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5章(2)

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 学校ではあいかわらず除け者にされたまま、文化祭の準備が着々と進んでいる。
 冴島くんや吉野さんが気を遣って、僕をクラスの輪に入れようと努力してくれたけれど、丁重に断った。僕をかばっていいことなんか、ひとつもない。むしろ二人は、なるべく僕と関わりがないように振る舞うべきだ。火の粉はいつ、どこから飛んでくるかわからないから。

 母親の二週間に一度の通院。この日も僕は学校を休んで、通院に付き添っていた。
 病院へ通うのも、慣れてしまった。他の患者が月に一回、二カ月に一回と、どんどん通院のペースを落としているにも関わらず、僕の母親はいまだに二週間に一回のペースで通院している。通い出して、もう何年にもなるというのに。状態が悪くなることはあっても、よくなることはないようだ。一歩進んで、三歩下がるような通院生活を、僕が小学生の時から飽きもせずに続けている。
 もちろん母だって、いつまでも通院を続けていたいと思っているわけではないだろう。できれば早く治して、また昔のような生活に戻りたいと思っているはずだ。ただ思いばかりが空回りして、結果が伴っていないことは確かではある。
 診察室から出てきた母親は、僕に向けて緑色のクリアファイルをひらひらと振った。

「血液検査に行かなきゃいけないみたい」

 僕は母の持つクリアファイルを覗き込んだ。一年に一度行われる、定期的な血液検査。採決室は精神科の一階下、二階の端にある。採決室はいつ行っても混んでいて、今から受付を済ませても終わるまで一時間以上かかるだろう。

「一階のカフェで待っていてもいいわよ」

 母親が僕の心を見透かしたように言った。正直、この申し出はありがたい。病院にいる時の母親は比較的落ち着いていて、静かだけれど、会話をしているほうとしてはいつ地雷を踏むかわからないのが怖いのだ。
 できれば離れて過ごしたいと思っていたから、僕は「終わったら連絡して」とだけ言い残し、一足先に精神科を出た。
 病院の一階にはチェーン店のカフェが併設されていて、通院で来た人だけでなく、入院患者やその面会者などでにぎわっている。
 僕はすこし迷って、Sサイズのカフェラテを注文した。入口近くの一人掛けはすべて埋まっていて、店内の奥まったほうに二人掛けの席が空いているのを見つけ、そこに腰かける。ゆったりとしたボサノバ調の音楽がかかっており、僕は背もたれに身を預けて、詰めていた息を吐き出した。

 時刻は午前十一時を回った頃。皆は学校で授業を受けている時間だ。周りを見回してみても、僕と同じ年代の人はいない。病人でもない、健康な若い僕がこんな時間に、こんな場所にいるのはひどく場違いに感じる。
 熱いカフェラテを慎重に一口啜り、ポケットからスマホを取り出す。メッセージアプリの通知は、クラスのグループチャットが盛んに活動していることを知らせていた。
 未読の溜まったグループチャットの欄をタップする。内容はほとんど文化祭にまつわることだ。文化祭の日まで二週間を切り、クラスメイトのボルテージはますます上がっている。放課後も夜まで残って作業をしていることもあるようだ。……僕には関係ない。
 スマホを眺めている僕の手元に、ぬうっと影が差した。急な暗さに、僕は顔を上げる。向かいのソファ席に、人が座るところだった。よく見慣れた制服。肩からこぼれた、さらさらの黒髪からシャンプーのいい匂いがする。

「……榊さん」

 僕の呼びかけに応じるように、榊さんがちらりとこちらを見た。手には期間限定のフラペチーノが入ったグラスが握られている。そのグラスをテーブルの上に置き、榊さんはスカートを手で撫でつけながら席に座った。

「たまたま、いるのが見えたから」

 榊さんは言い訳めいたことを言ったあと、緑色のストローを咥えてフラペチーノを吸い込んだ。

「さっきまで精神科にいたんだけど、会わなかったね」

 僕はあくまで軽い世間話を装って話しかける。

「今日は整形外科」

 スカートの裾から覗く、白くて細い膝に自然と目が引き寄せられ、僕は慌てて目を逸らす。一見するとなんともなさそうだけど、榊さんは今でも足を引きずるような歩き方をする。球技大会の時、僕は彼女に無理を強いてしまった。そのことは今でも僕の心に罪悪感を植えつけている。

「森岡くんは、お母さんの付き添い?」
「まあ、そんなところ」
「大変だね」
「榊さんもね」

 榊さんがストローを噛んだまま、くすりと笑った。僕もつられて、頬がゆるむのを感じる。
 クラスメイトは好き勝手に僕の母親のことを噂するけれど、本当のところを知っているのは榊さんだけだろう。そして榊さんの本当のところを知っているのもまた、僕だけだという自負がある。僕たちは精神科で会ったあの日から、必然的に秘密を共有する仲になった。クラスメイトは誰も知らない、僕たちだけの秘密だ。

「そういえば榊さんは文化祭出るの?」

 僕は思いつきで尋ねた。心のどこかには、彼女が僕と同じように文化祭には縁のない人間であって欲しいと願う気持ちもあった。
 榊さんは表面に水滴がつきはじめたグラスをテーブルに置き、遠くを見る。

「気分次第かな。行こうと思えば行けるし、行きたくないと思ったら行かない」

 僕の脳裏に、冴島くんの言葉がよぎる。冴島くんは言った。文化祭の日に、榊さんに告白しようと思っていると。
 行かないで欲しい、とは言えなかった。僕と同じところに立っていて欲しい。クラスメイトが盛り上がっているのを、一緒に外側から眺めていて欲しい。冴島くんの告白に耳を貸さないで欲しい。
 全部、僕の勝手な願いだ。どこまで行っても僕は僕で、榊さんは榊さんなのに。僕はどうしても榊さんに対する幻想を捨てられない。彼女なら、わかってくれる。榊さんなら――。

「考えてること、わかるよ」

 榊さんの一言に、カフェラテを持っていた手が震えた。震えを隠すようにカップを両手で包み込む。
 彼女はまっすぐに僕を見ていた。その目を逸らすことなく、いっそ誠実なまでに、はっきりと。
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