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1章(4)
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「李藍豪。犬や猫とはわけが違うんだよ?」
談話室に入るなり、呆れ顔の吴星宇に諭されて藍豪はむっつりと唇を引き結んだ。
そんなことはわかりきっている。犬猫と間違えて人間の子どもを拾ってくるような阿呆ではない。藍豪ははっきりと、あれが人間であると認知して拾ってきたのだ。
「最期まで面倒を見られないなら拾ってくるなってママに――」
「お前はいつから俺のママになったんだ?」
藍豪の声が予想以上に気色ばっていたせいだろう。星宇もそれ以上の軽口を叩くことなく、赤いベロア生地の張られたソファに腰を下ろした。
藍豪も星宇にならって向かいの一人がけのソファに尻を収める。ソファは藍豪の体重を受けてぐっと沈み込み、危うく脚が浮きかけた。何度座っても慣れず、もぞもぞと尻の位置を決めかねながら星宇が煙草を取り出すのをぼんやりと見る。
星宇とは十年以上のつき合いになるが、いつ見ても香港マフィアなど辞めてもっと良い職に就けばいいのに、と思う。
女が放っておかない顔というのは、星宇のような顔のことを指すのだろう。ぱっちりと綺麗な二重に、すっと通った鼻筋。中国人にしては彫りが深く、群青色の瞳は異国の血を感じさせる。茶髪混じりの黒髪は自然とゆるくウェーブがかっていて、小洒落た雰囲気を演出している。
「なんだい、そんなに見つめて」
咥え煙草の星宇が藍豪を見て、くすりと笑う。いちいち絵になる男だ。それに星宇のやることなすことすべて藍豪は気に入らない。昔からそうだ。同じ歳で香港裏社会に飛び込んだというのに、今では星宇が上司である。藍豪は所詮、星宇にこき使われる立場の人間だ。
しかし星宇の世話になりたくないと思っていても、現実はそう上手くはいかない。何度ぶった切ってもしばらくすればずるずると繋がってしまう腐りかけの縁で、救われる命もあるのだから。
「いや、お前がいてよかったと思って」
「……明日の香港は真冬の大嵐になりそうだ」
星宇は気味が悪いというように大げさに肩をすくめて、ほとんど吸っていない煙草を灰皿に押しつけた。
「それはともかく、あんなものどこで拾ってきたんだい?」
星宇が「あんなもの」というのは、もちろん藍豪が担ぎ込んできた瀕死の少年のことだ。星宇の屋敷に着いた時にはもう虫の息もいいところで、霧雨に晒された躰は死体と大差ないほど冷え切っていた。
それでも藍豪は屋敷に着くなり、医者を呼べと星宇に怒鳴ったのだ。どんな法外な値段をふっかけられても構わない。来年一年分の給料を差し出してもいい。藍豪の鬼気迫った様子に、星宇は瑞蜜会の抱えている医者を呼んでくれた。日頃から切り傷だの銃創だのばかり診ている医者だ。腕を心配することはない。
藍豪は差し出された煙草を断って、ぽつりと話した。
「九龍街区の路地に落ちてた」
「うわ、あのドブ川みたいなところだろう?」
「俺にとってはただの生活道路だ」
「落ちていたなら、そのまま捨てておけばよかったじゃないか」
星宇が綺麗に整えられた細い眉をひそめる。彼の言いたいことは、おおよそ予想がついていた。
「李藍豪はそんな情け深い人間じゃない、って言いたいんだろ」
たしかにいつもの藍豪なら道の端に蹴っ飛ばして、それっきりだっただろう。まして気に入らない人間に頭を下げ、自分の給料を叩いてまで助けようとするなんて、どうかしている。
そうだ、自分はどうかしているのだ。それもこれも全部、あの宇宙のように美しく神秘的な少年の瞳を見てしまったからに他ならない。藍豪の心はすっかり漆黒に浮かぶ薄紫の光に囚われてしまったのだ。
もう一度、彼が目を開けるところを見たい。渇望に近い欲が、藍豪をここまで突き動かした。
星宇は黙って藍豪の顔を観察していた。そうすることで、藍豪の心の内まですべて透けて見えるというように。
