29 / 46
5章(3)
しおりを挟む
一週間で二、三日のペースで登校しているうちに、あっという間に文化祭の日がやってきた。僕はついぞ、一度も放課後の準備には加わらなかった。
当日の朝は見事な秋晴れだったが、僕の心はどんよりと重たい。朝になって突然、「文化祭を見に行く」と言い出した母親が原因だ。僕は母の機嫌を損ねないよう、なんとか止めようとしたが、母は頑として聞かなかった。
母は疑問に思わなかったのだろうか。数えるほどしか登校せず、登校した日も放課後残ることなく、まっすぐ家に帰ってくる息子がどうして文化祭の準備に参加できると思うのか。想像力が足りないというか、そもそも自分の行いが子どもの道を狭めていることにまるで気づかないのだ。
「準備があるから、先に行くね。一般公開は十時からだから」
僕はそう言いながら、玄関で靴を履いた。
午前七時半、一般公開までは二時間以上ある。
行きたくない。行ったところで、僕の役割はない。クラスメイトは皆、僕が文化祭当日に来るなんて想像もしていないだろう。
僕も、まさか当日に家から出ることになるなんて思ってもみなかった。いつものように母親に付き合って、家でグダグダと過ごし、参加できなかった文化祭に思いを馳せるだけだと思っていたのに。
なんとか文化祭に行かずに済ませることはできないか。せめて一般公開がはじまり、母親が高校に顔を出す時間まで、別の場所で時間を潰したい。一般公開がはじまる時間になったら、素知らぬ顔をして高校に行き、母親と合流すればいい。最初から文化祭に参加していました、みたいな顔をして。
いつまでも玄関で固まっているわけにもいかず、僕は母親の軽やかな声を聞きながらのろのろと立ち上がって、家を出た。
道路に一歩を踏み出し、家の目の前にある公園に何気なく目を向ける。
その時、僕の周りの時間が止まったようだった。目に飛び込んできた光景が、あまりにも信じられなくて。本当に、夢みたいで。僕は一瞬、息が詰まりかけた。
詰まりかけた息を大きく吸い直して、公園のほうへ歩き出す。早朝の、誰もいない静かな公園。夕方には近所の子どもたちが占領するブランコに、いまは高校の制服に紺色のカーディガンを羽織った女の子が一人、座っている。目線は手に持ったスマホに落ちていて、時折思い出したように地面を足で蹴ってブランコを揺らす。
涼しい風に、夏よりすこし伸びた黒髪がなびく。キイ、と金属音を立ててブランコがゆっくり動きを止めた。スマホに落とされていた視線が持ち上がり、僕を捉える。
「いつから、いたの」
僕は何時に家を出るとか、そもそも今日学校に向かうこととか、誰にも言っていなかった。今日の出来事は僕にとってもイレギュラーだったからだ。母親の一言がなければ、僕はいま公園に足を向けたりしていない。なのに彼女はここにいる。僕が必ず文化祭に向かうと知っていたみたいに。
制服姿の彼女――榊さんはローファーの爪先で砂利を蹴って立ち上がった。ピッと人差し指を立てて、空に向ける。
「テレパシー」
「……なにそれ」
言いながら、思わず吹き出してしまった。榊さんがそんな冗談を言うとは思わなかった。鼻の頭と髪から覗く耳がすこし赤い。寒さを感じるくらいには、公園で時間を食い潰していたわけだ。
僕はリュックを地面に下ろして、羽織っていたブレザーを脱いだ。猫に歩み寄るようにそっと榊さんとの距離を詰め、脱いだブレザーを彼女の肩にかけて、リュックを背負い直す。
榊さんは抵抗しなかった。元々制服の上からカーディガンを羽織っていたから、僕のブレザーまで羽織ると着膨れしている。上半身だけもこもこで、下半身は膝丈のスカートにハイソックスと、寒そうではあるが。
「いい考えがあるの」
ブランコから立ち上がりながら、榊さんが言う。そばに立った榊さんは、思ったよりも小さかった。僕の背が伸びたんだろうか。頭ひとつ分くらい下にある彼女の顔を見て、先を促す。
「一緒に逃げよう」
そう言って、榊さんは僕の手を取った。なめらかで、ひんやりとした手だった。
「逃げるって、どこに」
