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7章(2)
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「それは嫌だ」
意識するより早く、僕は口に出していた。
「僕はこれからも、榊さんと一緒に生きたい」
病院に行くすがら、頭を占めていたのは「冴島くんの告白を断って欲しい」という身勝手な願いだった。気づいてしまったのだ。僕は榊さんが好きだ。死んで欲しくない、一緒に未来を見たいと思うくらいには。
僕は榊さんの両手を引き寄せた。力を込めると折れてしまいそうなほど細い身体を抱きしめる。僕の腕の中で、榊さんが身体を強張らせたのを感じたが、離すことはできなかった。
「お母さんとの約束なんか、どうでもいいよ。僕と一緒に生きて」
「それ、は……」
「お願い。僕を一人にしないで」
榊さんが息を呑む気配がした。そうだ、僕は今さら一人になりたくない。僕は少なからず、榊さんに救われた。彼女と出会って、母親の呪縛から逃れようとする気力を得た。何度も現実から逃げ出したいと思った。そのたびに僕は知らずのうちに榊さんのことを思い出していた。秘密を共有する、たった一人の理解者。僕はそれを失いたくない。
「勝手なこと言ってるのはわかってる。でも、榊さんがいなきゃだめなんだ」
僕は僕の都合で、榊さんに生きて欲しいと願う。死ぬつもりの彼女に向かって、僕ができることはほとんどないかもしれない。僕の言葉が。すぐに榊さんの心を動かせるとも思っていない。
でも、言いたかった。僕が考えていることをすべて、言葉にしたかった。そうしないと僕は自分の感情に押し潰されそうだったから。榊さんを救うように見せかけて、僕は自分自身のことを救いたかった。
榊さんは僕の胸に腕をついて、身体を引き離した。彼女の顔を見て、息が詰まる。ある種の決意をした人の目だった。なにを言っても、もう榊さんには届かないのだと、確信させられるくらいの強い瞳だった。
「ありがとう。でも……わたしはこうすることでしか、もう自分を救えないの。母親に言われたからじゃない。わたしが、のうのうと生きている自分のことを、許せないから」
榊さんは話は終わったとばかりに立ち上がり、僕の持ってきたレジ袋を手にキッチンへと消えていった。
僕はなにも言えなかった。彼女の背中にかけるべき言葉を、僕はなにひとつとして持たなかった。
◇ ◇ ◇
家に帰った僕を待ち受けていたのは、リビングを漁る父親の姿だった。床には母親の服が散らばっており、あちこちの引き出しが開けられている。
「なにしてんの?」
僕の言葉に、父親はびくっと驚いて振り返った。
「なんだ、瑞希か」
いたずらを咎められた子どものような、居心地の悪そうな顔、その顔が間抜けに見えて、ふつふつと苛立ちが湧き上がってくる。
「病院から連絡があって。母さんの着替えとか、保険証とか、色々準備しなきゃいけないと思ってな」
そう言いながら、まったく的外れな引き出しを開けている父親に、僕は心底嫌気が差した。僕はいつも病院に行く前のように、いつもの引き出しを開け、保険証や障がい者手帳、頓服の薬などをドカッと父親の目の前に放り出す。
「ああ、そんなところに入ってたのか」
「こんなこともわからないくせに、父親なのかよ」
父親の動きが、ぴたりと止まった。怒っているような、戸惑うような視線が僕を射抜く。
「家にも帰って来ないくせに、まだ離婚してないのはなんで? そんなに世間体が大事? 僕にお母さんのこと押しつけておいて、自分はおいしいところだけ持っていこうってわけ?」
「瑞希、お前そんなふうに思って――」
「お母さんも父さんも、僕のことなんて考えたこともないんだろ。……馬鹿でもわかるよ」
僕は言い返せない父親を放っておいて、母親が入院の際にいつも使っている大きなカバンに着替えや保険証などを詰め込んだ。小さな容器に入っているシャンプー類の残量を確認し、病院用の財布に現金を追加する。
持ち上げるとなかなかの重量だ。持ち手を長くし、肩にかける。さっき戻ってきたばかりなのに、また電車に乗って病院へ行くのは面倒だったが父親に都合よく父親面をされるよりはマシだった。
父親を置いて、家を出る。父親は追いかけてこなかった。そんな根性もないだろうけど。
吐く息が白い。曇った空を見上げると、ふわふわと雪が落ちてきていた。まさかの初雪に、僕はしばらく空を仰ぐ。僕のそばを、手を繋いだカップルが通り過ぎていった。眩しさに目がくらむ。僕が欲しかったものは、ことごとく僕の手をすり抜けていく。
榊さんは言った。冴島くんは、眩しすぎると。僕もそう思う。周りの人々は、みんな眩しい。普通の家族、普通の生活。僕にはないものを持っている。この暗闇をわかってくれるのは、やっぱり榊さんしかいないのだ。
電車に乗り込み、目を閉じる。僕の人生は、大半が母親に支配されていた。思えば小学生の時から、僕は母親の機嫌に振り回され、顔色を窺って生きてきた。父親の影はぼんやりとしていて、ほとんどいないに等しい。
僕の人生に、価値なんてものがあるんだろうか。こんなクソみたいな人生に、僕はこれからも向き合って、生き続けなきゃいけないのか?
