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緋色と灰の物語

2.二人 ─Dear of Light─

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「名すら持たぬ哀れな仔。与えられないが故にワタシはお前が愛おしい」

 艶やかな女の声が響く。焼け落ちた村の中、最後のご馳走を平らげた少年の頬に白い指先が這う。少年が顔を上げ視線を向けると、声の主と視線が絡む。彼女の瞳の水晶を通し、少年は初めて己の顔を見た。白い髪に白い肌、紅い瞳。神聖が抜け落ちたかのような色の無い身体。そしてその身体を蝕む様に全身を覆う火傷痕。

「ワタシがお前に名前を与えてやろう。お前だけの名だ」

 彼女は続ける。水底の様に暗く穏やかな声で。唄でも口遊む様に決して靡く事無く彼に与えるべくした名を、是非を問わずに言葉を紡ぐ。

「お前の名は■■■■■■だ。フフフ、今のお前にピッタリな名前だろウ?」

 その言葉を聞いた時、その名を彼女が口にした時、音が潰れて聞こえた。拉げたノイズが奔り、視界に罅が入り始める。それは少年が見た夢だった。視界が明るくなり始め空が、夢の世界が焼け落ちる。指先が逸れ彼女は朝焼けの中に溶けていく。少年には終ぞ、何処までが現実で何処までが夢なのか分からなかった。もしかしたらその両方だったのかもしれない。

「さぁ、愛しき仔。■■■■■■よ。ワタシの願いを叶える為、世を知るといい。お前を愛さない人を、世界を。その全てを知りそして、その果てでワタシを求めるといい。必ずキミはワタシを求めるのだから。ワタシは喜んでそれに応えよう!フフフフ!」

 アスタロトは最後に、少年を見て怪しく笑みを浮かべると光の中に影を溶かし消え去る。眼前一面に光が氾濫し、その眩しさに少年は思わず目を覆った。再び闇の中へと意識は投げ出され、暗転を得て、少年はゆっくりと目を開ける。すると其処はあの焼け落ちた村ではなく馬車の中だった。破けた天井から小さく零れた日差しが自分を照らしている。少年は夢か現か曖昧な世界で告げられた名を復唱する様に唇を動かした。

「デ・・・ィ、ア」

 掠れた文字を読み上げる様に、日に溶けた輪郭の様な曖昧な言葉の線をなぞる。それがきっと自分の名だと理解できたが、その名の意味は分からなかった。天井から差した日の光が、己の身体を照らし出す。身体中に刻まれた火傷の痕、そして左手に刻まれた深い切り傷の様な痕。自分の身体を構成するものが何であるかは理解できていたはずだったのに、今の少年・・・ディアにはそれらがすっかり抜け落ちてしまっていたかのようだった。徐々に意識が覚醒していくにつれ、夢のことは忘れていき、代わりにあの日からどうやって此処に来たのかを思い出していく。酷く曖昧で朧気な記憶だった。ただよく覚えているのは自分を奇怪な獣でも見るかのように誰もが自分を忌避する視線だ。血に塗れ、全身に焼け痕を持った不気味な子供を一体誰が助けたいと思うだろうか?そうして当ても無く寄る辺も無く彷徨ううちに人攫いに誘拐され今に至る。

「あのガキどうするよ?あんな傷物誰もいらねえだろ。捨てるか?ずっと売れ残ってるぜ?」

 野太い男の声が響く。それはディアを誘拐した人攫いの声だ。彼らは子供を攫い奴隷として売り、火事場泥棒を繰り返しながら生計を立てていた。最初彼らが捕まえた子供が沢山この場所に詰め込まれすすり泣く声で満たされていたが今ではもう数える程だ。ディアが視線を泳がすと、紅い髪の姉妹と金髪の少年が目に入る。姉妹の妹らしき子は泣きつかれたのか姉の膝で眠り、姉はそれをあやす様に優しく撫でていた。金髪の少年は一番最近入って来た子供で、抵抗するあまり殴られて伸びている。この馬車にはもうこの4人しか残されていなかった。

「先に他のヤツを捌こうぜ?特にあの姉妹は金になる。姉の方なんて楽しみがいのある歳じゃねえか、ククク」

「ロリコンがよぉ。商品に手を出すんじゃねえよ」

「わからねえって。それに俺直々にテメェがどういう使い道になるか教えてやるってンだ。感謝してほしいぐらいだぜ!ギャハハ!」

 その下衆な話に紅い髪の少女は目を細めて唇をかみしめる。妹が目の前で寝ている手前、彼女を起こさないためにも、身動ぎ一つも取らず妹を撫でる手も止める事はしない。ただ顔を顰め、彼らの言っていることを理解できるからこその不快感に身を費やしているように思えた。

