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7章(5)
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医者は僕を安心させるように大きくうなずいた。
「別の病棟に入院しているけれど、瑞希よりも先に意識が戻ったと聞いたわ」
母親の補足説明を聞いて、僕はようやく安堵した。胸のつかえが取れたように、気持ちがすうっと落ち着いていく。榊さんが無事なら、それでよかった。彼女を助けられるなら、僕は死んでも構わないと思って火の中に飛び込んでいったのだから。
「瑞希の無謀なところは、お父さんに似たのね」
母親はすこしだけ呆れたように微笑んだ。その声色が想像していたよりも優しくて、動揺する。
「え……?」
「倒れていた瑞希とゆらちゃんを助けたのは、お父さんなのよ」
思わぬ展開に言葉を失う。あの父親が? 僕たちを助けただって?
「家に行こうとした途中で、アパートが燃えているのを見て車を降りたんですって。そうしたら消防団のおじさんが『森岡さん家の息子がアパートに入っていった』って騒いでいるから、消防の人を振り切って突っ込んだって」
笑いごとじゃないんだけど、と言いながら母親はいっそ清々しい笑顔を見せた。
単身、アパートに突っ込んでいった父親は見事、入口付近で倒れていた僕と榊さんを見つけ、二人を抱えてアパートから出たという。消防隊が動くのを待っていたら、僕も榊さんも死んでいたというのが父親の言い分らしい。
結果として僕たちは助かったわけだけど……父親だって、命の危険はあったはずだ。僕みたいにミイラ取りがミイラになる展開だってありえた。
でも、父親はやってのけた。いつものらりくらりとして、面倒ごとを僕に押しつけるような臆病な父親が、そんなところで無謀ともいえる勇気を発したことに僕は驚きを隠せなかった。
「ごめんね、瑞希」
母親はふいに声を落として、僕に頭を下げた。僕は身体も動かせず、ただ黙って母親を見上げる。
「お父さんとも話して、気づいたの。私もお父さんも、瑞希のことをちっとも考えていなかった。自分たちの都合ばかりで、瑞希をないがしろにし続けていた。瑞希を失うかもしれないって時になって、私たちは今さら気づいたのよ」
母親の顔に浮かんでいるのは、深い後悔と痛みのようなものだった。
「何度謝っても足りないのはわかってる……でも、これからも瑞希のお母さんとお父さんでいることを、許して欲しいの」
その時、病室のドアが勢いよく開いた。駆け込んできたのは父親だ。驚く母親を置いて、父親はずんずんと進んでくる。僕たちを助ける際に火傷をしたのか、頬には大きなガーゼが貼られている。
肩で息をしている父親は、ベッドのそばまでやってくると床に膝をつき、僕の手を握って項垂れた。
「よかった、意識が戻らなかったら、どうしようかと……」
そう言った声は涙で潤んでいて、僕は図らずも父親の愛情の深さを思い知ることになった。
父親の肩に母親がそっと手を置いている。その光景を見た時、僕はああこの二人は夫婦なのだ、と漠然と思った。ばらばらだったものが、元の位置に戻っていくような感覚。すべてが丸く収まりつつあった。
僕は力の入らない手で、父親の手を握り返した。
もちろん、すぐに二人を許すことはできないだろう。すくなく見積もっても十年、僕は父親の代わりを務め、母親の意のままに生きることを強要された。すべてを飲み込むまでには、まだ時間がかかる。
でも、僕は受け入れようと思う。だって結局のところ、母親も父親も僕と同じ人間で。長い人生において失敗しない人はいなくて。二人ともきっと、親としてまだ未熟だっただけで。
たった一度、つまずいただけなんだ。転んでしまって、起き上がれなくなって、ずるずるとここまで来てしまった。ただ、それだけのこと。
僕たち家族は、もう一度やり直せる。失われた時間は元には戻らないけれど、これから新しい時間を作っていけばいい。
病室が温かな空気に包まれる中、僕は急に愕然とした。僕たち家族はどうにか丸く収まろうとしている。だけど、榊さんはどうなる?
弟が亡くなった事実を抱え、義理の父親を殺したことを気に病み、実の母親から死を望まれる彼女のことを――誰が救ってくれるというのだ?
「……行かなきゃ」
僕の呟きに、両親がそろって顔を見合わせる。僕が行かなきゃ、榊さんは一人だ。僕には彼女を助けた責任がある。死にたがっていた彼女を生かしてしまった僕は――僕だけは、榊さんを一人にしない。
ベッドに押しとどめようとする手を振りきって、僕は無理やり身体を起こした。その動作ひとつで激しいめまいが襲う。ぎゅっと目を閉じ、ぐるぐると回る視界を抑えつける。もう一度目を開いた時、めまいは幾分か楽になっていた。
僕は布団を跳ね除け、ベッドの下に足を下ろす。僕のしたいことを察したのか、母親がベッドの下から履きやすいサンダルを出してくれた。
「ゆらちゃんのところに行くのね?」
うん、と僕は掠れた声で肯定する。母親は止めなかった。それに榊さんの名前を聞いても、もう取り乱したりしなかった。
母親の手を借りて、よろよろと立ち上がる。酸素マスクを外されると息苦しさを覚えたが、まったく動けなくなるほどではなかった。
点滴を引き連れて、僕は歩き出す。車椅子に乗ったほうが確実に早いだろうと思うくらいの、亀のような歩みで。
もう二度と、彼女を一人にしないために。
「別の病棟に入院しているけれど、瑞希よりも先に意識が戻ったと聞いたわ」
母親の補足説明を聞いて、僕はようやく安堵した。胸のつかえが取れたように、気持ちがすうっと落ち着いていく。榊さんが無事なら、それでよかった。彼女を助けられるなら、僕は死んでも構わないと思って火の中に飛び込んでいったのだから。
「瑞希の無謀なところは、お父さんに似たのね」
母親はすこしだけ呆れたように微笑んだ。その声色が想像していたよりも優しくて、動揺する。
「え……?」
「倒れていた瑞希とゆらちゃんを助けたのは、お父さんなのよ」
思わぬ展開に言葉を失う。あの父親が? 僕たちを助けただって?