榊さんが死にたいというのなら、僕も――。
頭に浮かんできた考えを、無理やり打ち消す。
僕は榊さんと一緒に死にたいんじゃない。榊さんと一緒に生きたいんだ。この暗闇を、二人で希望を求めてもがきながら、生き続けていきたいんだ。
意識するより早く、僕は口に出していた。
「僕はこれからも、榊さんと一緒に生きたい」
病院に行くすがら、頭を占めていたのは「冴島くんの告白を断って欲しい」という身勝手な願いだった。気づいてしまったのだ。僕は榊さんが好きだ。死んで欲しくない、一緒に未来を見たいと思うくらいには。
僕は榊さんの両手を引き寄せた。力を込めると折れてしまいそうなほど細い身体を抱きしめる。僕の腕の中で、榊さんが身体を強張らせたのを感じたが、離すことはできなかった。
「お母さんとの約束なんか、どうでもいいよ。僕と一緒に生きて」
「それ、は……」
「お願い。僕を一人にしないで」
榊さんが息を呑む気配がした。そうだ、僕は今さら一人になりたくない。僕は少なからず、榊さんに救われた。彼女と出会って、母親の呪縛から逃れようとする気力を得た。何度も現実から逃げ出したいと思った。そのたびに僕は知らずのうちに榊さんのことを思い出していた。秘密を共有する、たった一人の理解者。僕はそれを失いたくない。
「勝手なこと言ってるのはわかってる。でも、榊さんがいなきゃだめなんだ」
僕は僕の都合で、榊さんに生きて欲しいと願う。死ぬつもりの彼女に向かって、僕ができることはほとんどないかもしれない。僕の言葉が。すぐに榊さんの心を動かせるとも思っていない。
でも、言いたかった。僕が考えていることをすべて、言葉にしたかった。そうしないと僕は自分の感情に押し潰されそうだったから。榊さんを救うように見せかけて、僕は自分自身のことを救いたかった。
榊さんは僕の胸に腕をついて、身体を引き離した。彼女の顔を見て、息が詰まる。ある種の決意をした人の目だった。なにを言っても、もう榊さんには届かないのだと、確信させられるくらいの強い瞳だった。
「ありがとう。でも……わたしはこうすることでしか、もう自分を救えないの。母親に言われたからじゃない。わたしが、のうのうと生きている自分のことを、許せないから」
榊さんは話は終わったとばかりに立ち上がり、僕の持ってきたレジ袋を手にキッチンへと消えていった。
僕はなにも言えなかった。彼女の背中にかけるべき言葉を、僕はなにひとつとして持たなかった。
◇ ◇ ◇
家に帰った僕を待ち受けていたのは、リビングを漁る父親の姿だった。床には母親の服が散らばっており、あちこちの引き出しが開けられている。
「なにしてんの?」
僕の言葉に、父親はびくっと驚いて振り返った。
「なんだ、瑞希か」
いたずらを咎められた子どものような、居心地の悪そうな顔、その顔が間抜けに見えて、ふつふつと苛立ちが湧き上がってくる。
「病院から連絡があって。母さんの着替えとか、保険証とか、色々準備しなきゃいけないと思ってな」
そう言いながら、まったく的外れな引き出しを開けている父親に、僕は心底嫌気が差した。僕はいつも病院に行く前のように、いつもの引き出しを開け、保険証や障がい者手帳、頓服の薬などをドカッと父親の目の前に放り出す。
「ああ、そんなところに入ってたのか」
「こんなこともわからないくせに、父親なのかよ」
父親の動きが、ぴたりと止まった。怒っているような、戸惑うような視線が僕を射抜く。
「家にも帰って来ないくせに、まだ離婚してないのはなんで? そんなに世間体が大事? 僕にお母さんのこと押しつけておいて、自分はおいしいところだけ持っていこうってわけ?」
「瑞希、お前そんなふうに思って――」
「お母さんも父さんも、僕のことなんて考えたこともないんだろ。……馬鹿でもわかるよ」
僕は言い返せない父親を放っておいて、母親が入院の際にいつも使っている大きなカバンに着替えや保険証などを詰め込んだ。小さな容器に入っているシャンプー類の残量を確認し、病院用の財布に現金を追加する。
持ち上げるとなかなかの重量だ。持ち手を長くし、肩にかける。さっき戻ってきたばかりなのに、また電車に乗って病院へ行くのは面倒だったが父親に都合よく父親面をされるよりはマシだった。
父親を置いて、家を出る。父親は追いかけてこなかった。そんな根性もないだろうけど。
吐く息が白い。曇った空を見上げると、ふわふわと雪が落ちてきていた。まさかの初雪に、僕はしばらく空を仰ぐ。僕のそばを、手を繋いだカップルが通り過ぎていった。眩しさに目がくらむ。僕が欲しかったものは、ことごとく僕の手をすり抜けていく。
榊さんは言った。冴島くんは、眩しすぎると。僕もそう思う。周りの人々は、みんな眩しい。普通の家族、普通の生活。僕にはないものを持っている。この暗闇をわかってくれるのは、やっぱり榊さんしかいないのだ。
電車に乗り込み、目を閉じる。僕の人生は、大半が母親に支配されていた。思えば小学生の時から、僕は母親の機嫌に振り回され、顔色を窺って生きてきた。父親の影はぼんやりとしていて、ほとんどいないに等しい。
僕の人生に、価値なんてものがあるんだろうか。こんなクソみたいな人生に、僕はこれからも向き合って、生き続けなきゃいけないのか?
榊さんが死にたいというのなら、僕も――。
頭に浮かんできた考えを、無理やり打ち消す。
僕は榊さんと一緒に死にたいんじゃない。榊さんと一緒に生きたいんだ。この暗闇を、二人で希望を求めてもがきながら、生き続けていきたいんだ。
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