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2章(2)

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 珠蘭シュランはいつものように部屋の中へ入って来ようとしたが、藍豪ランハオは慌ててその躰を押し留めた。

「なにさ? さっき話してた坊主のことならわかってるよ」

 九龍街区の壁の薄さを舐めてもらっちゃ困る、と珠蘭は唇を曲げて笑う。レイを布団の中に隠したことも、まるで無意味だったというわけだ。今度から、布団を被って話す必要があるだろう。
 藍豪は観念して扉を開け、珠蘭を部屋の中へ通した。珠蘭は入り口にもたれかかり、こんもりとした布団の山を見やる。珠蘭が口を開きかけ、藍豪は即座に手で制した。

「待て、ガキに聞かせられる話か?」

 珠蘭はたびたび藍豪の部屋に来ては、娼館の客の愚痴などをべらべらと話していく。藍豪の口の堅さを信用してのことだろうが、他人には聞かせられないような話も多い。大人でも顔を歪める話ばかりなのだから、子どもの類に聞かせられるわけがない。
 珠蘭は藍豪の目を見ると、乾燥してひび割れた指先で金庫を指した。どうやら、阿片を買いに来たということらしい。

「いくつだ?」
「いや……あんた、痛み止めとして使ったことある?」

 珠蘭の顔に見えた陰りに、藍豪は眉をひそめた。

「俺は阿片自体、一度も使ったことはないが」

 珠蘭にはそれが意外だったのだろう。すこしだけ眉を上げ、また沈んだ表情を見せる。
 藍豪は聞きたくないと思いつつも、聞かざるを得なかった。

「誰のために必要なんだ?」

 ちらりと藍豪を見た珠蘭が、肩を落とす。

「うちで長く働いてた女の子だよ。客から悪いもんもらったみたいでさ……医者はもうなんもしてやれることはないって言うけど、せめて痛みだけでも取ってやりたいと思ってね」

 たしかに阿片を吸えば苦痛は紛れる。医者の出す痛み止めでは効かなくなった末期患者などが、阿片を求めて藍豪の元にやってくることもある。
 しかし、いくら阿片で苦痛が紛れるといってもそれは一時のことなのだ。
 阿片は吸えば吸うほど耐性が増し、すこしの量では効かなくなってくる。確実な効果を求めて、量はどんどん増える。量が増え、使用回数が増えると中毒性も高くなる。
 気づいた時には阿片なしでは生きていけない躰になっており、たった一日吸わないだけでも全身を激痛が襲い、人によっては痛みで失神することもあるという。苦痛を和らげるために使用していたはずの阿片が、薬から毒に変わる瞬間である。

「医者はあとどのくらい生きるって言ってるんだ?」
「長くて三週間、もって二週間だろうって」

 それなら中毒になるより先に死んでしまうかもしれない。中毒になることを心配するより、阿片で痛みを取ったほうが安らかな時間を過ごせるだろう。

「わかった」

 藍豪は懐から金庫の鍵を取り出すと、慎重に鍵を回した。金庫の中で山と積まれた阿片に手を伸ばし、量を確認する。足りなくなったら、また来てもらえばいいだろう。藍豪が渡した量がどのくらいの日数で消費されるのかも、次に売る時の大事な指標になる。
 クリーム色の薄紙に阿片を包み、金庫の鍵を締める。布団の横を通る時、類がもぞもぞと中で動く気配がした。

「いいか、ほんのすこしの量からはじめて効かなくなったら徐々に量を増やすんだ。一度増やしたら、減らすことはできない。禁断症状が出るからな。あんたが管理して、慎重に使ってくれ」
「お金は……」
「いい。どうせあんたのところも星宇シンユーが取り仕切ってるんだろ」

 珠蘭はしばらく迷う表情を見せたものの、やがて手の中に阿片を握り込んだ。
 ウー星宇シンユーが娼館から毎月いくら巻き上げているかは、聞きたくもない。瑞蜜会ルイミーフイの収入源は阿片や人身売買だけでない。香港のあちこちにある娼館から警備料という名目で金を巻き上げているのだ。実際、娼館の前に行くと瑞蜜会の構成員が客を装ってうろついている。一応、警備はしているようだ。
 いつまで経っても部屋を出て行こうとしない珠蘭に、藍豪は戸惑う。まだ、なにか話があるのだろうか。目で促すと、珠蘭は真っ赤に塗られた唇を閉じたり開いたり、なにかを言いたげに藍豪を見上げた。

