない申し出だった。恩に託けてこんなことを言うのはきっと差し出がましいと思ってしまうが、それぐらい望んでもきっとバチは当たらないだろう。それにルクならきっとそうしただろう。だから大きくは望まず、小さな事をディアは求めた。
「あ、それだったら・・・、今度は落ち着いてお話し、したい、な。僕はその、友達があんまりいなくて・・・だから」
本当のことだった。ディアにはルクしか友達がいない。自分で言っていて悲しくなるが本当の事なのだ。カリーナはそのイジらしく目を背けるさまを見て、思わず吹き出した。
「あはは!面白い人なんだね、ディアくんって!うん、それじゃあ明日またここで会いましょう。モニカと私と、ディアくんで」
「・・・うん、モニカも、ディアと、お話ししたい。今日はありがとう、ディア」
「どういたしまして」
ディアは感謝の言葉を始めて受け取った。それが満たした胸の内は、春の日差しの様な温もりで、ルクと初めて話した時のそれとよく似ていて、それでいて、心臓が早くなる気がしていた。
カランカランと、修道院の鐘が鳴る。それは彼らがそれぞれ自分の部屋へと返らねばならい時間を知らせる別れの鐘。
「それじゃあ、また明日」
モニカとカリーナは踵を返すと二人そろって同じ方向へと歩いていき、夕焼けの中へと消えて行く。ディアはその様子をぼんやりと眺めてしまっていた。二人の姿は何処か一枚の絵画の様。悲しい世界に彩られた一枚の温かな情景は誰かが手中に収められるようなものでは決してなかった。
「また、明日」
それはお呪いようなものだった。そう口にすれば明日また会える。そう願って口にした。
「・・・よかったな!ディア!絶対仲良くして来いよ!」
二人が居なくなった後、ずっと沈黙を保っていたルクが自分の事の様に喜び、ディアを祝福した。
「ありがとう、ルクのお陰だよ」
「謙遜しすぎだって!お前の努力だよ。これは本当に!さぁ帰ろう。明日も修道院の掃除や仕事はあるんだしさ!」
「うん。帰ろう。明日が楽しみだ」
二人もそうして夕焼けの背にその場を去って行く。楽し気なその背中を沈み行く太陽が照らしている。暗天と星空のヴェールは、今は優しく彼等を包み明日へと誘うのだろう。
しかし種は成長していくものだ。知らぬ間に芽吹き、根を張っていることを、この時は誰も知らないだけだった。
帰還するレアニス達の馬車に向けて手を振っていたルクもディアも見えなくはなったが不思議と安心感は覚えられず、レアニスは苦悶した表情を浮かべる。
「・・・気になりますか?あのディアって子」
そう話しかけてきたのはレアニスの部下だ。彼もまた馬車の中から遠くなる修道院を眺め、似た様な感慨に浸っていた。レアニスは彼の言葉を首肯し、重くなった口を開く。
「貴殿は、どう思った?」
「・・・私はなんでしょう。何とも言えない気持ちになりました。その、あんな傷を負った子供が生きているだなんて信じられませんね。生まれ持った傷痕なのでしょうか」
確かにその通りだ。もしあの傷が生後の傷であるならば生きているのはやはりあり得ない話だ。いくら発達した魔法があるとはいえ、あれほどの火傷を負って生きている者等、まず存在はしないだろう。ましてや子供だ。しかしそれ以上に何かが引っ掛かる様な物を覚えて仕方が無かった。レアニスは部下の言葉を聞いてもなお腑に落ちない様子で「ああ、そう、か」とだけ相槌を打つ。感情の正体と理由はまだわからないが、それ以上にこの胸の感覚をどうにも吐き出さずにはいられなかった。レアニスは外の景色を眺めながら雨の一滴のような言葉を零した。
「私はそれ以上に、あの少年からは名状し難い何かを感じたよ」
数週間後
修道院での生活に漸く慣れてきた頃。ディア達を取り巻く環境は大きく変わっていた。
「化物っ!綺麗にしてやるよ!」
