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6章(6)

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 せめて買ってきた食材だけでも置いて帰ろうと、僕はアパートの入口をくぐった。冴島くんが帰ってくる姿はまだ見ていない。ドアノブにレジ袋をかけておいて、榊さんに連絡しておけばいいだろう。
 階段を上りはじめた時、ズボンのポケットの中でしきりにスマホが震えていることに気づいた。ポケットを漁り、スマホを取り出す。画面に映し出されているのは母親が通っている病院の電話番号だった。
 嫌な予感がする。急速に身体が芯まで冷えていく。手のひらには冷や汗をかき、危うくスマホを取り落とすところだった。

「……はい」

 応答ボタンをタップし、おそるおそる電話に出る。電話口の女性は「あっ」と声を上げたあと、早口でまくし立てた。

『幌川市立病院です。森岡瑞希さんの携帯ですね? お母さんが救急搬送されましたので、至急病院まで来てください。精神科の救急病棟です』

 返事をする間もなく、電話は切れた。
 僕は迷わず、連絡帳のアプリから父親の番号をタップする。数秒の沈黙のあと、呼び出し音が鳴りはじめた。しかし何度鳴っても父親が出る気配はない。年末も近いが、まだ仕事中なんだろうか。
 父親へ連絡を取るのを諦め、僕はアパートの二階に駆け上がった。幸い、冴島くんと鉢合わせることはなさそうだ。201号室のドアノブにレジ袋をかけ、上ってきたばかりの階段を二段飛ばしで下りる。
 駅に着くと、ちょうどよく幌川行きの電車がホームへ滑り込んでくるところだった。残額が定かではないカードをタッチして改札を抜け、扉が閉まる直前に車内へ滑り込む。
 電車はガラガラに空いていた。適当なところに腰を下ろし、メッセージアプリを開く。榊さんには「玄関に食材を置いてきた」という旨のメッセージだけを送った。本当はもっと言いたいことがたくさんあったが、いざ文字にしようと思うと、どれも目の前で霧散してしまった。

 病院に着くと、僕はほとんど慣れた足取りで精神科のフロアへ向かった。外来の看護士に声をかけると、すぐさま病棟に案内される。
 閉鎖病棟の個室で、母親は眠っていた。前髪に血の固まったものがこびりつき、左の手首には包帯がぐるぐる巻きになっている。

「手首の傷は縫合しました。今は沈静をかけて、眠らせています」

 急患に駆り出されたと思しき若い医者は、無感動に言った。母親の目が覚める頃に、担当医の診察があるという。僕はベッドの脇に置かれた丸いパイプ椅子に腰かけた。背もたれがなく、自然と背を丸めるように座ってしまう。
 ベッドで眠る母親の顔は青白く、頬はこけて、急に老け込んだように見えた。僕がすこし目を離した間に、何歳も歳を取ってしまったようだ。僕はずっと、母親から目を逸らし続けていた。それは僕の責任じゃないと主張するみたいに。
 一度、病室を出て通話可能エリアまで行く。もう一度、父親に電話をしてみたがやはり出なかった。電車の中で父親に向けて送ったメッセージは既読になっていたが、なんの返信もない。
 自分の妻が病院に運ばれたというのに、父親はなにも気にならないのか? それとも面倒ごとは避けたくて、いつものように僕に押しつけようとしているのか?

 続けてメッセージアプリの画面をスクロールする。榊さんに送ったメッセージはまだ既読になっていなかった。
 今頃、冴島くんと二人で一緒にいるのだろうか。そう思うと、心の奥底がチクチクと痛むような気がする。心のどこかで、榊さんのことを本当に理解しているのは僕だけだという根拠のない自負が湧き上がってきていた。
 わかってる。全部、僕の都合のいい妄想だ。たしかに僕らは「親」という同じ敵に向かって立ち向かう戦友なのかもしれない。でも、それ以上でも以下でもないのだ。冴島くんのように、なんにも臆せず彼女を好きだと言うことはできない。
 病室へ戻ると、ベッドの上で母親がぼんやりと目を開いていた。ぽつぽつと滴る点滴の玉を見つめているようだ。

「もう、帰って来ないのかと思った」

 あの人みたいに。母親はぽつりと呟いた。

「だからこんなことしたの?」

 僕は母親の気持ちを慮ることも忘れ、つい尖った口調で尋ねた。母親がかすかに首を縦に振る。

「瑞希は……お母さんの味方だもの」
「違う、違うよ……」

 母親は僕を思い通りに操ろうとしているだけだ。そこに僕の意思は介在しない。
 僕はこんなふうに生きたかったわけじゃない。母親に縛られ、父親の代わりになることを求められる人生なんて、僕は一度も望んでいない。手首を切ってまで僕を自分の元に留めようとする母親の姿に、僕は嫌悪感すら覚えた。
 逃げ出したい。母親のことなんて見捨てて、どこか遠くへ行きたい。
 項垂れる僕と、うつらうつらとする母親の元に担当医がやってきた。いつも外来で母親の診察をしてくれる医師だ。彼は僕だけを廊下に呼び出し、僕の代わりとして若い看護士を病室に置いた。
 廊下に出ると、医者が穏やかな目で僕を見つめてくる。

「お母さんがあんなことをした理由、なにか心当たりある?」

 責められている雰囲気はない。この人になら話してもいいかも、と思わせるものがあった。
 僕は正直に話した。母親の面倒を見ることが負担になっていること。父親の代わりとして自分が求められていること。次第に家から足が遠ざかっていること。母親は僕の交友関係を疎ましく思っていること。
 僕の話を一度も遮ることなく、時折ゆっくりとした相槌を挟みながら、医者は最後まで僕の話を聞いてくれた。僕のことを責めることも、母親や父親のことを悪く言うこともなかった。肯定も否定もしない。ただ、事実を事実のままに受け止めている。

「疲れるのも当たり前だろう。君は、多くのものを背負わされすぎている」

 医者は一瞬だけ、僕を憐れむような目で見た。医者として何人も、僕と同じような人を見てきたんだろうか。

「お母さんは数日、入院してもらうことになるかな。お父さんには私から連絡しておくから、君が気に病む必要はないよ」

 その時、僕は自分の心に渦巻く感情を認めてしまった。
 このまま一生、母親が帰って来なければいいのに。
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