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5章(1)
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藍豪は頭を悩ませていた。類が九龍街区にやって来てから二度目の春節を迎えようとしている。
一度目の春節は、類も藍豪も新しい生活に慣れるので精いっぱいでなにもしなかった。しかし、九龍での生活にも慣れた二度目の春節になにもしないわけにはいかない。
類は藍豪とは違い、つい最近まで雲南の村で家族と一緒に暮らしていたのだ。春節の祝いも、盛大にやっていたことだろう。
藍豪は慣れない環境で奮闘する類のために、せめて春節の祝いくらいはきちんとしてやりたいと考えていた。
「春節?」
藍豪の部屋にやって来た珠蘭は思わぬ言葉を聞いて、目を瞬かせた。あいかわらず濃い化粧で年齢を覆い隠しており、二十代の乙女のようにも、四十代のくたびれた中年のようにも見える。
藍豪は珠蘭のにやけ顔を無視して続けた。
「ああ、俺ひとりなら春節なんてどうでもいいんだけどな。ガキがいるのに、なにもしないのはまずいだろ」
そうは言うものの、藍豪が春節を祝っていたのはもう二十年も前の話だ。爆竹の激しい音と光以外に、覚えていることはなにもない。どんな料理を食べ、どんなふうに家族と過ごしたか、藍豪は楽しかったはずの記憶を、どこかへ封印してしまっていた。
それで藍豪は、九龍街区の中でも馴染みのある珠蘭に相談することにしたのだ。隣人の張静月でもよかったが、彼が春節などの行事を大切にする男かどうかは、いまいち自信がなかった。
珠蘭は藍豪から薄紙に包まれた阿片を大事そうに受け取ると、つと視線を外して遠くを見た。
「毎年、大晦日になるとアパートの屋上で皆集まってたはずだよ。三階の人たちが食事を出したりなんかして、かなり盛り上がってるって聞いたことがあるけど」
「珠蘭は行ったことないのか?」
「あたしはねぇ……ほら、家に帰れなくて店に残ってる女の子もいるから」
触れてはいけない話題に触れたようで、藍豪は居心地の悪さを感じて短く謝った。
気にしないで、というように珠蘭が首を振る。
「今年は女の子たちも連れて、顔出してみようかね。類も顔見知りが多いほうが楽しめるだろう?」
「悪いな、つき合ってもらって」
珠蘭は藍豪の肩を勢いよく叩くと、満面の笑みを浮かべて去っていった。
いつぶりだろう、春節が待ち遠しく思うなんて。
◇ ◇ ◇
「わあ……! けっこう混んでますね」
電線や洗濯物を干すためのロープが張り巡らされた九龍街区アパートの屋上は、人と熱気で賑わっていた。
どこから持ってきたのか、デザインも作りもバラバラな椅子やテーブルが並べられ、テーブルの上には所狭しと料理の載った大皿が並べられている。何人か見知った顔もあり、藍豪は片手を挙げて彼らに挨拶をしながら類の肩を押して前に進む。
類も人混みの中から珠蘭や娼館の女たちの顔を見つけ、手を振り返している。すっかり九龍街区に馴染んだ類の成長に、藍豪は喜ばしさと同時に羨望を感じた。
テーブルの端に積まれていた小皿と箸を取って、類に渡す。類は藍豪のほうを振り向きもせずに早速、真っ白な饅頭を手に取っていた。
ひとつを藍豪に手渡し、小さな口をめいいっぱい開けて饅頭にかぶりついている。藍豪は小皿に肉味噌を取り分けてやり、自分も半分に割った饅頭にたっぷりと肉味噌を乗っけて口に放り込んだ。肉味噌とは名ばかりで、玉ねぎと脂の主張が激しい。それでもこってりとした味付けの肉味噌は、素朴な甘さの饅頭によく合っていた。
類も藍豪の見よう見まねで、饅頭に肉味噌をなすりつけている。
「香港はすごいですね」
類は口の中のものを飲み込まないうちに、早口でそう言った。
「人がたくさんいて、美味しい食べ物があって……藍豪は香港の生まれなんですか?」