談話室に重苦しい沈黙が流れる。星宇の屋敷には数人、使用人がいたはずだが主人に気を遣ってか、誰も部屋に入って来ようとはしない。使用人のなかで、藍豪は別にもてなすべき客人でもないのだろう。星宇の下でちょこちょこと働く、ただの売人だ。
「まあ、細かいことを詮索するのはよそう」
星宇は胸に溜め込んだものを一気に吐き出すように、そう言った。
「君は一番の稼ぎ頭だし、ね。余計な詮索でへそを曲げて足抜けなんかされたら、俺が王老板に怒られる」
「王老板にもよろしく言っておいてくれよ」
「今に殺すからケツ拭いて待ってろって?」
藍豪は肯定するように顎を引いた。
瑞蜜会のトップに君臨する王は、藍豪にとっては職場の社長であり、そして――藍豪が復讐すべき相手でもあった。星宇は藍豪の手綱を握る厄介な仕事を押しつけられているのだ。そう思うと、目の前で軽薄な笑みを浮かべるこの男がすこしだけ哀れに思えた。
藍豪は居心地の悪いソファからゆっくりと立ち上がる。自分の部屋の固いコンクリートの床が恋しかった。こんな柔らかい場所にいつまでも座っていては、尻から腐っていきそうだ。
「二階に部屋を用意しているよ」
星宇は藍豪が屋敷に泊まっていくつもりだと思って、声をかけてくる。しかし、藍豪には泊まっていくつもりなど毛頭ない。できれば今すぐに、この悪趣味な西洋屋敷を飛び出していきたいくらいだ。
「治療は終わったんだろ?」
藍豪の言葉に、星宇の眉がぴくりと動く。
「まさか、連れて帰るつもりかい?」
藍豪は財布の中から、紙幣を束ごと抜き出した。叩きつけるように談話室のテーブルに紙幣の束を放り投げ、さっさと星宇に背を向ける。
「ママの言いつけ通り、拾ったからには最期まで面倒見なきゃいけねぇからな」
「傷が治るまで……いや、せめて意識が戻るまではここに置いても――」
「金持ちの屋敷に馴染んだ奴が、九龍街区で生きていけるわけがないだろうが」
背後から、星宇の息を呑む音が聞こえた気がした。
ここへ駆け込んだ時から、藍豪は決めていた。治療の成果がどうであれ、少年が生きても死んでも九龍街区に、自分の家に連れて帰ると。
談話室に入るなり、呆れ顔の吴星宇に諭されて藍豪はむっつりと唇を引き結んだ。
そんなことはわかりきっている。犬猫と間違えて人間の子どもを拾ってくるような阿呆ではない。藍豪ははっきりと、あれが人間であると認知して拾ってきたのだ。
「最期まで面倒を見られないなら拾ってくるなってママに――」
「お前はいつから俺のママになったんだ?」
藍豪の声が予想以上に気色ばっていたせいだろう。星宇もそれ以上の軽口を叩くことなく、赤いベロア生地の張られたソファに腰を下ろした。
藍豪も星宇にならって向かいの一人がけのソファに尻を収める。ソファは藍豪の体重を受けてぐっと沈み込み、危うく脚が浮きかけた。何度座っても慣れず、もぞもぞと尻の位置を決めかねながら星宇が煙草を取り出すのをぼんやりと見る。
星宇とは十年以上のつき合いになるが、いつ見ても香港マフィアなど辞めてもっと良い職に就けばいいのに、と思う。
女が放っておかない顔というのは、星宇のような顔のことを指すのだろう。ぱっちりと綺麗な二重に、すっと通った鼻筋。中国人にしては彫りが深く、群青色の瞳は異国の血を感じさせる。茶髪混じりの黒髪は自然とゆるくウェーブがかっていて、小洒落た雰囲気を演出している。
「なんだい、そんなに見つめて」
咥え煙草の星宇が藍豪を見て、くすりと笑う。いちいち絵になる男だ。それに星宇のやることなすことすべて藍豪は気に入らない。昔からそうだ。同じ歳で香港裏社会に飛び込んだというのに、今では星宇が上司である。藍豪は所詮、星宇にこき使われる立場の人間だ。
しかし星宇の世話になりたくないと思っていても、現実はそう上手くはいかない。何度ぶった切ってもしばらくすればずるずると繋がってしまう腐りかけの縁で、救われる命もあるのだから。
「いや、お前がいてよかったと思って」
「……明日の香港は真冬の大嵐になりそうだ」