それは見るに堪えない光景だった。その掛け声とともにディアの頭上から水が落下する。ジャバっと音を立て、地面に広がる汚水と髪の毛にこびり付く様な異臭。この行為を行った犯人たちは「くっせ~!」とディアを嘲笑するとその頭に雑巾を投げつける。
ディアはそれに言葉も無く、ただジっと少年たちを見据えるだけだった。やり返すことも無く、ただジっと。突き付けるような視線だけを向ける。当然いじめっ子にはそんなリアクションは面白くはない。
「な、なんだよコイツ・・・やっぱり気持ち悪い」
ディアはその見た目から虐めを受けていた。全身を覆う火傷が不気味だとか、髪が白くて紅い目が気に入らないだとかその様な些末な理由だ。そう。子供たちにとって理由はそれだけで良いのだ。寧ろそれくらいの方が良かった。そういった不気味さは多くの意志を統率する本能的かつ直感的な分かりやすい差別行為だ。虐める側の味方は常に多く、ディアは孤立する。孤立した存在はいつだって弾かれた方が悪いと大人も取り合うことは無い。
当然人にはない傷痕を持つディアはその見た目から恰好の的となる。家族を戦争や様々な理由で失いフラストレーションの溜まった子供にとって、その最も醜く汚れた感情の矛先に、ディアは正しく持って来いの存在だったのだ。そして簡単な残酷さは、最初からレールとして敷かれていた。彼が此処に来て間もなくしてから誰も彼を知ろうとしたことは一度も無い。そう、彼自身を最初から異形の怪物と見て誰も彼もが目を背けていたのだ。ただ独りを除いて。
「ディア!」
けたたましい声が響く。その声の主は怒りに満ち溢れ、今にも虐めっ子達に殴りかかりそうな勢いで此方へと走って来た。
「ッチ!またルクが来やがった!オイ人形野郎!また助けてもらってよかったな!臆病者!」
「臆病者!」
彼らはディアがやり返さない事をいい事に臆病者だなんだと罵るも、ルクを見ては逃げ出してしまう。彼らとルクはディアを廻り喧嘩に発展したことが何度もあった。しかし誰一人としてルクには勝てず、今の様にルクが来たら虐めを辞めて彼らは一目散に逃げてしまう。解り易い力の序列が形成されていた。
「ディア、大丈夫か?」
ルクは近くに乾いた布が無いのを判断すると自分の服を脱ぎディアの頭にかけてわしわしと強く拭いた。その突発的な行動にディアも驚き思わず口を開く。
「い、痛いってルク!大丈夫だから!」
「そんなこと言ったって、風邪ひいたらもっと面倒臭いだろ?」
ルクは濡れた衣服を抱えて上裸姿のまま得意げに述べる。しかし薔薇の咲く季節とはいえ、此処はまだ夜も寒ければ、風も時々その冷たさを思い出す程なのだ。だからこそ濡れたままでも上裸でも風邪をひくことには変わりない。
「そうだけど、ルクも風邪引くんじゃない?」
「俺は大丈夫だよ、丈夫だから・・・くしゅっ!」
解りやすいルクのくしゃみを見て、ディアは呆れた様に笑い、ルクの服を手に取り風に晒して乾かし始める。自分のことを放っておけばこんな風にくしゃみすることも無かったのに、と申し訳なさがディアの心の中で根を張っていく。それはディアの心を時々、痛めつけるのだ。それに比べれば悪意だけの彼らの虐めなど、ディアにとっては取るに足らないものだった。
「ほら言わんこっちゃない・・・僕の事は良いのに。君は何時もそうだ」
いつも助けてくれる。自分のことを放っておいて自分の為に時間を使えばいいのに、彼は何時も自分が虐められていると駆けつけてくれる。駆けつけてしまう。
「友達にあんなことされてたら見過ごせないよ」
即答が、ディアの心を揺さぶった。
「・・・、ありがとうルク。何時も助けてくれて」
その純粋な言葉淡い花の様に美しく、健気で尊いものだった。ルクの献身をディアは否定しない。それ以上に覚えた感謝の念は、何時でもディアの心を照らしてくれるのだから。