「家に行こうとした途中で、アパートが燃えているのを見て車を降りたんですって。そうしたら消防団のおじさんが『森岡さん家の息子がアパートに入っていった』って騒いでいるから、消防の人を振り切って突っ込んだって」
笑いごとじゃないんだけど、と言いながら母親はいっそ清々しい笑顔を見せた。
単身、アパートに突っ込んでいった父親は見事、入口付近で倒れていた僕と榊さんを見つけ、二人を抱えてアパートから出たという。消防隊が動くのを待っていたら、僕も榊さんも死んでいたというのが父親の言い分らしい。
結果として僕たちは助かったわけだけど……父親だって、命の危険はあったはずだ。僕みたいにミイラ取りがミイラになる展開だってありえた。
でも、父親はやってのけた。いつものらりくらりとして、面倒ごとを僕に押しつけるような臆病な父親が、そんなところで無謀ともいえる勇気を発したことに僕は驚きを隠せなかった。
「ごめんね、瑞希」
母親はふいに声を落として、僕に頭を下げた。僕は身体も動かせず、ただ黙って母親を見上げる。
「お父さんとも話して、気づいたの。私もお父さんも、瑞希のことをちっとも考えていなかった。自分たちの都合ばかりで、瑞希をないがしろにし続けていた。瑞希を失うかもしれないって時になって、私たちは今さら気づいたのよ」
母親の顔に浮かんでいるのは、深い後悔と痛みのようなものだった。
「何度謝っても足りないのはわかってる……でも、これからも瑞希のお母さんとお父さんでいることを、許して欲しいの」
その時、病室のドアが勢いよく開いた。駆け込んできたのは父親だ。驚く母親を置いて、父親はずんずんと進んでくる。僕たちを助ける際に火傷をしたのか、頬には大きなガーゼが貼られている。
肩で息をしている父親は、ベッドのそばまでやってくると床に膝をつき、僕の手を握って項垂れた。
「よかった、意識が戻らなかったら、どうしようかと……」
そう言った声は涙で潤んでいて、僕は図らずも父親の愛情の深さを思い知ることになった。
父親の肩に母親がそっと手を置いている。その光景を見た時、僕はああこの二人は夫婦なのだ、と漠然と思った。ばらばらだったものが、元の位置に戻っていくような感覚。すべてが丸く収まりつつあった。
僕は力の入らない手で、父親の手を握り返した。
もちろん、すぐに二人を許すことはできないだろう。すくなく見積もっても十年、僕は父親の代わりを務め、母親の意のままに生きることを強要された。すべてを飲み込むまでには、まだ時間がかかる。
でも、僕は受け入れようと思う。だって結局のところ、母親も父親も僕と同じ人間で。長い人生において失敗しない人はいなくて。二人ともきっと、親としてまだ未熟だっただけで。
たった一度、つまずいただけなんだ。転んでしまって、起き上がれなくなって、ずるずるとここまで来てしまった。ただ、それだけのこと。
僕たち家族は、もう一度やり直せる。失われた時間は元には戻らないけれど、これから新しい時間を作っていけばいい。
病室が温かな空気に包まれる中、僕は急に愕然とした。僕たち家族はどうにか丸く収まろうとしている。だけど、榊さんはどうなる?
弟が亡くなった事実を抱え、義理の父親を殺したことを気に病み、実の母親から死を望まれる彼女のことを――誰が救ってくれるというのだ?
「……行かなきゃ」
僕の呟きに、両親がそろって顔を見合わせる。僕が行かなきゃ、榊さんは一人だ。僕には彼女を助けた責任がある。死にたがっていた彼女を生かしてしまった僕は――僕だけは、榊さんを一人にしない。
ベッドに押しとどめようとする手を振りきって、僕は無理やり身体を起こした。その動作ひとつで激しいめまいが襲う。ぎゅっと目を閉じ、ぐるぐると回る視界を抑えつける。もう一度目を開いた時、めまいは幾分か楽になっていた。
僕は布団を跳ね除け、ベッドの下に足を下ろす。僕のしたいことを察したのか、母親がベッドの下から履きやすいサンダルを出してくれた。
「ゆらちゃんのところに行くのね?」
うん、と僕は掠れた声で肯定する。母親は止めなかった。それに榊さんの名前を聞いても、もう取り乱したりしなかった。
母親の手を借りて、よろよろと立ち上がる。酸素マスクを外されると息苦しさを覚えたが、まったく動けなくなるほどではなかった。
点滴を引き連れて、僕は歩き出す。車椅子に乗ったほうが確実に早いだろうと思うくらいの、亀のような歩みで。
もう二度と、彼女を一人にしないために。
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