星宇は気味が悪いというように大げさに肩をすくめて、ほとんど吸っていない煙草を灰皿に押しつけた。
「それはともかく、あんなものどこで拾ってきたんだい?」
星宇が「あんなもの」というのは、もちろん藍豪が担ぎ込んできた瀕死の少年のことだ。星宇の屋敷に着いた時にはもう虫の息もいいところで、霧雨に晒された躰は死体と大差ないほど冷え切っていた。
それでも藍豪は屋敷に着くなり、医者を呼べと星宇に怒鳴ったのだ。どんな法外な値段をふっかけられても構わない。来年一年分の給料を差し出してもいい。藍豪の鬼気迫った様子に、星宇は瑞蜜会の抱えている医者を呼んでくれた。日頃から切り傷だの銃創だのばかり診ている医者だ。腕を心配することはない。
藍豪は差し出された煙草を断って、ぽつりと話した。
「九龍街区の路地に落ちてた」
「うわ、あのドブ川みたいなところだろう?」
「俺にとってはただの生活道路だ」
「落ちていたなら、そのまま捨てておけばよかったじゃないか」
星宇が綺麗に整えられた細い眉をひそめる。彼の言いたいことは、おおよそ予想がついていた。
「李藍豪はそんな情け深い人間じゃない、って言いたいんだろ」
たしかにいつもの藍豪なら道の端に蹴っ飛ばして、それっきりだっただろう。まして気に入らない人間に頭を下げ、自分の給料を叩いてまで助けようとするなんて、どうかしている。
そうだ、自分はどうかしているのだ。それもこれも全部、あの宇宙のように美しく神秘的な少年の瞳を見てしまったからに他ならない。藍豪の心はすっかり漆黒に浮かぶ薄紫の光に囚われてしまったのだ。
もう一度、彼が目を開けるところを見たい。渇望に近い欲が、藍豪をここまで突き動かした。
星宇は黙って藍豪の顔を観察していた。そうすることで、藍豪の心の内まですべて透けて見えるというように。
談話室に重苦しい沈黙が流れる。星宇の屋敷には数人、使用人がいたはずだが主人に気を遣ってか、誰も部屋に入って来ようとはしない。使用人のなかで、藍豪は別にもてなすべき客人でもないのだろう。星宇の下でちょこちょこと働く、ただの売人だ。
「まあ、細かいことを詮索するのはよそう」
星宇は胸に溜め込んだものを一気に吐き出すように、そう言った。
「君は一番の稼ぎ頭だし、ね。余計な詮索でへそを曲げて足抜けなんかされたら、俺が王老板に怒られる」
「王老板にもよろしく言っておいてくれよ」
「今に殺すからケツ拭いて待ってろって?」
藍豪は肯定するように顎を引いた。
瑞蜜会のトップに君臨する王は、藍豪にとっては職場の社長であり、そして――藍豪が復讐すべき相手でもあった。星宇は藍豪の手綱を握る厄介な仕事を押しつけられているのだ。そう思うと、目の前で軽薄な笑みを浮かべるこの男がすこしだけ哀れに思えた。
藍豪は居心地の悪いソファからゆっくりと立ち上がる。自分の部屋の固いコンクリートの床が恋しかった。こんな柔らかい場所にいつまでも座っていては、尻から腐っていきそうだ。
「二階に部屋を用意しているよ」
星宇は藍豪が屋敷に泊まっていくつもりだと思って、声をかけてくる。しかし、藍豪には泊まっていくつもりなど毛頭ない。できれば今すぐに、この悪趣味な西洋屋敷を飛び出していきたいくらいだ。
「治療は終わったんだろ?」
藍豪の言葉に、星宇の眉がぴくりと動く。
「まさか、連れて帰るつもりかい?」
藍豪は財布の中から、紙幣を束ごと抜き出した。叩きつけるように談話室のテーブルに紙幣の束を放り投げ、さっさと星宇に背を向ける。
「ママの言いつけ通り、拾ったからには最期まで面倒見なきゃいけねぇからな」
「傷が治るまで……いや、せめて意識が戻るまではここに置いても――」
「金持ちの屋敷に馴染んだ奴が、九龍街区で生きていけるわけがないだろうが」
背後から、星宇の息を呑む音が聞こえた気がした。
ここへ駆け込んだ時から、藍豪は決めていた。治療の成果がどうであれ、少年が生きても死んでも九龍街区に、自分の家に連れて帰ると。
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