「なんだよ、はっきり言えよ」
「さっき、あんたたちが話してたことだけどさ……」

 珠蘭の視線が布団の山に移る。

「あの子をうちで働かせるのはどう?」
「冗談言うなよ。あいつはまだ子どもだし、それに男――」
「客を取らせるんじゃないよ。ただの下働きだ。客も女の子たちも増えて、掃除や世話をする下働きの数が足りなくてね」

 もぞもぞと布団が動き、額にほんのりと汗をかいた類が顔を出す。好奇心と警戒心が顔いっぱいに広がっている。珠蘭は床にしゃがみ込むと、類と目を合わせた。

「うちは客に瑞蜜会ルイミーフイ三千龍団サンチェンロンの男も多い。下働きなら、影からこっそり客の様子を見ることもできる。自分の顔を割らずにね。藍豪みたいな貧乏売人になるより、娼館に出入りしたほうがすぐに捜してる人が見つかるだろうさ」

 珠蘭は端から端まで、すべて聞いていたらしい。本当に九龍街区の壁が薄いだけで済む話だろうか。珠蘭が聞き耳を立てていたとしか思えない。考えたくはないが、珠蘭の後ろに控えるウー星宇シンユーの顔まで浮かんでくるような気さえした。
 類はふと考え込むような表情を見せた後、布団から這い出てきて藍豪を見上げた。言わなくてもわかる。藍豪も類と同じこと考えているだろう。

「売人になるより、よっぽどいい」

 藍豪がそう言うと、類はかすかにはにかんだ。
 その時、藍豪の元に降って湧いた考えはいっそ悪魔的でさえあった。星宇なども上手く巻き込めば、絶対に露見することのない、完璧な嘘。類の幼い復讐心を満たしてやれる、唯一の方法。

「いいか、類」

 藍豪は真面目な顔をして、類の肩に手を置く。

「お前の村を襲ったのは、三千龍団サンチェンロンっていう阿片の取引組織だ。俺やお前が働きに出る娼館は瑞蜜会ルイミーフイっていう別の組織に属している。瑞蜜会と三千龍団はライバルなんだ。ここまではわかるな?」

 類は驚きながらも賢そうな顔つきで、こっくりとうなずく。

「三千龍団の連中は、村のことを知ってるお前を捜し回ってるはずだ。阿片の栽培地っていうのは、絶対に外に漏らしちゃいけない秘密だからな」
「もし、見つかったら……」
「間違いなくお前は殺される。だから、誰にも村のことや家族のことは言うな。聞かれても、絶対に答えちゃいけない。もし困ったら、瑞蜜会のリー藍豪ランハオと一緒に住んでいるとだけ言うんだ」

 類から目を離し、珠蘭を見ると、珠蘭も慣れていると言わんばかりの表情でうなずいた。

「絶対に、客の前には出さないよ。行き帰りはどうする?」
「俺が送って、帰りも迎えに行く」

 わかった、と珠蘭は鷹揚にうなずいた。飲み込みが早くて助かる。
 あとは類が――藍豪の言っていることを信用するかどうかである。もし藍豪と一緒に雲南の村へ行った瑞蜜会の人間に、類の顔が割れていたとしても問題はない。彼らには星宇から「類には手出しするな」と命令が下っているだろう。類に向かって村を焼いたのは俺だと公言するような馬鹿もいないはずだと願いたい。
 バレた時はまた、別の嘘を考えればいい。類との生活は最初から、嘘に塗れたものだったのだから今さら嘘を重ねようとどうということはない。

「藍豪。もし僕の正体が、誰かにわかってしまったら――」
「その時は俺が命がけで守ってやるよ」

 藍豪の強気な発言に、類は緊張が解けたように笑った。子どもらしいあどけない笑みに、胸がずくりと疼く。
 いずれすべてが崩れ去るとわかっていながら砂の城を築き上げるのは、馬鹿のやることなのかもしれない。
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