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6章(3)

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 その笑みに、背筋がぞくりと粟立った。目の前で人が死にかけているのに、どうして笑っていられるんだ。
 僕は躊躇わず、スマホを押さえてきた手を振り払った。長い爪が手の甲に引っかかり、ひっかき傷ができる。女性の顔を見上げて、確信した。

「榊さんの、お母さんですよね?」

 女性がつまらなさそうに鼻を鳴らす。

「そうだけど?」

 化粧の濃さに反比例するように、笑みは薄っぺらい。まるで自分の娘を虫でも見るかのような冷たい視線で見下ろしている。
 得体の知れない、恐ろしさを感じた。僕の母親も他人が見れば相当厄介な人種に違いないけれど、この人は僕の母親とはまた違った危険なものを感じる。
 膝が震えそうになるのをこらえながら、榊さんの母親を見上げる。

「榊さんから話は聞いています。十八歳までに死ななければいけないと、お母さんと約束したと――」
「知ってるの? なら、話は早いじゃない。その子は早く死ぬべきなの。生きていていい理由がないんだから」
「どんな理由があったとしても、自分の子どもに早く死んで欲しいって思うなんて間違ってる!」

 僕の大声に、榊さんがびくりと肩を跳ね上げた。
 彼女の周りに散らばっている錠剤のシートをひとつ手に取る。よく見慣れたシート。僕の母親が常用している睡眠薬だ。多量に飲めば、昏睡状態に陥る。効果の強い薬だから、一回の処方量にも上限があったはずだ。それをここまで溜め込めるなんて、相当前から準備していたことを窺わせる。
 僕は一歩も引かず、榊さんの母親と睨み合った。僕は榊さんを助けたい。榊さんがこんなところで死んでいいはずがない。母親との約束がなんだっていうんだ? たとえ彼女が義理の父親を刺したのだとしても、それは弟が身の危険に晒されていたからじゃないのか。
 再度スマホに伸ばされた手をかわし、素早くキーパッドをタップする。110。

「これ以上、救護の邪魔をするなら警察を呼びます」

 スマホを掲げ、自分でもどこからそんな勇気が出てくるのか不思議に思うほど、僕は果敢に立ち向かう。

「この場面を見られて困るのは、お母さんのほうじゃないんですか?」

 息を呑む音が聞こえた。真っ赤な口紅に彩られた唇が、醜く歪む。しきりに爪を噛み、苛立ったような様子を見せる。迷っているのか? 僕は本気だ。嘘なんかつかない。もう一回、手を伸ばしてみろ。その時は迷わず通話ボタンを押す。
 ふっと、視線が外された。榊さんの母親が、僕に背を向ける。

「人殺しを庇ったら、後悔するわよ」

 捨て台詞のようなものを残し、ドスドスとした足音が響く。きつい香水の匂いをまき散らしながら、彼女は家から出て行った。叩きつけるように閉められた玄関のドアが軋みを上げる。
 僕は安堵する間もなく、スマホを操作して救急車を呼んだ。榊さんの前にしゃがみ込み、青白い顔を覗き込む。

「飲んでから何分経った?」

 僕の言葉に、榊さんが顔を上げる。瞳がぼんやりとしていて、左右に揺れている。

「たぶん、三十分くらい……」

 僕は唇を噛んだ。そろそろ薬が吸収されはじめる頃だ。救急車は五分ほどで到着すると言ったが、その五分が果てしなく長く感じる。

「この薬はどうしたの? 榊さんが病院でもらったもの?」
「……母親が、持ってきた。あの人、別の精神科に行ってるから」
「榊さんが飲みたくて飲んだわけじゃないんだよね?」

 榊さんは耐えきれなかったように目を閉じ、小さくうなずいた。
 意識が途切れるのを防ぐように、僕は必死に話しかける。そのどれもに、榊さんはわずかな反応しか示さない。
 榊さんの手が、縋るように僕の腕を掴んだ。腕を襲った感覚にぞっとする。榊さんの手は死人のように冷たく、強張っていた。
 僕は彼女の震え続ける肩を抱いた。大丈夫だと、絶対に助かると、何度も何度も言葉にして、僕の体温を分けるように肩をさする。

 やがて遠くから、救急車のサイレンが聞こえてきた。電車の通過音にも負けないほど、だんだんと大きくなってくる。
 僕は榊さんをほとんど抱え上げるようにして、玄関を出た。担架を持った救急隊員の人と廊下で鉢合わせる。僕が家族ではないとわかると、丁寧だが、はっきりとした口調で同乗を断られた。
 榊さんを乗せた救急車が、サイレンの音を響かせながら遠ざかっていく。行き先はおそらく、隣の市の中規模な病院だろう。いっそ追いかけようかとも思ったけれど、やめた。行ったところで家族でもない僕が榊さんに会えるわけがない。

 いっそ榊さんの家で帰ってくるまで待とうかとも思ったが、いつ帰ってくるかわからないし、そのまま入院になるかもしれない。
 僕は仕方なく、もやもやとしたものを抱えたまま帰路に着いた。アパートの向かいの民家から知らない中年の女性が顔を覗かせていた。きっと救急車のサイレンを聞いて、野次馬しに来たのだろう。あそこのアパートに救急車が止まった。乗っていったのは若い女の子だった。そんな噂がすぐに町内を回り出す。
 薬を飲ませたのは母親だ。彼女は本気で自分の娘を殺そうとしていた。あくまで、自殺だと言い張る気で。
 僕は重たくなってきた頭を無理やり持ち上げ、自分の家を目指した。色んな思いがぐるぐると頭の中を巡っていた。パソコンをシャットダウンするように、自分の思考も強制的に断ち切れたらいいのに、とこの時ばかりは考えざるを得なかった。
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