「いいや、違う。畑しかないようなところで育って、香港に出てきただけだ」
類はなにかに気づいたようにきょろきょろと辺りを見回し、そして藍豪に小さな声で「部屋に帰ったら続きを教えてください」と囁いた。どうやら類は、藍豪に気を遣ったらしい。藍豪が香港にやってきて阿片の売人をやっていることは九龍街区では周知の事実だ。別に隠すことでもない。それでも、類の意図を汲み取ってやることにする。
顔見知りが次々に藍豪の元へやって来ては挨拶をしたり、三本指の左手を冷やかしたり、類のことを尋ねてきたりした。藍豪は頑なに類のことを「親戚から預かっている子ども」だと言って押し通した。皆、納得はしていないようだが、それ以上突っ込んでくることもない。このやや希薄な人間関係が、藍豪には心地よかった。
ひとしきり食べて腹が膨れると、類はあきらかに眠たげに目をこすりはじめた。こういうところを見ると、まだまだ子どもだと思う。
九龍街区の子どもたちが集まってきて爆竹を鳴らすのを、類はうとうとしながら眺めている。
「類、そろそろ帰るぞ」
適当に片づけを手伝い、呑みの誘いを断って類が座っていたほうを見やる。類はすこし年上の少女の肩を借りて、すうすうと寝息を立てていた。藍豪と目が合った少女の顔が、さっと強張る。どうやら自分は、少女に苦手意識を持たれているようだ。
無理もない。阿片の売人に好意を抱くほうがどうかしている。少女の反応が、世間の一般だ。
「よ、よいお年を」
藍豪に歩み寄られた少女は、固まりながらも挨拶をした。藍豪も右手を挙げて応える。次に会った時には、お年玉を用意する必要があるかもしれない。
起きない類を抱き上げ、屋上を後にする。屋上の扉を閉めた瞬間、喧騒が一気に遠のき、静けさがふたりを包んだ。
藍豪の腕の中でまどろんでいた類が、うっすらと目を開ける。
「藍豪」
眠たげな声で呼びかけられて、足を止める。
「来年も、一緒にいてください……」
藍豪はひとつうなずくと、ゆっくりと階段を降りた。
指二本で買った未来は、身に余るほど眩しかった。
一度目の春節は、類も藍豪も新しい生活に慣れるので精いっぱいでなにもしなかった。しかし、九龍での生活にも慣れた二度目の春節になにもしないわけにはいかない。
類は藍豪とは違い、つい最近まで雲南の村で家族と一緒に暮らしていたのだ。春節の祝いも、盛大にやっていたことだろう。
藍豪は慣れない環境で奮闘する類のために、せめて春節の祝いくらいはきちんとしてやりたいと考えていた。
「春節?」
藍豪の部屋にやって来た珠蘭は思わぬ言葉を聞いて、目を瞬かせた。あいかわらず濃い化粧で年齢を覆い隠しており、二十代の乙女のようにも、四十代のくたびれた中年のようにも見える。
藍豪は珠蘭のにやけ顔を無視して続けた。
「ああ、俺ひとりなら春節なんてどうでもいいんだけどな。ガキがいるのに、なにもしないのはまずいだろ」
そうは言うものの、藍豪が春節を祝っていたのはもう二十年も前の話だ。爆竹の激しい音と光以外に、覚えていることはなにもない。どんな料理を食べ、どんなふうに家族と過ごしたか、藍豪は楽しかったはずの記憶を、どこかへ封印してしまっていた。
それで藍豪は、九龍街区の中でも馴染みのある珠蘭に相談することにしたのだ。隣人の張静月でもよかったが、彼が春節などの行事を大切にする男かどうかは、いまいち自信がなかった。
珠蘭は藍豪から薄紙に包まれた阿片を大事そうに受け取ると、つと視線を外して遠くを見た。
「毎年、大晦日になるとアパートの屋上で皆集まってたはずだよ。三階の人たちが食事を出したりなんかして、かなり盛り上がってるって聞いたことがあるけど」
「珠蘭は行ったことないのか?」
「あたしはねぇ……ほら、家に帰れなくて店に残ってる女の子もいるから」
触れてはいけない話題に触れたようで、藍豪は居心地の悪さを感じて短く謝った。
