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 ベッドの中でまどろみながら、ぼんやりと伊織いおりの背中を見つめる。
 行為が終われば、伊織はさっさと服を着て、ゲームに戻る。
 画面に向かって悪態をつくその背中を、芽衣めいは見るともなしに眺めていた。
 ふいに、視線を感じたのか伊織がくるりと振り向く。

「まだいたの」

 刺々しい声でそう言われて、芽衣は怠さの残る身体を起こした。
 中途半端に脱がされた服を着直して、床に放り出していたリュックを手に取る。

「早くしないと、終電なくなるんじゃない?」

 伊織の言葉は正しい。時刻はもうすぐ二十三時を過ぎようとしている。
 けれど、その言葉は暗に芽衣を早く追い出そう、家に泊める気はないと言っているものだ。
 伊織は一人暮らしだけれど、芽衣が伊織の家に泊まったことはない。
 やることをやったら、さっさと部屋を追い出される。
 気にしちゃ、だめ。
 芽衣は口の中でそう呟くと、伊織の部屋を後にした。



◇ ◇ ◇



 七月の夜風は生ぬるく、怠さをさらに助長させるようだった。
 伊織の住んでいるアパートは大学から歩いて十分ほどのところにある。
 芽衣は家賃を節約するために、大学から少し離れたところの安いアパートを借りていた。ここから地下鉄に乗って、さらに地下鉄の駅から二十分ほど歩く。家に着く頃には、日付が変わっているかもしれない、なんて芽衣は重たい足を引きずりながら思った。

遠井とおい先輩?」

 だれかが、自分を呼ぶ声がする。
 精神的に疲れすぎて、幻聴でも聞こえているのかもしれない。
 こんな夜遅く、大学も閉まった頃にこんなところを歩いているのは芽衣くらいなものだから。

「遠井先輩!」

 後ろから、はっきりと声が聞こえたと同時に、手を引かれた。
 ぐいっと身体の向きを変えられて、声の主と目が合う。
 フレームの細い眼鏡の奥で、ぱっちりとした二重の目が芽衣をまじまじと見ている。
 そこにいるのは紛れもない、サークルの後輩男子、坂田さかただった。
 こんなところで後輩に会うなんて思わなかった。そう思いながらも、芽衣はなんとかどんよりとした気持ちを吹き飛ばし、坂田に笑顔を向ける。

「坂田くんはこんな時間に帰り? バイトだったの?」
「あー、いや、大学の図書館で勉強してたんです。図書館、二十二時半まで開いてるから」
「真面目なんだねぇ」

 適当な返しをしつつ、そういえば坂田くんは法学部だったな、なんて思い出す。
 まさか一年生の頃から司法試験のために精を出しているのだろうか?

「遠井先輩はなんでこんな時間に?」

 坂田の手は、まだ芽衣の手首を握ったままだ。
 振り払うこともできず、芽衣は曖昧な笑みを見せる。

「ちょっと用事を済ませてて。今から家に帰るところだったの」

 坂田は芽衣の言葉をどう受け取ったのか。
 眼鏡の奥の目はあいかわらずひんやりとしていて、なにを考えているのか、うかがい知ることはできない。

「その用事って、伊織先輩の家に行くこと?」
「えっ、と……」

 芽衣は上手い言い訳を探そうとするが、なかなか名案は浮かばない。
 そもそもなぜ、坂田は芽衣が今まで伊織の家にいたことを知っているのか。
 芽衣の手首を握っていた坂田の手に、力がこもる。

「家行って、ヤッて、追い出されてきたんすよね?」
「ちょっ……そんな言い方ないでしょう!」
「じゃあ、首に残ってる指の跡はなんすか?」

 そう問われて、芽衣は反射的に空いたほうの手で首を撫でた。
 じりっと頭を焦がすように、つい数時間前の出来事がフラッシュバックする。
 こんなところで坂田に会うなんて予想もしておらず、まして街灯の明かりしかないような暗がりで、首に残った跡を見つけられるなど、想像もしていなかった。
 芽衣はどうにも言えず、唇を噛む。

「あの優等生な伊織先輩が、後輩女子に首絞めプレイねぇ……」

 そこで芽衣は、はっと我に返る。
 そのことを、もし他のサークルメンバーに知られたら。
 伊織のイメージを崩すようなことが、サークル内で広まったら。

「ま、待って! このことは、だれにも言わないで……っ」

 芽衣の脳裏をよぎるのは、伊織の冷え切った顔だった。
 芽衣に失望し、ため息をついて、できの悪い子どもを見るような、あの顔。

「どのことですか? 伊織先輩と付き合ってること? それとも、伊織先輩がとんだ変態ゲス野郎だってことですか?」
「どっちも、どっちもよ……とにかく、伊織先輩の迷惑になることはしないで」

 ほとんど懇願に近い声色で、芽衣は坂田に頭を下げる。
 元はといえば、自分が望んだ関係だ。サークルの、憧れの先輩と付き合いたい。その願いを叶えてもらったからには、伊織に迷惑をかけることはできない。それが、多少手荒い関係だったとしても。

「じゃあ黙ってる代わりに、ひとつだけ」

 坂田の声に、芽衣は顔を上げる。近くで見ると、坂田は意外と背が高い。自然と、顔を見上げる形になる。
 芽衣が首に当てていた手を、坂田がゆっくりと握る。両手を絡め取られ、芽衣はじりっと後ずさりをした。
 坂田が蛇のように、ちろりと舌を出す。

「そのまま、動かないでください」

 坂田の顔が、ぐっと近づく。反射的に目を閉じる。
 首筋に、生温かい吐息を感じて、芽衣は身を固くした。

「っ……!」

 ぢう、っと首筋の皮膚を強く吸われる感覚がして、すぐにそれはちりちりとした小さな痛みに変わる。
 深夜とはいえ、道のど真ん中で、だれが通るか分からないところで、芽衣は坂田に言われるままじっとしていた。
 首筋を這う舌や薄い唇の感覚に、背筋からぶるりと震えが這い上がってくる。

「できました」

 そう囁いて、坂田の顔が離れていった。
 芽衣もおそるおそる目を開ける。
 坂田の指先が、芽衣の首筋、おそらく痕をつけたところをなぞる。

「もしだれかに見つかったら、後輩の首絞め大好き変態野郎に襲われたんだって言えばいいですよ」
「坂田くんは、そんなことしないでしょ」
「そうっすね、そんな趣味ないんで」

 でも、と坂田が続ける。

「彼氏に手ひどく扱われてるってバレるより、マシじゃないっすか?」
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