きゅるきゅるとした猫のような目が、僕を見上げてくる。握られた手が、じわじわと熱くなる。桜色の唇が秘密の魔法を唱えるみたいにゆっくりと動く。
「どこでも――わたしたち、二人だけでどこかに行こう」
僕は彼女から目を逸らし、振り返った。母親がいる自分の家を。学校へ行っても、僕の居場所はそこにはない。家に帰ることもできない。
――遠くへ。誰もいない、遠くへ。
かすかに聞こえた呟きが、やがて大きな波になって僕を襲った。誰もいない場所。誰も、僕たちのことを知らない場所。僕の母親のことも、榊さんが抱えたまま見せようとしない何物かについても、なにも知らない場所。僕たちが、ただの大人になりかけの人間としてそこにいられる場所。
手を引かれた。僕は抗わなかった。榊さんの歪な歩みに合わせて、一歩一歩を踏みしめるように歩き出す。
歩きながら、僕たちは一言も言葉を交わさなかった。まるで話してしまえば、すべてが泡のように消えるのだと信じているみたいに。
十分ほど歩いて毎朝通学に使う無人駅に着いた僕らは、示し合わせたみたいに高校とは反対へ行く電車の切符を買った。なにも考えず、終点まで。
遠くで踏切の閉まる音がして、滑るように電車がホームに入ってくる。風にあおられたスカートを押さえながら、榊さんはすこしだけ僕のほうを見て笑った。反対側のホームには、出社するサラリーマンに混じって、同じ制服を着た高校生が何人か立っていた。
「終点まで乗ったら、どこに行くんだろう」
僕は電車に乗り込みながら言った。車内にはほとんど人がいない。榊さんと二人、並んで緑色のシートに腰掛ける。
「どこでもいいよ」
彼女の答えは簡潔だった。はじめから、こうすることを決めていたみたいに、なにもかもがスムーズだった。
ゆっくりと電車が動き出し、窓から見える風景が加速していく。膝の上に置いたリュックが電車の振動でわずかに揺れる。
心地いい揺れに身を任せるように、榊さんが目を閉じたのが見えた。肩の辺りに、ほんのりとした体温を感じる。僕はただ前を向いて、流れていく景色を見つめていた。
当日の朝は見事な秋晴れだったが、僕の心はどんよりと重たい。朝になって突然、「文化祭を見に行く」と言い出した母親が原因だ。僕は母の機嫌を損ねないよう、なんとか止めようとしたが、母は頑として聞かなかった。
母は疑問に思わなかったのだろうか。数えるほどしか登校せず、登校した日も放課後残ることなく、まっすぐ家に帰ってくる息子がどうして文化祭の準備に参加できると思うのか。想像力が足りないというか、そもそも自分の行いが子どもの道を狭めていることにまるで気づかないのだ。
「準備があるから、先に行くね。一般公開は十時からだから」
僕はそう言いながら、玄関で靴を履いた。
午前七時半、一般公開までは二時間以上ある。
行きたくない。行ったところで、僕の役割はない。クラスメイトは皆、僕が文化祭当日に来るなんて想像もしていないだろう。
僕も、まさか当日に家から出ることになるなんて思ってもみなかった。いつものように母親に付き合って、家でグダグダと過ごし、参加できなかった文化祭に思いを馳せるだけだと思っていたのに。
なんとか文化祭に行かずに済ませることはできないか。せめて一般公開がはじまり、母親が高校に顔を出す時間まで、別の場所で時間を潰したい。一般公開がはじまる時間になったら、素知らぬ顔をして高校に行き、母親と合流すればいい。最初から文化祭に参加していました、みたいな顔をして。
いつまでも玄関で固まっているわけにもいかず、僕は母親の軽やかな声を聞きながらのろのろと立ち上がって、家を出た。
道路に一歩を踏み出し、家の目の前にある公園に何気なく目を向ける。
その時、僕の周りの時間が止まったようだった。目に飛び込んできた光景が、あまりにも信じられなくて。本当に、夢みたいで。僕は一瞬、息が詰まりかけた。
詰まりかけた息を大きく吸い直して、公園のほうへ歩き出す。早朝の、誰もいない静かな公園。夕方には近所の子どもたちが占領するブランコに、いまは高校の制服に紺色のカーディガンを羽織った女の子が一人、座っている。目線は手に持ったスマホに落ちていて、時折思い出したように地面を足で蹴ってブランコを揺らす。
