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14.日課
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それから一か月ほどは、慌ただしく過ぎていった。
アルマには居住館の二階端、北側の薄暗く狭い部屋が寝室としてあてがわれた。カルナ曰く、そこは一時的なもので、のちに別の部屋を与えると言ってくれた。
日が昇る少し前に起きて、井戸に水を汲みに行き、カルナの部屋や見張り塔のドルシーの部屋、そして広間の水差しに水を満たすところから、アルマの一日が始まる。
すべての水差しが満ちたところで調理場へ行き、にんにくや香草と一緒に羊を煮たスープを作り始める。
調理場も使えるように、二日かけて掃除をした。
料理の経験がほとんどないアルマはまだパンを焼くことができず、リオに頼んでライ麦や大麦のパンを仕入れていた。いずれは、アルマ自身がパンを焼けるように、練習中である。
スープができあがると、アルマは二人分を器によそい、顔ほどもある大きなライ麦パンを切り分けて、これも二人分、スープの器に添える。
目指すは見張り塔だ。スープをこぼさないように気をつけながら、慎重に塔の階段を上る。器で手が埋まってしまっているため、壁に手をつくことはできない。
そろそろと足を踏み出すこと三分。ようやく、塔の最上部にある小部屋へ着いた。
砦を含めた山中一帯を見渡すために大きく開けられた窓は硝子がはめこまれておらず、開け放しのままで、室内に冷たい風が好き放題吹き込んでいる。見下ろせば、井戸は親指の先ほどに小さく見える。
部屋は小さく、石造りのため寒々しく感じるが、ベッドやテーブルなど、必要最低限のものは揃っている。テーブルの下には大きな毛皮が敷かれており、床からの底冷えを幾分か和らげていた。
「ドルシーさん、朝食ですよ」
切り開かれた窓から、一心に外を見つめ続けている背中に声をかける。
ドルシーは巨体をゆっくりと振って、アルマがスープを並べたテーブルへ向き直った。
その目は光もなく真っ黒で、アルマを映しているかも怪しい。それに、いくら話しかけても返事はおろか、感情の揺らぎや、ほんの少しの表情の変化も見られない。圧倒的な凪の状態だった。
丸く切り取られた毛皮の敷かれた椅子へ、腰を下ろす。
「冷めないうちに食べましょう?」
スープは室内の寒さと比例するように、もうもうと湯気を立てている。
アルマの呼びかけに、ドルシーはやっと椅子へ落ち着いた。座っていても迫力は衰えず、朝日を浴びてアルマの方へ影が落ちる。
大柄なドルシーを前に、スープの量は足りないかと思われた。最初の頃は体の大きさに合わせて大盛りにしていたが、カルナに聞けばドルシーはさほど大食いでもなく、魔女の呪いを受けているいま、食事はわずかな量で済むらしい。
なぜドルシーが魔女の呪いを受けたのか、そしてなぜドルシーを番人として砦に収めたのか。聞きたいことはたくさんあったが、アルマはどれもまだカルナに聞けずじまいだった。
アルマは手を伸ばして、ドルシーの厚い手のひらを掴む。胸の前で組み合わせて、形だけの祈りを捧げる手伝いをする。
「主よ。すべての命が、わたしたちの血肉となることに感謝します」
母親が食事毎に唱えていた感謝を思い出しながら、口にする。ドルシーも黙って手を組んだまま、まばたきもせずにアルマの祈りを聞いている。
一通りの流れが終わると、アルマはドルシーの手を解いた。
アルマがスープに口をつけはじめたのを見て、ドルシーも大きな手には小さすぎる匙を握る。
「今日は羊の腰肉に、レンズ豆と、にんにくと、香草を入れて煮たんです。街の酒場でよく出ているメニューだと、リオさんに教えてもらいました」
返事がないことは分かっているが、ドルシーに話しかける。カルナは昼過ぎにならないと起きてこないため、ドルシーと二人で朝食を取ることが、アルマの日課になっていた。
アルマはドルシーが呪いによって感情を表出できないだけで、心では普通の人間と同じく、喜怒哀楽を感じ取っていると信じていた。
呪いによって、あらゆる表現を奪われたドルシーに尋ねてみても、肯定の頷きひとつ返ってこないが、アルマはドルシーとも分け隔てなく接したいと思っている。
匙を進めながら、ちらりとドルシーを見るが、やはりその目や表情からは感情を読み取ることができない。井戸の底に向かって話しかけているに等しい。
時折、窓の外を見るのは、見張り番として染みついた習慣だろうか。見張りはいなくとも問題ないと聞いたが、ドルシーを追い出す非道をカルナはしたことがないようだった。
器に残ったスープや香草の欠片をパンで拭う。ドルシーも一滴も残さないというように、丁寧に拭っては小さく口に運んでいる。
アルマが砦に来てから一か月余りが過ぎたが、カルナともドルシーとも特段親しくなった感覚はない。邪険にされていないだけ、いいといったところだ。
「夕食ができたら、また持ってきますね」
アルマが食べ終えた器や匙をまとめながらそう言うと、ドルシーは音もなく席を立ち、窓をふさぐように外に目を向けて、直立不動の体勢を取った。
どうやら食事の時間が終わったと共に、アルマとの会話も終了したと思ったらしい。切り替えの早さには、いつも感心させられる。