「金髪のガキは男娼館で良いだろ。向こうで調教すんだろ。ああいうガキは喜ばれるぜ」

「となるとやっぱりあの傷物だけか」

 人攫いたちがそんな会話をしているとき、突然馬車を引く馬が嘶き、暴れ始める。

「なんだ?!」

 ドン、と大きな物音が鳴り響く。何者かがこの馬車を襲ったようだ。

「なんだお前ら・・・!ぐああッ!」
「待ってくれ!命は助け・・・ぎゃああ!」

 男たちの断末魔が響く。目みえない死の影の恐怖に紅い髪の姉妹達はすくみ上り、恐怖を紛らわせるように抱き合う。恐怖の色が瞳から感じられる。きっと恐ろしい経験をしてきたに違いない。姉は必死に妹を撫でながら「大丈夫、大丈夫」と口にする。一方金髪の少年は伸びたまま、起きる気配すら見せていなかった。
 足音はゆっくりと積み荷へと向かい、布を切り裂き、馬車の中に光が流れ込む。

「・・・子供。やはり居たか」

 そう口にしたのは黒髪の若い男だった。男は血の付いたサーベルを腰に収めると馬車の入り口を広げ、ディア達を見る。

「キミ達、僕の言葉は解るかい?助けに来たんだ動けるかな?」

 それは天の救いの様な光景だった。高潔な品位を纏わせる男はそういってディア達に手を差し伸べる。彼の言葉に姉妹達は顔を見合わせ、金髪の少年は漸く起き上がった。

「僕達はマキナス聖教会のレニアスだ。奴隷商人の噂を聞きつけて此処で張り込んでいたんだが、驚かせてすまなかったね。さぁ、もう大丈夫だ。此処を離れ、近くの修道院までキミ達を搬送しよう。安心して、怖い事はもう起きないはずだから」

 その言葉は彼等にとってどれくらい眩しい言葉だっただろうか。金髪の少年は起き上がり、のんきに欠伸を一つ浮かべると解っていたかのように姉妹達に向けて「この人は大丈夫だよ」と優しく耳打ちをした。少年はそのまま馬車から躊躇いなく飛び降りる。すると姉妹たちはどこか緊張がほぐれた様子でお互いを見つめ合うと馬車を降りる決意をしたのか、互いにうんと頷きあう。ゆっくりと怯える様にその足先を付けて大地を踏みしめると風が吹き抜けた。それは解放感と同時に穏やかな心の安寧。まだこんなに小さいというのに過酷な絶望みらいが待ち受けていたと思うだけで本当は泣き出しそうだった。紅い髪の姉は必死に我慢していた分その場でぼろぼろと涙を零し、打ち震える。それは無理からぬこと。その心を察するには余り在り、外で待っていたレニアスの仲間達も慰める様にその肩に温かな毛布を掛けた。

「なぁ、君は降りないのか?」

 ディアが姉妹の様子を伺っていると先に降りていたはずの金髪の少年が馬車の入り口から顔だけを覗かせて話しかけていた。ディアはまだ考えがまとまっていなかったが彼らに絆されるまま、付き従う様に腰を上げる。日差しが彼の身体を照らし、馬車から降りた時、周囲の視線は一斉に彼に集まった。

「っ!」

 それもまた無理からぬことだった。ディアの身体は焼き尽くされた様な全身を覆う火傷痕が広がっている。普通の人間なら生きている事すらままならない様な古傷をこさえながら、彼は普通の子供たちと変わらず動き、歩いているのだから。その劣悪さは見る者が見れば、彼がどんな過酷な状況に置かれていたのか考えるに足るものでは無い。

「これで全員だよ」

 しかし金髪の少年はそれを見ても眉一つ動かすことなく、レアニスに報告をする。レアニスは浮いた心のまま「ああ・・・」と空返事をした。その視線はディアに注ぎ込まれ、得体のしれない恐怖が彼から零れているように感じられたからだ。レアニスは直ぐに頭を振り切り替える。何故なら相手は子供なのだから。きっとそういった傷を持ってしまったが故に捨てられてしまい人攫いに捕まったのかもしれないなどと、自分が納得できる理由を探し出し無理やり自分の心をねじ伏せた。

「それじゃあ、この先の修道院へ行こう。ルートは確保してあるから、其処までは僕等が自らの持てる全てを持って君達を守護しよう。」

 レアニスは踵を返すと自ら先頭を切って歩き出す。レアニスの仲間達は少年たちを囲う様に広がり、陣形を組む。ディアは何故か彼等に対して懐いた感想は「慣れているな」というものだった。その感性がなぜ生まれたのかは理解できなかったが、ただそう思ったのだ。

「ねぇ、君。白い髪の子」

 歩いている最中、彼に話しかけたのは先ほどの金髪の少年だ。彼は人懐っこい笑みを浮かべながらディアの横に並び、歩調を合わせる。

「俺はルク、名前教えてよ」

「・・・ボクは・・・、ディア」

 喉を震わせて言葉を口にした。発声する事に慣れていない喉がギギっと歪な音を立て、喉の奥で何かが詰まる。ようやく出て来た言葉は上手く形にならず、舌もまた上手く廻らない。ディアはこの不快感に難色を示すも、人と話したことなど考えてみれば一度も無かったと思い出した。此処に至るまでも全て流されるまま、絆されるがまま、あるがままだっただから。意志を問われたことなど一度もない。名を聞かれたことも、言葉を交わしたこともディアには何一つも無かったのだ。