涼しい風に、夏よりすこし伸びた黒髪がなびく。キイ、と金属音を立ててブランコがゆっくり動きを止めた。スマホに落とされていた視線が持ち上がり、僕を捉える。
「いつから、いたの」
僕は何時に家を出るとか、そもそも今日学校に向かうこととか、誰にも言っていなかった。今日の出来事は僕にとってもイレギュラーだったからだ。母親の一言がなければ、僕はいま公園に足を向けたりしていない。なのに彼女はここにいる。僕が必ず文化祭に向かうと知っていたみたいに。
制服姿の彼女――榊さんはローファーの爪先で砂利を蹴って立ち上がった。ピッと人差し指を立てて、空に向ける。
「テレパシー」
「……なにそれ」
言いながら、思わず吹き出してしまった。榊さんがそんな冗談を言うとは思わなかった。鼻の頭と髪から覗く耳がすこし赤い。寒さを感じるくらいには、公園で時間を食い潰していたわけだ。
僕はリュックを地面に下ろして、羽織っていたブレザーを脱いだ。猫に歩み寄るようにそっと榊さんとの距離を詰め、脱いだブレザーを彼女の肩にかけて、リュックを背負い直す。
榊さんは抵抗しなかった。元々制服の上からカーディガンを羽織っていたから、僕のブレザーまで羽織ると着膨れしている。上半身だけもこもこで、下半身は膝丈のスカートにハイソックスと、寒そうではあるが。
「いい考えがあるの」
ブランコから立ち上がりながら、榊さんが言う。そばに立った榊さんは、思ったよりも小さかった。僕の背が伸びたんだろうか。頭ひとつ分くらい下にある彼女の顔を見て、先を促す。
「一緒に逃げよう」
そう言って、榊さんは僕の手を取った。なめらかで、ひんやりとした手だった。
「逃げるって、どこに」
きゅるきゅるとした猫のような目が、僕を見上げてくる。握られた手が、じわじわと熱くなる。桜色の唇が秘密の魔法を唱えるみたいにゆっくりと動く。
「どこでも――わたしたち、二人だけでどこかに行こう」
僕は彼女から目を逸らし、振り返った。母親がいる自分の家を。学校へ行っても、僕の居場所はそこにはない。家に帰ることもできない。
――遠くへ。誰もいない、遠くへ。
かすかに聞こえた呟きが、やがて大きな波になって僕を襲った。誰もいない場所。誰も、僕たちのことを知らない場所。僕の母親のことも、榊さんが抱えたまま見せようとしない何物かについても、なにも知らない場所。僕たちが、ただの大人になりかけの人間としてそこにいられる場所。
手を引かれた。僕は抗わなかった。榊さんの歪な歩みに合わせて、一歩一歩を踏みしめるように歩き出す。
歩きながら、僕たちは一言も言葉を交わさなかった。まるで話してしまえば、すべてが泡のように消えるのだと信じているみたいに。
十分ほど歩いて毎朝通学に使う無人駅に着いた僕らは、示し合わせたみたいに高校とは反対へ行く電車の切符を買った。なにも考えず、終点まで。
遠くで踏切の閉まる音がして、滑るように電車がホームに入ってくる。風にあおられたスカートを押さえながら、榊さんはすこしだけ僕のほうを見て笑った。反対側のホームには、出社するサラリーマンに混じって、同じ制服を着た高校生が何人か立っていた。
「終点まで乗ったら、どこに行くんだろう」
僕は電車に乗り込みながら言った。車内にはほとんど人がいない。榊さんと二人、並んで緑色のシートに腰掛ける。
「どこでもいいよ」
彼女の答えは簡潔だった。はじめから、こうすることを決めていたみたいに、なにもかもがスムーズだった。
ゆっくりと電車が動き出し、窓から見える風景が加速していく。膝の上に置いたリュックが電車の振動でわずかに揺れる。
心地いい揺れに身を任せるように、榊さんが目を閉じたのが見えた。肩の辺りに、ほんのりとした体温を感じる。僕はただ前を向いて、流れていく景色を見つめていた。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。
矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。