気にしないで、というように珠蘭が首を振る。
「今年は女の子たちも連れて、顔出してみようかね。類も顔見知りが多いほうが楽しめるだろう?」
「悪いな、つき合ってもらって」
珠蘭は藍豪の肩を勢いよく叩くと、満面の笑みを浮かべて去っていった。
いつぶりだろう、春節が待ち遠しく思うなんて。
◇ ◇ ◇
「わあ……! けっこう混んでますね」
電線や洗濯物を干すためのロープが張り巡らされた九龍街区アパートの屋上は、人と熱気で賑わっていた。
どこから持ってきたのか、デザインも作りもバラバラな椅子やテーブルが並べられ、テーブルの上には所狭しと料理の載った大皿が並べられている。何人か見知った顔もあり、藍豪は片手を挙げて彼らに挨拶をしながら類の肩を押して前に進む。
類も人混みの中から珠蘭や娼館の女たちの顔を見つけ、手を振り返している。すっかり九龍街区に馴染んだ類の成長に、藍豪は喜ばしさと同時に羨望を感じた。
テーブルの端に積まれていた小皿と箸を取って、類に渡す。類は藍豪のほうを振り向きもせずに早速、真っ白な饅頭を手に取っていた。
ひとつを藍豪に手渡し、小さな口をめいいっぱい開けて饅頭にかぶりついている。藍豪は小皿に肉味噌を取り分けてやり、自分も半分に割った饅頭にたっぷりと肉味噌を乗っけて口に放り込んだ。肉味噌とは名ばかりで、玉ねぎと脂の主張が激しい。それでもこってりとした味付けの肉味噌は、素朴な甘さの饅頭によく合っていた。
類も藍豪の見よう見まねで、饅頭に肉味噌をなすりつけている。
「香港はすごいですね」
類は口の中のものを飲み込まないうちに、早口でそう言った。
「人がたくさんいて、美味しい食べ物があって……藍豪は香港の生まれなんですか?」
「いいや、違う。畑しかないようなところで育って、香港に出てきただけだ」
類はなにかに気づいたようにきょろきょろと辺りを見回し、そして藍豪に小さな声で「部屋に帰ったら続きを教えてください」と囁いた。どうやら類は、藍豪に気を遣ったらしい。藍豪が香港にやってきて阿片の売人をやっていることは九龍街区では周知の事実だ。別に隠すことでもない。それでも、類の意図を汲み取ってやることにする。
顔見知りが次々に藍豪の元へやって来ては挨拶をしたり、三本指の左手を冷やかしたり、類のことを尋ねてきたりした。藍豪は頑なに類のことを「親戚から預かっている子ども」だと言って押し通した。皆、納得はしていないようだが、それ以上突っ込んでくることもない。このやや希薄な人間関係が、藍豪には心地よかった。
ひとしきり食べて腹が膨れると、類はあきらかに眠たげに目をこすりはじめた。こういうところを見ると、まだまだ子どもだと思う。
九龍街区の子どもたちが集まってきて爆竹を鳴らすのを、類はうとうとしながら眺めている。
「類、そろそろ帰るぞ」
適当に片づけを手伝い、呑みの誘いを断って類が座っていたほうを見やる。類はすこし年上の少女の肩を借りて、すうすうと寝息を立てていた。藍豪と目が合った少女の顔が、さっと強張る。どうやら自分は、少女に苦手意識を持たれているようだ。
無理もない。阿片の売人に好意を抱くほうがどうかしている。少女の反応が、世間の一般だ。
「よ、よいお年を」
藍豪に歩み寄られた少女は、固まりながらも挨拶をした。藍豪も右手を挙げて応える。次に会った時には、お年玉を用意する必要があるかもしれない。
起きない類を抱き上げ、屋上を後にする。屋上の扉を閉めた瞬間、喧騒が一気に遠のき、静けさがふたりを包んだ。
藍豪の腕の中でまどろんでいた類が、うっすらと目を開ける。
「藍豪」
眠たげな声で呼びかけられて、足を止める。
「来年も、一緒にいてください……」
藍豪はひとつうなずくと、ゆっくりと階段を降りた。
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