「えへへ、本当はみんなで仲良くってのが一番なんだけどさ。そううまくいかないよね。ディアは優しくて面白いって事、アイツら知ろうとすらしないんだ」
ディアはルクのことを此処にいる誰よりも知っている。だからこそ、その言葉の意味をそのまま受け取ることが出来た。ルクが彼等に激怒して喧嘩さえ厭わなかった理由はきっとこれだったのだ。理解をすることも無く、ただ見た目だけで物事を決めつける。子供の特権にルクは噛み付いたのだ。思い返せばルクはしきりに「ディアのことを何も知らない癖に」と彼等に怒鳴っていたの思い出す。確かに日は浅いが、何故だろうかずっと昔の幼馴染の様にお互いのことを理解し合っている。だからこそ、ディアは思った。逆の立場だったらどうしただろうか?そう心に問いかける。
「君だって、僕と関わらなければ彼等と仲良くできたんじゃないのかい?」
「そんなのは嫌だ。ディアは此処で出来た初めての友達なんだ。君を置いてなんて俺にはできないよ」
ああ、きっと自分は同じ事をするだろうと、ディアは強く確信する。ルクと同じ様に彼を守り、寄り添い、皆と打ち解け暮らせたら、きっと幸せだっただろう。だが幸せを手招いていてもやってはこないものだ。
「・・・、なら僕も頑張るよ。彼らは苦手だけど、ルク以外とも、誰かと話せるように・・・さ。上手く話せるかな・・・?」
ディアは決心する。それは小さな子供が掲げた小さな目標。目先の大きな壁のお話だ。
「ディアならできるよ。だって今のディアはだいぶお喋り上手になったしね」
初めて会った時の様な舌ったらずは無くなっていた。今ではすんなりと言葉も出る様になり、ルクとディアのコミュニケーションはとても円滑な物となっていた。ルクがあの日ディアに話しかけてくれたおかげで、今日に至るまで変わらず彼と接してきてくれた事の恩寵とも言うべき成果だ。
「それも君のお陰だね、ルク。もし僕に友達が出来たら、その時は真っ先にルクに紹介するよ。僕の友達に、僕の友達を知って欲しいんだ」
「アハハ!俺もディアの友達なら会いたいなあ!絶対紹介してくれよ」
穏やかな笑い声が響く中、風に混じって泣き声が耳を撫でる。それは幼年の少女の泣き声で、ディアとルクは互いにその声に何処か聞き覚えを感じた。
「ディア、チャンスだよ!一緒に見付けてあげようよ!」
ルクは宝探しでもするかの様に目を輝かせるとディアを誘う。
「えぇ!?でも、僕みたら余計泣いちゃうかも・・・」
「何言ってんだよ!大丈夫だって!」
ルクはそう言ってディアの手を掴み走り出す。わっとディアが空気を飲むも束の間に、二人は声の主を探して辺りを駆け回る。
「うぅ・・・」
その声の主は薔薇園の中にいた。一面の白い薔薇に囲まれたその中で、その美しい花弁を讃えた花々が彼女を慰める様に甘い香りを匂わせる。しかしその中でディアは少しだけ異質な臭いに気が付いた。
「・・・血の匂いだ。怪我をしてるかもしれない」
「鼻が良いんだなあ。それじゃあ俺、なにか布を貰ってくるよ。頑張れ!ディア!」
ディアの言葉にルクは感嘆を漏らすと、ディアの背中を強く押す。思わずよろめいたディアは迷惑そうにルクを見るも、彼は応援の言葉を一方的に投げかけ後先構わず走り去ってしまった。
「・・・はぁ・・・、ああいうところあるんだった・・・でも、大丈夫、大丈夫、怖がらせない様に・・・」
ディアは慎重に足音を殺しながらゆっくりと声の主に近づく。茨の道に切り裂かれない様に開けた庭先へと足を運び、声の主を見つけ出す。茨の道を越えたその先には、一輪の赤い薔薇が咲いていた。薔薇の様に透き通った肌と、滑らかで美しい紅い髪。朝露の様な涙を零しながら、その指先から紅い花弁がひらりと零れ落ちる。
「だ、れ?」
彼女はディアに気付きゆっくりと振り返る。ディアはその光景を見惚れていたとはいえず慌てて言葉を探した。
「あ、えっと・・・、あ・・・の、だい、じょうぶ?」