アルマは食器をひとつにまとめて抱え、来た時とは逆に、階段を軽快な足取りで下りはじめた。
アルマには居住館の二階端、北側の薄暗く狭い部屋が寝室としてあてがわれた。カルナ曰く、そこは一時的なもので、のちに別の部屋を与えると言ってくれた。
日が昇る少し前に起きて、井戸に水を汲みに行き、カルナの部屋や見張り塔のドルシーの部屋、そして広間の水差しに水を満たすところから、アルマの一日が始まる。
すべての水差しが満ちたところで調理場へ行き、にんにくや香草と一緒に羊を煮たスープを作り始める。
調理場も使えるように、二日かけて掃除をした。
料理の経験がほとんどないアルマはまだパンを焼くことができず、リオに頼んでライ麦や大麦のパンを仕入れていた。いずれは、アルマ自身がパンを焼けるように、練習中である。
スープができあがると、アルマは二人分を器によそい、顔ほどもある大きなライ麦パンを切り分けて、これも二人分、スープの器に添える。
目指すは見張り塔だ。スープをこぼさないように気をつけながら、慎重に塔の階段を上る。器で手が埋まってしまっているため、壁に手をつくことはできない。
そろそろと足を踏み出すこと三分。ようやく、塔の最上部にある小部屋へ着いた。
砦を含めた山中一帯を見渡すために大きく開けられた窓は硝子がはめこまれておらず、開け放しのままで、室内に冷たい風が好き放題吹き込んでいる。見下ろせば、井戸は親指の先ほどに小さく見える。
部屋は小さく、石造りのため寒々しく感じるが、ベッドやテーブルなど、必要最低限のものは揃っている。テーブルの下には大きな毛皮が敷かれており、床からの底冷えを幾分か和らげていた。
「ドルシーさん、朝食ですよ」
切り開かれた窓から、一心に外を見つめ続けている背中に声をかける。
ドルシーは巨体をゆっくりと振って、アルマがスープを並べたテーブルへ向き直った。
その目は光もなく真っ黒で、アルマを映しているかも怪しい。それに、いくら話しかけても返事はおろか、感情の揺らぎや、ほんの少しの表情の変化も見られない。圧倒的な凪の状態だった。
丸く切り取られた毛皮の敷かれた椅子へ、腰を下ろす。
「冷めないうちに食べましょう?」
スープは室内の寒さと比例するように、もうもうと湯気を立てている。
アルマの呼びかけに、ドルシーはやっと椅子へ落ち着いた。座っていても迫力は衰えず、朝日を浴びてアルマの方へ影が落ちる。
大柄なドルシーを前に、スープの量は足りないかと思われた。最初の頃は体の大きさに合わせて大盛りにしていたが、カルナに聞けばドルシーはさほど大食いでもなく、魔女の呪いを受けているいま、食事はわずかな量で済むらしい。
なぜドルシーが魔女の呪いを受けたのか、そしてなぜドルシーを番人として砦に収めたのか。聞きたいことはたくさんあったが、アルマはどれもまだカルナに聞けずじまいだった。
アルマは手を伸ばして、ドルシーの厚い手のひらを掴む。胸の前で組み合わせて、形だけの祈りを捧げる手伝いをする。
「主よ。すべての命が、わたしたちの血肉となることに感謝します」
母親が食事毎に唱えていた感謝を思い出しながら、口にする。ドルシーも黙って手を組んだまま、まばたきもせずにアルマの祈りを聞いている。
一通りの流れが終わると、アルマはドルシーの手を解いた。
アルマがスープに口をつけはじめたのを見て、ドルシーも大きな手には小さすぎる匙を握る。
「今日は羊の腰肉に、レンズ豆と、にんにくと、香草を入れて煮たんです。街の酒場でよく出ているメニューだと、リオさんに教えてもらいました」
返事がないことは分かっているが、ドルシーに話しかける。カルナは昼過ぎにならないと起きてこないため、ドルシーと二人で朝食を取ることが、アルマの日課になっていた。
アルマはドルシーが呪いによって感情を表出できないだけで、心では普通の人間と同じく、喜怒哀楽を感じ取っていると信じていた。
呪いによって、あらゆる表現を奪われたドルシーに尋ねてみても、肯定の頷きひとつ返ってこないが、アルマはドルシーとも分け隔てなく接したいと思っている。
匙を進めながら、ちらりとドルシーを見るが、やはりその目や表情からは感情を読み取ることができない。井戸の底に向かって話しかけているに等しい。
時折、窓の外を見るのは、見張り番として染みついた習慣だろうか。見張りはいなくとも問題ないと聞いたが、ドルシーを追い出す非道をカルナはしたことがないようだった。
器に残ったスープや香草の欠片をパンで拭う。ドルシーも一滴も残さないというように、丁寧に拭っては小さく口に運んでいる。
アルマが砦に来てから一か月余りが過ぎたが、カルナともドルシーとも特段親しくなった感覚はない。邪険にされていないだけ、いいといったところだ。
「夕食ができたら、また持ってきますね」
アルマが食べ終えた器や匙をまとめながらそう言うと、ドルシーは音もなく席を立ち、窓をふさぐように外に目を向けて、直立不動の体勢を取った。
どうやら食事の時間が終わったと共に、アルマとの会話も終了したと思ったらしい。切り替えの早さには、いつも感心させられる。
アルマは食器をひとつにまとめて抱え、来た時とは逆に、階段を軽快な足取りで下りはじめた。
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