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7章(3)

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 母親が入院した日から、数日が経ち、大晦日を迎えた。母親のいない家は、がらんとして静かだ。退院は年明けになるとのことだった。僕の冬休みが終わる頃に戻ってくるだろう。
 僕は冬休みなのをいいことに、たっぷり昼過ぎまで寝て起きた。空腹を感じ、なにか食べようと冷蔵庫を開ける。いつも買っている納豆や牛乳に混ざって、おせち料理や雑煮で使う予定だったらしい食材が詰め込まれているのが目に入った。最近、買い物に同行することもなかったから、母親が一人で買いに行ったのだろう。
 すこし値の張るその食材たちは出番を迎えることなく、冷蔵庫の中で腐っていこうとしていた。僕はせっせとスーパーで食材を選んでいる母親を想像し、わずかな罪悪感を覚える。
 スーパーで食材を選んでいる時は、自分が入院するなんて夢にも思っていなかったはずだ。最初から手首を切るつもりなら、わざわざ年越しの用意なんてしなかっただろう。

 僕は黒豆や伊達巻から目をそらして、賞味期限の切れそうなヨーグルトを手に取った。さっき起きた時に暖房をつけたから、家の中も暖まりつつある。容器の中に残ったヨーグルトが少なかったから、スプーンを突っ込んでそのまま食べることにする。キッチンの戸棚の下を漁って使いかけのはちみつを取り出し、気持ち程度にヨーグルトへかけた。
 行儀が悪いとは思いながらも、動くのも面倒でキッチンの床に座り込んでヨーグルトをかきこむ。きゅっと冷たく、空っぽの胃が刺激される。
 ふいに、榊さんはずっとこんな生活をしていたのだろうか、と思った。家族が寄りつかない、一人きりの家で食事をし、眠り――そんなふうに毎日を過ごしていたんだろうか。僕はまだこの静けさに慣れていないけれど、榊さんにとっては静寂が普通だったのかもしれない。ひとりぼっちで弟の骨壺とともに暮らす生活は、彼女の人生になにをもたらしたのだろう。

 僕は食べ終えたヨーグルトの容器を捨て、スプーンを簡単に洗うと、着替えをするために自分の部屋へ戻った。
 ベッドの上に放り出してあったスマホを手に取る。通知はひとつもない。当然だ。頻繁に連絡してくれるような友だちはいない。
 僕が連絡先を交換したのは冴島くんと吉野さん、それに榊さんだけ。冴島くんとはここの疎遠だし、吉野さんは大学受験をするのだといって塾に通っているから連絡する暇もないらしい。榊さんは……今頃どうしているんだろう。
 静かな家に閉じこもっているのも気が滅入りそうで、僕はしっかりとコートを着込んで外に出た。外気が冷たく、肌を刺す。どこかで畑でも焼いているのか、焦げ臭い煙の臭いが漂ってくる。
 ふと空に目を向けて、ぎょっとした。黒い煙がもうもうと空に昇っていくのが見えたからだ。野焼きにしては煙が多すぎるし、そもそも畑を焼いた時の煙はあんなに黒くない。もっと灰色に近い煙が細く昇っていくのが普通だ。

 方角は駅のほう。かなり近いように見える。
 僕の脳裏に、一瞬嫌な予感がよぎった。煙が出ているあの辺り、三角形のアパートがあるところ――榊さんの住んでいる辺りじゃないか?
 僕の不安を煽るように、けたたましいサイレンの音が近づいてくる。すぐそばの道路を何台も連なった消防車が走り抜けていった。やっぱり野焼きなんかではなく、火事なんだ……!
 消防車の後を追うようにして駆け出す。悪い予感は、むくむくと身体の中で大きくなっている。走りながらスマホを取り出し、榊さんに電話をかける。何度呼び出し音が鳴っても、一向に出る気配がない。電話に出て、一言でも声を聞かせてくれるだけでいい。それだけで僕の不安はたちまち解消される。
 消防車は僕を突き放して行ったが、尾を引くようにサイレンの音が響いている。
 脇腹がずきずきと痛み、喉の奥から血の味がしてくる。それでも足を止めることはできなかった。無情にも、消防車の行く先が僕とまったく同じだったから。

 走って、走って、もう走れないと悲鳴を上げる身体を無視して、走り続けた。
 そうして見えたものに、僕は危うく悲鳴を上げかけた。小学生の頃、変な形の建物だと思って通り過ぎるたびにいつも見上げていた、あの三角形のアパート。
 半分以上が、炎に包まれていた。一階はまだ無事で、二階から上がごうごうと音を立てて、燃えている。流れてきた黒煙が目に染みて、うっすらと喉の痛みを覚える。
 消防車から下りた隊員たちが渦巻き状になったホースを伸ばしているところだった。町の消防団の人らしき姿も何人か見えたが、みんな火の勢いに呆然としていて突っ立っているだけだ。消火器やバケツでは太刀打ちできない。消防車は三台ほど来ていたが、この勢いじゃ消火にどのくらいの時間がかかるかわかったものではない。
 僕はもう一度、榊さんに電話をかけた。メッセージも送った。けれど、やはりなんの反応もない。榊さんの住んでいる部屋は二階だ。もし、この火事に巻き込まれたのだとしたら……?

「あ、ちょっと! 君!」

 動きにくいコートを路上に脱ぎ捨て、準備に忙しい消防隊員たちの横を走ってすり抜けた。玄関はまだ焼け落ちていないし、火の手も回ってきていない。
 僕は一切ためらわず、アパートの中へ入った。充満した煙と、冬の寒さをものともしない熱気で息が詰まりそうになる。真っ黒な煙が目に染みて、涙が止まらない。
 避難訓練を思い出し、なるべく姿勢を低くする。浅くなりそうな呼吸を整え、意識してゆっくりと息を吸い込む。後ろから怒号が追いかけてきていたが、知らないふりをした。
 廊下の隅、二階へ上がる階段へたどり着いた時――。
 僕は煙の中で階段を踏み外したように投げ出された、裸足の細い脚を見た。
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