その目に焼き付いた姿には覚えがあって当然だった。何故なら彼女はあの日、同じ馬車に乗っていた姉妹の妹なのだから。名前さえも知らなかったが、お互い顔は知っていた。そんな不思議さに心を奪われあい、暫く言葉を失いお互いに困り始めた頃、救いの声が響く。
「おーい、ディア!包帯貰ってきたよ」
「あ、ありがとうルク」
遠くからかけて来たルクからディアは包帯を受け取るとその場でひざを折り、少女と視線を合わせた。
「怪我、してるでしょ?見せてくれる?」
なるべく優しく、丁寧に、視線を合わせてディアは少女に問う。一方少女は知ってるのに知らない顔が多く並んだせいで、すっかり緊張し、泣くことをも忘れてしまった様子で、コクコクと人形の様に硬い首肯を繰り返しながら怯える様に手を差し出した。
少女が緊張しているうちにディアは手早く包帯を巻き、止血を施した。その足元には一輪の薔薇が、少女の血を浴びて赤く染まって転がっている。ディアがその薔薇を拾うと、ぽたりと飲み込み切れなかった血液を肉厚の花弁が吐き出した。
「あ・・・お姉ちゃん・・・」
決して自分が欲しかった訳でも理由の無い好奇心だけでも無かった。あげたい人がそこにはいて、姉に渡したかった薔薇が、血で汚れているのを見て少女は酷く落胆した。痛い思いをして採ったというのに、これではまるで意味が無い。心細さが込み上げて泣き虫な少女はまたポロポロと目から涙を零し始める。
「茨で切っちゃったんだね?もう大丈夫?痛い所はない?」
ルクは優しく視線を合わせ、その頭を撫でながら、少女を宥めようとする。少女は言葉を無くしてコクコクと頷いた。きっとあまり他人と触れ合って来なかったのだろう。人見知りの少女は緊張し硬い人形様な動きで狼狽え始める。そんな時だった。
「モニカ、モニカ何処?」
姉の声がディア達の耳に届いた。モニカ、そう呼ばれた紅い髪の少女はパっと顔を明るくして顔を上げると声の方へと走り去る。
「お姉ちゃん!」
モニカは元気いっぱいに勢いよく、姉のひざ下に飛び付く。其処にはディア達よりは少し年上の少女が心配した表情でモニカを探していた。少女はモニカの手の包帯を見るとその手を優しく握りながら視線を合わせ、慈愛に満ちた声で話し掛ける。
「怪我したの?大丈夫?」
「ぅう、痛かった・・・けど」
怒られたのかと思ったモニカは声をくぐもらせる。顔は見たことはあるのに名前を知らない人物たちをどう紹介すればいいかわからなかったからだ。モニカが言葉に困っているとモニカの後を追ってきたディアが顔を見せ、不意に視線が絡んだ。
『あっ』
風がそよいでモニカの姉の髪を撫でた。さらりと空を泳ぐ紅い髪は幻想的な美しさを秘め、彼女のその顔立ちはモニカにもよく似ていた。蒼い瞳を少し伏せながら、少女はディアを少しずつ思い出す。
「た、確か同じ馬車・・・の」
「う、うん」
気まずい空気が重たく圧し掛かる。お互いにあまり良い記憶では無いのは確かだった。
「あのね、お姉ちゃん、白い人が治してくれたよ!」
モニカにはそれが解らなかったらしく、明るく健気な声で自分の手を見せる。ディアは申し訳なさそうに会釈をするとモニカの姉も合わせて申し訳なさそうに会釈を交わした。
「妹が・・・すいません。お世話になってしまったみたいで、あ、私はカリーナっていいます。こっちは妹のモニカ。ほら、モニカ、ちゃんとお礼言って?」
カリーナ、そう名乗った少女はモニカにお礼を言う様に施す。モニカは面と向かって話すのが苦手なのか、先ほどの明るさを既に落とし、カリーナのスカートの裾をつまみながら小さく細々とした声で「ありがとう」と口にした。
「僕は、ディア。此方こそ、大した怪我じゃなくてよかったよ」
ディアはそう言って、モニカに視線を合わせてその頭を優しく撫でる。そして、白いドレスで着飾った大輪の美しい薔薇を一つ手折るとモニカに差し出した。
