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3章(5)
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僕は短編を読み終わり、陰鬱な気持ちで本を閉じた。読まなければよかった、そう思うほどにその物語は最後まで読んでも救いが存在しなかった。榊さんはなぜこの短編だけを繰り返し読んでいるのだろう。この地獄の底みたいに暗く、苦しいだけの話のどこに、彼女の琴線に触れる部分があったのだろう。
読み終えた文庫本を元通りに畳の上に置いた時、榊さんがシャワーから上がって戻ってきた。手にはドライヤーを持っていて、そういえば僕も髪の毛を乾かしていなかったことに気づく。けれど僕の短髪は窓から吹き込む夜風ですっかり乾ききっていた。
榊さんがコンセントのそばで髪の毛を乾かしているのを見るふりをして、ちらりとリビングの壁にかけられた時計を確認する。時刻は二十時になろうかというところ。夕食をごちそうになって、シャワーも浴びさせてもらえて、僕はそれから……どうするつもりなんだ?
榊さんはすっかり僕が泊まっていくものと思い込んでいるようだが、女の子の家に泊まるのはさすがにまずいのではないだろうか。いつまで経っても、彼女の両親は帰って来る気配を見せない。このままでは僕は榊さんと二人、夜を明かすことになる。僕の家は歩いてすぐの距離だ。帰ろうと思えば、今すぐにでも帰れる。僕に、その勇気がないというだけの話。
髪の毛を乾かし終えた榊さんが僕の前を通り過ぎる。彼女は和室の奥のほうで敷きっぱなしになっていた布団の皺を整えると、僕に手招きした。いくらなんでも、冗談だろ。
榊さんは小さなランプだけが照らす薄闇の中で、じっと僕を見ている。じわじわと顔に熱が集まっている僕とは対照的に、彼女は顔色ひとつ変えない。恥ずかしさはおろか、その他一切の感情がまったく読めない虚ろな表情で、ただそこにあるから眺めていると言わんばかりに僕を見つめている。いや、僕を見ていると見せかけて実はなにも見ていないのかもしれない。そんな突拍子もないことを考えるくらいには、彼女の瞳は空虚そのものだった。
「森岡くん」
夏の熱気で湿り気を帯びた榊さんの声が僕を呼ぶ。僕は彼女の声に吸い寄せられるように、ふらふらと布団に近づいた。榊さんが膝立ちになって、僕のほうへ手を伸ばす。洗いたての黒髪から、抗いがたいほどにシャンプーのいい香りがする。彼女は僕の背中に腕を回すと、ぎゅっと身体を押し付けてきた。柔らかな身体の感触とボディソープの香りに心臓がバクバクと暴れだす。
榊さんは僕の首筋に顔を埋めて、じっとしていた。動きがない分、余計に心臓の鼓動が彼女へダイレクトに伝わるのではないかと気が気でない。いや、もうすでに気づいているだろう。これだけ密着していれば、隠すことなどできない。
僕と彼女の間で押し潰されている柔らかな物体から極力気を逸らしながら、両手を後ろにつく。榊さんは僕の様子などお構いなしに体重を預けてくる。二人分の体重がかかった手首が軋みはじめる。
「あの小説、読んだ?」
「短編のやつ?」
「そう」
耳元で息を吐くように彼女が囁く。そのたびに、鳥肌が立つようなぞわぞわとした感覚が背中を駆け巡る。
「どう思う?」
やけに頼りない声だった。彼女の問いが小説の感想を尋ねているものだと気づくのに、僕はややしばらく時間がかかった。どう、と言われても僕には正直よくわからなかった。強いて言うなら、あんな破滅的な話を読んだのははじめてだ。
僕の素直な感想を、榊さんは黙って聞いていた。僕の感想を聞いて、彼女がどう思ったのかはわからない。ただ、ため息のような、それでいてなにか意図のこもっているような息を吐き出しただけだ。
榊さんはほとんど僕の脚に乗り上げるようにして、僕に体重を預けている。ショートパンツから覗く太ももの柔らかさにめまいがしそうになる。女の子の身体がこんなにも柔らかく、ふわふわしていることを僕はこの歳になるまで知らなかった。もちろん、これまでの人生で彼女がいたこともない。誰かに告白したこともない。好きだと思う子は何人かいたけれど、告白しようとは思わなかった。「僕みたいな奴に告白されても嬉しくないはず」という思いもあったし、なにより母親にバレた時になにを言われるのかを考えただけで怖かった。
榊さんが身じろぎをして、顔を上げる。至近距離で見つめた彼女の瞳は黒よりも茶色に近かった。ほんのちょっとだけ開いた、ふっくらとした桜色の唇に目が吸い寄せられる。お風呂上がりのほんのりと上気した頬。ランプの明かりを反射するすべすべとした首筋。糸のように細く、なめらかな髪。肌から立ち上るボディソープの香りが思考を乱す。
僕は後ろについていた両手を離した。彼女の重みでゆっくりと布団の上に倒れながら、その細い身体に腕を回す。全体重を預けられても、まったく重みを感じなかった。榊さんの吐息が耳元を掠め、息が詰まる。
彼女は僕の頭の両脇に手をついて――ほんのすこし、触れるだけのキスをした。唇に当たった、熱くふにふにとした感触が考える力を奪っていく。
「今日は帰らないで」
甘く、ねだるような彼女の声が脳を侵食する。母親に連絡しなければいけないことも、つい先ほどまで歩いて帰ろうか悩んでいたことも、一気に吹っ飛んだ。
僕にはもう、榊さんしか見えない。
読み終えた文庫本を元通りに畳の上に置いた時、榊さんがシャワーから上がって戻ってきた。手にはドライヤーを持っていて、そういえば僕も髪の毛を乾かしていなかったことに気づく。けれど僕の短髪は窓から吹き込む夜風ですっかり乾ききっていた。
榊さんがコンセントのそばで髪の毛を乾かしているのを見るふりをして、ちらりとリビングの壁にかけられた時計を確認する。時刻は二十時になろうかというところ。夕食をごちそうになって、シャワーも浴びさせてもらえて、僕はそれから……どうするつもりなんだ?