「ディア、ね。良かったら話そうよ、あっちの二人は他の人とは話したくなさそうだし」

 ルクの視線の先にはあの紅い髪の姉妹が歩いている。二人は手を繋ぎ、仲睦まじげに言葉を交わし合っていた。

「僕・・・は、話すの、まだ、慣れて、ない、・・・けど」

 継ぎ接ぎの言葉を並べる。ディアにもまた、ルクを邪険にする理由は無くその申し出を受け入れた。ルクはディアに嬉しそうな笑みを浮かべると「じゃあ」と話を振る。

「どこから来たの?・・・この場合連れてこられた・・・か」

 ディアはルクの言葉に思考する。自分は何処から来たのだろうか?何をしていたのだろうか?そう考えれば考えるほど、大海を見渡す気分になってくるのだ。

「わか、らな、い」

 偽りはなかった。ディアは本当に自分が何処から来たのかわからない。地図を見た事があるわけでは無かったし、今までそういった教育を受けたことが無かったからこそ、言葉にしようがなかった。それら知識に関してもただ漠然と並べられているだけで上手く形にならない。霞を形として認識し言葉にする様な迷妄さが蔓延っている。
 ルクは決してディアが上手く話せないことを急かす様な事は無く、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「そっか、わからないか・・・、実は俺もよくわかってないんだよね」

 ルクはそういって明るい笑顔を浮かべる。ルクの言葉にもまた偽りは無かった。ルクもまた人攫いに誘拐されるまでの記憶が曖昧で、ディアの言葉を聞き、仲間が出来たような気持ちになったためか、はにかんだ様に笑う。

「なんか似てるよね~!俺達友達になれそうだ!アハハ!」

 そんなどうしようもない共通点を並べてルクは笑う。ディアもまた彼のその楽しげな様子に釣られて笑った。初めて笑った時の温かな感情が胸の中に流れ込んでくる。それは穏やかな日差しに照らされたかの様で、暗い夜を越えたディアの心が覚えたのは安心だった。
 彼らが仲睦まじげに話している時、ディアは視線を感じ、顔を上げる。ふとレアニスと視線が絡んだ気がしたが、レアニスはそのまま視線を逸らした。何故見ていたのだろうか?そんな疑問を浮かべるディアの思考をルクの言葉が遮る。

「あ、ディア、花が咲いてるよ!」

 ルクが指差す方向に視線を合わせると、そこには白い薔薇が咲いていた。しかしそれは一つではない。視線の先一杯に咲き誇りそこは正に薔薇園と呼ぶにふさわしい場所だった。

「ここは白薔薇の修道院と呼ばれていてね、この先に施設があるんだ。もうすぐだよ」

 レアニスの言葉通り、もう目前に修道院が差し迫っている。薔薇に囲まれた修道院は何処か幻想的で、ディアは綺麗だと純粋な感想を抱きながら、その地に足を踏み入れた瞬間だった。空気が重くなり、世界が暗くなった気がした。それは歪な紫紺の空。朝でも無く夜でもない。白い薔薇は全て紅く染まり、その花の全てがディアを見つめている。ディアは思わず唾を飲み、言葉を失った。心臓が早鐘を打っている。身体が震えている。地の底から沸き上がる様な恐怖心が押し寄せてくる。そんな錯覚が身体の中を渦巻いては突き抜けていく。
 思わず叫びそうになるそんな時だった。

「ディア、どうしたの?立ち止まって」

 ルクの声が響く。ルクの声はディアを正気に戻し、瞬く間に先ほどの光景は霧散した。薔薇は白く、空は青いまま。ディアは流れる雲の様に置いて行かれそうになっていた。

「・・・?な、んでも・・・ない」

 喉を伝って這い出た言葉と共に、先ほど自分が感じた気配や錯覚も消えて行く。ルクは「そっか」と安心したように微笑むとディアの手を取り追いつく様に施した。
 ディアが迷う様に手を伸ばすとルクは自ら手を取りレアニスたちへ追いつかんと走り出す。彼が自分を連れて行ってくれる。そう感じた時、ディアの中の恐怖心の芽は完全に潰えていた。ディアは感じる。ルクと一緒にいると恐怖は潰えて、代わりに胸に宿るのは温かな日の光の様な穏やかな気持ちであると。そんな不思議な力がルクは持っていると。ディアはそんな彼に少し憧れを抱きつつ、その背を眺め、初めての友達の存在を心から喜んでいた。

 数奇な運命が、全てを狂わす。その日までは
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