「お姉ちゃんに上げたかったんでしょ?」
「!」
ディアの言葉にモニカは姉と話す時の様に顔を明るくし大きく頷く。ディアは茨を取り除いた薔薇をモニカに持たせると、モニカはカリーナのスカートの裾を引っ張り、ひざを折らせる。視線がようやくあったカリーナにモニカはゆっくりとその薔薇を髪留めの様に彼女の髪に飾って見せた。
「お姉ちゃん、いつもありがとう!」
その言葉を聞いて、カリーナは一瞬目頭が熱くなった。ゆっくりとモニカがつけてくれた薔薇の髪飾りに触れながら、モニカを思い切り抱きしめる。
「あ・・・、あはは、ありがとうモニカ!・・・すっごくうれしい。誕生日、覚えていてくれたんだね」
それはきっと、二人で歩いて来てから初めてカリーナが感じた本当の喜びだったのだろう。カリーナの心からの喜びの声が、モニカにも伝わり、二人は年相応の幼い表情ではしゃいだ笑みを浮かべているように、ディアには見えた。その光景は余りに優しく温かいもので、胸に突き刺さった冷たい棘を溶かし、憧れさえ抱かせる。
「・・・、あの、ありがとうございます。ディアくん」
「あ、いや・・・ううん、どういたしまして」
「・・・今度、お礼をさせてください。何ができるかはまだわかりませんけど・・・何か・・・」
それはディアにとって願ってもいない申し出だった。恩に託けてこんなことを言うのはきっと差し出がましいと思ってしまうが、それぐらい望んでもきっとバチは当たらないだろう。それにルクならきっとそうしただろう。だから大きくは望まず、小さな事をディアは求めた。
「あ、それだったら・・・、今度は落ち着いてお話し、したい、な。僕はその、友達があんまりいなくて・・・だから」
本当のことだった。ディアにはルクしか友達がいない。自分で言っていて悲しくなるが本当の事なのだ。カリーナはそのイジらしく目を背けるさまを見て、思わず吹き出した。
「あはは!面白い人なんだね、ディアくんって!うん、それじゃあ明日またここで会いましょう。モニカと私と、ディアくんで」
「・・・うん、モニカも、ディアと、お話ししたい。今日はありがとう、ディア」
「どういたしまして」
ディアは感謝の言葉を始めて受け取った。それが満たした胸の内は、春の日差しの様な温もりで、ルクと初めて話した時のそれとよく似ていて、それでいて、心臓が早くなる気がしていた。
カランカランと、修道院の鐘が鳴る。それは彼らがそれぞれ自分の部屋へと返らねばならい時間を知らせる別れの鐘。
「それじゃあ、また明日」
モニカとカリーナは踵を返すと二人そろって同じ方向へと歩いていき、夕焼けの中へと消えて行く。ディアはその様子をぼんやりと眺めてしまっていた。二人の姿は何処か一枚の絵画の様。悲しい世界に彩られた一枚の温かな情景は誰かが手中に収められるようなものでは決してなかった。
「また、明日」
それはお呪いようなものだった。そう口にすれば明日また会える。そう願って口にした。
「・・・よかったな!ディア!絶対仲良くして来いよ!」
二人が居なくなった後、ずっと沈黙を保っていたルクが自分の事の様に喜び、ディアを祝福した。
「ありがとう、ルクのお陰だよ」
「謙遜しすぎだって!お前の努力だよ。これは本当に!さぁ帰ろう。明日も修道院の掃除や仕事はあるんだしさ!」
「うん。帰ろう。明日が楽しみだ」
二人もそうして夕焼けの背にその場を去って行く。楽し気なその背中を沈み行く太陽が照らしている。暗天と星空のヴェールは、今は優しく彼等を包み明日へと誘うのだろう。
しかし種は成長していくものだ。知らぬ間に芽吹き、根を張っていることを、この時は誰も知らないだけだった。
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