榊さんはすっかり僕が泊まっていくものと思い込んでいるようだが、女の子の家に泊まるのはさすがにまずいのではないだろうか。いつまで経っても、彼女の両親は帰って来る気配を見せない。このままでは僕は榊さんと二人、夜を明かすことになる。僕の家は歩いてすぐの距離だ。帰ろうと思えば、今すぐにでも帰れる。僕に、その勇気がないというだけの話。
髪の毛を乾かし終えた榊さんが僕の前を通り過ぎる。彼女は和室の奥のほうで敷きっぱなしになっていた布団の皺を整えると、僕に手招きした。いくらなんでも、冗談だろ。
榊さんは小さなランプだけが照らす薄闇の中で、じっと僕を見ている。じわじわと顔に熱が集まっている僕とは対照的に、彼女は顔色ひとつ変えない。恥ずかしさはおろか、その他一切の感情がまったく読めない虚ろな表情で、ただそこにあるから眺めていると言わんばかりに僕を見つめている。いや、僕を見ていると見せかけて実はなにも見ていないのかもしれない。そんな突拍子もないことを考えるくらいには、彼女の瞳は空虚そのものだった。
「森岡くん」
夏の熱気で湿り気を帯びた榊さんの声が僕を呼ぶ。僕は彼女の声に吸い寄せられるように、ふらふらと布団に近づいた。榊さんが膝立ちになって、僕のほうへ手を伸ばす。洗いたての黒髪から、抗いがたいほどにシャンプーのいい香りがする。彼女は僕の背中に腕を回すと、ぎゅっと身体を押し付けてきた。柔らかな身体の感触とボディソープの香りに心臓がバクバクと暴れだす。
榊さんは僕の首筋に顔を埋めて、じっとしていた。動きがない分、余計に心臓の鼓動が彼女へダイレクトに伝わるのではないかと気が気でない。いや、もうすでに気づいているだろう。これだけ密着していれば、隠すことなどできない。
僕と彼女の間で押し潰されている柔らかな物体から極力気を逸らしながら、両手を後ろにつく。榊さんは僕の様子などお構いなしに体重を預けてくる。二人分の体重がかかった手首が軋みはじめる。
「あの小説、読んだ?」
「短編のやつ?」
「そう」
耳元で息を吐くように彼女が囁く。そのたびに、鳥肌が立つようなぞわぞわとした感覚が背中を駆け巡る。
「どう思う?」
やけに頼りない声だった。彼女の問いが小説の感想を尋ねているものだと気づくのに、僕はややしばらく時間がかかった。どう、と言われても僕には正直よくわからなかった。強いて言うなら、あんな破滅的な話を読んだのははじめてだ。
僕の素直な感想を、榊さんは黙って聞いていた。僕の感想を聞いて、彼女がどう思ったのかはわからない。ただ、ため息のような、それでいてなにか意図のこもっているような息を吐き出しただけだ。
榊さんはほとんど僕の脚に乗り上げるようにして、僕に体重を預けている。ショートパンツから覗く太ももの柔らかさにめまいがしそうになる。女の子の身体がこんなにも柔らかく、ふわふわしていることを僕はこの歳になるまで知らなかった。もちろん、これまでの人生で彼女がいたこともない。誰かに告白したこともない。好きだと思う子は何人かいたけれど、告白しようとは思わなかった。「僕みたいな奴に告白されても嬉しくないはず」という思いもあったし、なにより母親にバレた時になにを言われるのかを考えただけで怖かった。
榊さんが身じろぎをして、顔を上げる。至近距離で見つめた彼女の瞳は黒よりも茶色に近かった。ほんのちょっとだけ開いた、ふっくらとした桜色の唇に目が吸い寄せられる。お風呂上がりのほんのりと上気した頬。ランプの明かりを反射するすべすべとした首筋。糸のように細く、なめらかな髪。肌から立ち上るボディソープの香りが思考を乱す。
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彼女は僕の頭の両脇に手をついて――ほんのすこし、触れるだけのキスをした。唇に当たった、熱くふにふにとした感触が考える力を奪っていく。
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甘く、ねだるような彼女の声が脳を侵食する。母親に連絡しなければいけないことも、つい先ほどまで歩いて帰ろうか悩んでいたことも、一気に吹っ飛んだ。
僕にはもう、榊さんしか見えない。
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