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2章(3)

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 翌日。
 レイを九龍街区地下の娼館まで送って戻ると、ウー星宇シンユーが部屋の前で煙草をふかしていた。扉に身をもたせかけ、西洋風の洒落たスーツに身を包み、ウェーブのかかった髪は後ろに撫でつけられている。
 人形のように綺麗な星宇の横顔を見ながら、藍豪ランハオは深いため息を吐いた。
 月末の売上金回収でもないのに星宇が藍豪の部屋を訪ねてくるなど、ろくなことがないに決まっている。できれば無視してしまいたかったが、星宇は藍豪が近寄ってきたことを知ってか知らずか、扉の前から動こうとしない。

「なんの用だ?」

 部屋に入ることはおろか、鍵を開けることさえできずに藍豪は星宇に声をかける。星宇は今まさに藍豪に気づいたばかりだというように横目で藍豪を見て、肩をすくめた。吸いかけの煙草をコンクリートの床に落とし、爪先で火をもみ消している。
 やることのひとつひとつが絵になる男だ。しかし藍豪から見れば、ただもったいぶっているようにしか見えない。つまらない時間稼ぎなどやめて、さっさと用件を話してほしいと、藍豪は心の底から思った。
 星宇はやっと両手が空くと、スーツの懐から一枚の写真を取り出して藍豪に向けた。

「この男を知っているかい?」

 写真には年寄りの男が一人、映っている。どこかの料理屋で撮られたものなのか、男の前にある丸テーブルには料理の皿の数々が並んでいた。どれも屋台ではお目にかかれないような代物で、高級なコース料理のようだ。
 開いているのか閉じているのかわからない細い目に、口元を覆うような長く白い髭。子ども向けの絵本に出てくる仙人のような出で立ちだ。

「誰だよ、それ」

 藍豪にはまるで見覚えがない。そもそも藍豪は人の顔を記憶しておくことが苦手だ。星宇のように一目で脳に焼きつくような美貌を持っていたり、類のように一度見たら忘れられない不思議な色の瞳を持っていたり、そういったはっきりとした躰的特徴がないと覚えていられない。頭の中で顔と名前が結びつかないことはしょっちゅうである。
 星宇は腕を伸ばし、持っていた写真を藍豪に押しつけた。

「そいつは三千龍団サンチェンロンシェン老板ラオバンだよ」

 星宇にそう言われて、藍豪はもう一度まじまじと写真を見る。この今にも召されそうなよぼよぼの年寄りが、三千龍団のボスらしい。仙人らしい見た目ではあるが、ただの好々爺といった感じで、無条件に人を従わせるような威圧感は感じない。道ですれ違った時にこの老人が香港裏社会に君臨する沈老板だと気づく人間はいないだろう。田舎の農家の爺がいいところである。

リー藍豪ランハオ。もう一回、こっちに戻ってくる気はない?」

 食事にでも誘うような気軽さで、星宇は切り出した。気持ち悪いくらいの笑みを浮かべる星宇を、藍豪は黙って見返す。

「こっちって、どっちだ?」
「嫌だな、忘れたふりなんかして」

 星宇の笑みが変わる。獲物を見つけた蛇のような獰猛さで、藍豪を取り巻いて逃げ道を塞ごうとする。

「君がワン老板ラオバンの犬として殺しをやってた時代はよかったなあ。俺の仕事も少なかったし」
「阿片で稼いでやってんだから文句言うなよ」
「子どもを一人前の大人に育てるには、ずいぶんとお金がかかるらしいよ?」

 だいたい、話の先が読めてきた。嫌気が差すが、星宇を追い返さないことには部屋に入れない。
 藍豪はぐしゃぐしゃと髪の毛をかき回し、押しつけられた写真を星宇のスーツの胸ポケットへ捩じ込む。

「俺は二度と殺しはやらねぇ。相手が三千龍団のシェンならなおさらだ。自分から抗争に突っ込んでいく気はない」

 藍豪は星宇の躰を無理やり押し退けると、ポケットから部屋の鍵を引っ張り出した。昨夜は類に布団を譲ってほとんど眠れなかったから、類を迎えに行く時間まで一眠りする予定だ。安眠のためにも、早いところ星宇を完全に追い払わないといけない。

「君がどうしてもやりたくないというのなら」

 背後から追いかけてきた星宇の言葉に不穏な空気を感じ取る。
 藍豪はドアノブを握ったまま、振り返った。

珠蘭シュランに言いつけて、今すぐレイをここに連れて来よう。リー藍豪ランハオ。君が沈殺しをやると言うのが先か、類の目玉がくり抜かれるのが先か――どっちがいい?」

 藍豪は考えに沈むように固く目を閉じた。類はただの他人だ。藍豪が気まぐれに命を助けてやっただけで、これから先もずっと面倒を見る必要はどこにもない。藍豪が勝手に助けて、勝手に罪悪感を覚えて類の面倒を見ようとしているだけだ。見捨てたって、構わないはずだ。
 脳裏に浮かんでくる、類のぎこちない笑み。黒と紫の混じった、宇宙のように神秘的な瞳。あのビー玉のように丸く綺麗な目が、類の眼窩から引きずり出されるところを想像する。
 類は泣くだろうか? 泣いて痛がって、藍豪を恨むだろうか? 小さな口が裂けるほど大きく開かれ、絶叫と共に藍豪を罵る。こんなことをするために、自分を助けたのか。なぜ路地で死なせてくれなかったのか。

 藍豪は力いっぱい扉を殴りつけ、脳を支配しようとする想像を振り払った。
 星宇が薄笑いを浮かべて、藍豪の挙動を見守っている。
 星宇の手のひらの上で踊らされるのは嫌だ。しかし、自分のせいで類が苦痛を味わうのはもっと嫌だった。

「……やるよ」

 藍豪は痛む拳を握り込んで、呟く。自分の放った言葉が、怨念のようにずるりと藍豪の躰に入り込んだ。

「残念だよ、藍豪」

 床にずるずると座り込んだ藍豪を見て、星宇が心底痛ましいというような表情を見せる。

「情を捨てたはずの君が、弱点にしかならないものを抱え込むなんて」

 そうだ。類は今や藍豪の唯一の弱点だ。
 類の名前を出されてしまえば、藍豪はどんな命令も聞かなくてはならない。
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