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6章(4)

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 榊さんから「家に戻った」と連絡があったのは、救急車を呼んでから四日後のことだった。授業が終わった後、何気なくスマホを見て榊さんからのメッセージに気づいたのだ。僕は駅に着くなり、母親に「本屋に寄ってから帰るからすこし遅くなる」と電話して、彼女の家に向かった。
 階段を上るのももどかしく、僕は201号室の前で乱れた息を整える。
 この四日で、僕はどうしようもなく自覚してしまった。榊さんに会いたい。榊さんを守りたい。彼女を襲う、あらゆる悪意から。
 過去なんてどうだっていい。周りが言うように、榊さんは過去に人を殺したことがあるのかもしれない。でも、そんなの僕にとっては些細な問題だ。それは過去のことであって、今の榊さんではないから。今の榊さんが苦しんでいるのなら、僕は力になりたい。

 榊さんに対する思いは、僕が自分に対して思うことの裏返しだったのかもしれない。僕も、ずっと誰かに助けて欲しいと思っていた。誰かが、僕を母親から引き離してくれることを望んでいた。
 その願いの半分くらいは、榊さんのおかげで達成されたかもしれない。僕は彼女と同じクラスになってから、なんとかもがいて母親から離れようとしている。去年までの僕だったら、考えられないことだ。
 インターホンを押すと、すぐに室内から足音が聞こえ、扉が細く開いた。
 四日ぶりに見た榊さんは、顔色は悪くなかったがすこし痩せたようだった。
 榊さんは無言で扉を大きく開け、僕に室内へ入るよう促す。履き潰したスニーカーを脱いで、部屋に上がった。リビングには脱ぎ捨てられた服や、総合栄養食の空き袋などが散乱している。寝ているのかいないのか、和室に敷かれた布団は敷き布団までくしゃくしゃになって、部屋の隅に追いやられていた。

「今日は学校行ったの?」

 榊さんの声は固く、掠れて聞き取りにくかった。視線を合わせると、先ほどは気にならなかった目の下の隈がやけに目に入る。

「そろそろ冬休み前の考査範囲の発表があるから」
「テスト、いつだっけ?」
「来月の十日から」

 榊さんは興味を失ったように、フローリングの地べたに座り込んだ。凡人の僕にとっては事前にテストの出題範囲を知ることは重要だが、寝ていても満点を取れる榊さんは出題範囲など知っても知らなくても、なんの問題もないのだろう。
 そっと榊さんの様子を盗み見て、息を呑む。いつものような飄々とした、何事にも動じない安定感のある姿はどこにもない。あの榊さんが、ただ目の前の現実に疲れ切って、なにもできないみたいに呆然と座り込んでいるのだ。
 僕は床に転がっていた空のペットボトルと、菓子パンの空き袋を拾い上げた。

「掃除、するよ」
「うん」

 榊さんは床に座り込んだまま、どこか遠くを見ている。僕はリュックを下ろし、本格的に掃除をする姿勢を取った。床に散らばったゴミを集め、ゴミ箱に突っ込む。部屋のあちこちに落ちているしわくちゃの服をかき集め、洗濯機に放り込む。
 飲みかけのお茶のペットボトルをしまおうと冷蔵庫を開けると、中はほとんど空っぽだった。使いかけの味噌がすこしと、とっくに消費期限の切れた納豆が二パックあるだけだ。

「ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
「菓子パンの袋ばっかり出てくるけど」
「菓子パンだって食事じゃん」
「……そうだけど」

 なにかが欠けていた。決定的に、榊さんは変わってしまった。僕の言うことを聞いているようで、まったく聞いていない。なにを言っても、吐き出した言葉は榊さんい届いているように見えて、その実ただ身体を通り過ぎている。
 部屋が綺麗になっていっても、榊さんは動かなかった。ぼうっと宙を見つめ、僕の行動にはまるで気を配っていない。魂がすっかり抜け落ちてしまったようだった。

「もう、無理なんだと思う」

 ふいに榊さんが言った。ぽっかりと穴が空いたような言葉。

「なにが?」
「生きてるのが」

 僕は手を止めて、榊さんを見た。表情の抜け落ちた、亡霊みたいな顔がそこにある。もつれた黒髪が頬にかかっても、彼女はまったく気にしなかった。

「母親の言う通りなんだ。わたしは、人を殺した」

 長く閉ざしていた蓋を開けるように、榊さんは慎重に口を開く。

「弟が死んだのを見て、やるしかないって思った」

 榊さんが大きく息を吸い込み、そして吐き出す。

「義理の父親を殺したのは、わたし」
「でもそれは、正当防衛みたいなものでしょ? 弟は刺されて、榊さんは膝の骨を折って――」
「あいつを殺したところで、弟は生き返らない!」

 絶叫が、耳を打った。いつの間にか榊さんは立ち上がって、ゴミを拾っていた僕を見下ろしていた。Tシャツに包まれた肩が大きく上下している。

「わたしもあのとき一緒に死ぬべきだった! 弟と一緒に黙ってあいつに殺されるべきだった!」

 榊さんの顔が、くしゃりと歪む。突然くず折れたその身体を、僕は慌てて受け止めた。痩せた身体が腕の中で小さく震えている。
 まるで迷子になった小さな子どものように、榊さんは声を上げて泣いた。制服のシャツに榊さんの涙が染み込んでいく。どんな言葉も今の榊さんには届きそうになかった。僕にできるのは、ただ黙って荒れ狂う感情の波を受け止めることだけだ。
 内側に溜まったものをすべて吐き出すみたいに、わんわんと声を上げて泣く榊さんを抱きとめながら、僕はじっと俯いていた。慰めの言葉も、頭ひとつ撫でることもできないまま。
 榊さんの腕が、僕の身体に絡みつく。僕の胸に顔を埋め、榊さんは泣いた。
 彼女が一人で耐えてきたものの重さに、僕は押し潰されそうだった。
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