女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。
取って付けたようなバレンタインネタあり。
カクヨムでも同内容で公開しています。
【完結】碧よりも蒼く
多田莉都
青春
中学二年のときに、陸上競技の男子100m走で全国制覇を成し遂げたことのある深田碧斗は、高校になってからは何の実績もなかった。実績どころか、陸上部にすら所属していなかった。碧斗が走ることを辞めてしまったのにはある理由があった。
それは中学三年の大会で出会ったある才能の前に、碧斗は走ることを諦めてしまったからだった。中学を卒業し、祖父母の住む他県の高校を受験し、故郷の富山を離れた碧斗は無気力な日々を過ごす。
ある日、地元で深田碧斗が陸上の大会に出ていたということを知り、「何のことだ」と陸上雑誌を調べたところ、ある高校の深田碧斗が富山の大会に出場していた記録をみつけだした。
これは一体、どういうことなんだ? 碧斗は一路、富山へと帰り、事実を確かめることにした。
[完結済み]男女比1対99の貞操観念が逆転した世界での日常が狂いまくっている件
森 拓也
キャラ文芸
俺、緒方 悟(おがた さとる)は意識を取り戻したら男女比1対99の貞操観念が逆転した世界にいた。そこでは男が稀少であり、何よりも尊重されていて、俺も例外ではなかった。
学校の中も、男子生徒が数人しかいないからまるで雰囲気が違う。廊下を歩いてても、女子たちの声だけが聞こえてくる。まるで別の世界みたいに。
そんな中でも俺の周りには優しいな女子たちがたくさんいる。特に、幼馴染の美羽はずっと俺のことを気にかけてくれているみたいで……
校長先生の話が長い、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
学校によっては、毎週聞かされることになる校長先生の挨拶。
学校で一番多忙なはずのトップの話はなぜこんなにも長いのか。
とあるテレビ番組で関連書籍が取り上げられたが、実はそれが理由ではなかった。
寒々とした体育館で長時間体育座りをさせられるのはなぜ?
なぜ女子だけが前列に集められるのか?
そこには生徒が知りえることのない深い闇があった。
新年を迎え各地で始業式が始まるこの季節。
あなたの学校でも、実際に起きていることかもしれない。
彼女に振られた俺の転生先が高校生だった。それはいいけどなんで元カノ達まで居るんだろう。
遊。
青春
主人公、三澄悠太35才。
彼女にフラれ、現実にうんざりしていた彼は、事故にあって転生。
……した先はまるで俺がこうだったら良かったと思っていた世界を絵に書いたような学生時代。
でも何故か俺をフッた筈の元カノ達も居て!?
もう恋愛したくないリベンジ主人公❌そんな主人公がどこか気になる元カノ、他多数のドタバタラブコメディー!
ちょっとずつちょっとずつの更新になります!(主に土日。)
略称はフラれろう(色とりどりのラブコメに精一杯の呪いを添えて、、笑)
可愛すぎるクラスメイトがやたら俺の部屋を訪れる件 ~事故から助けたボクっ娘が存在感空気な俺に熱い視線を送ってきている~
蒼田
青春
人よりも十倍以上存在感が薄い高校一年生、宇治原簾 (うじはられん)は、ある日買い物へ行く。
目的のプリンを買った夜の帰り道、簾はクラスメイトの人気者、重原愛莉 (えはらあいり)を見つける。
しかしいつも教室でみる活発な表情はなくどんよりとしていた。只事ではないと目線で追っていると彼女が信号に差し掛かり、トラックに引かれそうな所を簾が助ける。
事故から助けることで始まる活発少女との関係。
愛莉が簾の家にあがり看病したり、勉強したり、時には二人でデートに行ったりと。
愛莉は簾の事が好きで、廉も愛莉のことを気にし始める。
故障で陸上が出来なくなった愛莉は目標新たにし、簾はそんな彼女を補佐し自分の目標を見つけるお話。
*本作はフィクションです。実在する人物・団体・組織名等とは関係ございません。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる