12 / 46
2章(4)
しおりを挟む
榊さんの参加が決まったことで、二人のテンションは一気に上がった。ようやく勝機が見えて、練習にも自然と力が入る。
クラス内でも、あの榊ゆらが学校行事に参加する、しかも体育にすら出ない彼女が球技大会に出るとたちまち噂になった。ある者はまだ見ぬ榊さんのジャージ姿に思いを馳せ、またある者はソフトバレーのチームに入りたいとまで言い出した。まあ、そんなこと言う奴はだいたい榊さんの顔に惚れているだけの男だ。授業態度は最悪だし、近寄りがたい雰囲気もあるが、彼女はめちゃくちゃ美人である。密かに想いを寄せている男子生徒は多いだろう。
僕は担任の長谷川先生から一世一代の大仕事を成し遂げたかのように褒められ、まるで魔王を討伐して帰還した勇者のような丁重な扱いを受けた。
クラスメイトから身に余る期待を寄せられながら、練習の日々は過ぎていった。
そして、球技大会当日――。
「ほんとに来た……」
開会式が終わり、試合開始の十五分前。体育館の片隅で集まっていた僕らの元へやってきた榊さんを見て、僕は思わず失礼なことを漏らしてしまった。いや、だって、彼女が本当に来るかどうかは正直、半信半疑だったのだ。当日は出ると言ったけど、気が変わって来ないかもしれない。心の中ではずっとそんなふうに思って練習してきた。
榊さんはいつもは下ろしている髪をポニーテールにしてひとつにまとめ、新品のように綺麗な学校指定のジャージを羽織って姿を現した。いかにも田舎っぽい紺色に白のラインが入ったダサいジャージも、彼女が着るとたちまち絵になる。レッスン中のアイドルってこんな感じなんだろうか、なんてくだらない妄想をするくらいには。
「試合って、何時から?」
榊さんは吉野さんが譲った場所に座りながら、僕のほうを見た。顔周りの髪がなくなると、急に大人びた雰囲気に見える。彼女が動くたびにポニーテールが揺れ、やわらかなシャンプーの匂いが漂った。
「えっと……ちょうど十時からだよ」
僕に代わって冴島くんが答えてくれる。榊さんを前に緊張しているのか、なんとなく動作が落ち着かない。視線が榊さんの周りを行ったり来たりしており、横で見ていた吉野さんが忍び笑いを漏らすほどだ。
「試合が始まる時間になったら起こして」
「う、うん」
冴島くんの返事も聞かないうちに、榊さんは壁にもたれて目を閉じた。桜色の唇がうっすらと開き、まぶたの薄く青白い皮膚には毛細血管が浮き出ている。彫刻のように綺麗な寝顔から目を逸らしながら、僕は邪念を払うように準備運動をはじめた。
◇ ◇ ◇
「あっ……!」
吉野さんの切迫した声がコートに響く。彼女が取り損ねたボールが、コートのぎりぎり端まで飛んでいく。榊さんが大きく一歩を踏み出すが、まだ距離がある。間に合うはずがない。
コート内に落ちる……! そう思った瞬間、ボールは高く跳ね上がり、僕の元に飛んできていた。しかも、ちょうど打ち返しやすい角度に。
僕はめいいっぱい腕を振って、ビニール製のボールを相手コートに叩き込んだ。ボールの勢いにビビったのか、相手の生徒がコート内で逃げ惑う。僕の返したボールは、誰にも触れられることなく床に落ちた。
「二年三組の勝ち!」
審判役の先生の一声で、どっと力が抜ける。勝った、勝ったんだ……。
「やった! 明日、準々決勝だよ!?」
冴島くんがずれている眼鏡もそのままに駆け寄ってくる。吉野さんは体力の限界だったのか、勝利が決まったとわかるとゆっくりと床にへたり込んだ。
まさか一日目を全勝で終えられるなんて、予想もしていなかった。去年と同じくさっさと敗退が決まって、明日は観戦だけになるんだろうな、なんて思っていたのに。
榊さんのおかげだ。彼女の働きがなければ、僕たちは初戦で敗退していただろう。榊さんは一人で三人分くらいの仕事をした。体育に出ていないから知られていなかっただけで、実は運動神経がいいほうなのだ、きっと。
「榊さ――」
僕は彼女のほうを振り返って、息を呑んだ。
榊さんは最後のボールをすくい上げた体勢のままで、床に突っ伏していた。だらりと床に伸びきった左手の拳が固く握りしめられ、小刻みに震えている。
「榊さん!」
慌てて駆け寄り、彼女のすぐそばに膝をつく。冴島くんと吉野さんも血相を変えて走り寄ってきて、コートの片づけをしていた先生までもが険しい表情を浮かべて近寄ってきた。
榊さんがのろのろと顔を上げる。汗の浮いた顔に、苦悶の表情が張りついている。彼女は腕の力だけで上半身を起こすと、なんでもないというように首を振った。
「大丈夫」
掠れた声で榊さんが言う。大丈夫なわけがない。脚に力が入らないのか、彼女は一向に立ち上がろうとしない。誰がどう見ても、異常が起こっていることはたしかだった。
「森岡くん、保健室に……」
吉野さんがすがるような目つきで僕を見る。そうだ、いつまでもここに座らせておいてはいけない。
様子を窺っていた先生が「立てるか?」と尋ねるが、榊さんはうつむくだけでなにも答えない。今、僕にできることは――。
「ごめん」
僕は榊さんにそう断ってから、彼女の背中と膝裏に腕を回した。ぐっと腕と脚に力を込めて、身体を持ち上げる。榊さんの身体はびっくりするほど軽かった。羽毛布団と同じくらいなんじゃないかと思うくらい、腕への負担がない。
冴島くんと吉野さんが集まった人混みを率先してかきわけて、道を空けてくれる。榊さんは僕の腕のなかで、ぴくりとも動かなかった。苦痛に耐えるようにぎゅっと目をつむり、いまいち調子の合わない息遣いがかすかに聞こえる。
僕は榊さんの見た目よりも小さな身体を抱えて、足早に保健室へと直行した。
クラス内でも、あの榊ゆらが学校行事に参加する、しかも体育にすら出ない彼女が球技大会に出るとたちまち噂になった。ある者はまだ見ぬ榊さんのジャージ姿に思いを馳せ、またある者はソフトバレーのチームに入りたいとまで言い出した。まあ、そんなこと言う奴はだいたい榊さんの顔に惚れているだけの男だ。授業態度は最悪だし、近寄りがたい雰囲気もあるが、彼女はめちゃくちゃ美人である。密かに想いを寄せている男子生徒は多いだろう。
僕は担任の長谷川先生から一世一代の大仕事を成し遂げたかのように褒められ、まるで魔王を討伐して帰還した勇者のような丁重な扱いを受けた。
クラスメイトから身に余る期待を寄せられながら、練習の日々は過ぎていった。
そして、球技大会当日――。
「ほんとに来た……」
開会式が終わり、試合開始の十五分前。体育館の片隅で集まっていた僕らの元へやってきた榊さんを見て、僕は思わず失礼なことを漏らしてしまった。いや、だって、彼女が本当に来るかどうかは正直、半信半疑だったのだ。当日は出ると言ったけど、気が変わって来ないかもしれない。心の中ではずっとそんなふうに思って練習してきた。
榊さんはいつもは下ろしている髪をポニーテールにしてひとつにまとめ、新品のように綺麗な学校指定のジャージを羽織って姿を現した。いかにも田舎っぽい紺色に白のラインが入ったダサいジャージも、彼女が着るとたちまち絵になる。レッスン中のアイドルってこんな感じなんだろうか、なんてくだらない妄想をするくらいには。
「試合って、何時から?」
榊さんは吉野さんが譲った場所に座りながら、僕のほうを見た。顔周りの髪がなくなると、急に大人びた雰囲気に見える。彼女が動くたびにポニーテールが揺れ、やわらかなシャンプーの匂いが漂った。
「えっと……ちょうど十時からだよ」
僕に代わって冴島くんが答えてくれる。榊さんを前に緊張しているのか、なんとなく動作が落ち着かない。視線が榊さんの周りを行ったり来たりしており、横で見ていた吉野さんが忍び笑いを漏らすほどだ。
「試合が始まる時間になったら起こして」
「う、うん」
冴島くんの返事も聞かないうちに、榊さんは壁にもたれて目を閉じた。桜色の唇がうっすらと開き、まぶたの薄く青白い皮膚には毛細血管が浮き出ている。彫刻のように綺麗な寝顔から目を逸らしながら、僕は邪念を払うように準備運動をはじめた。
◇ ◇ ◇
「あっ……!」
吉野さんの切迫した声がコートに響く。彼女が取り損ねたボールが、コートのぎりぎり端まで飛んでいく。榊さんが大きく一歩を踏み出すが、まだ距離がある。間に合うはずがない。
コート内に落ちる……! そう思った瞬間、ボールは高く跳ね上がり、僕の元に飛んできていた。しかも、ちょうど打ち返しやすい角度に。
僕はめいいっぱい腕を振って、ビニール製のボールを相手コートに叩き込んだ。ボールの勢いにビビったのか、相手の生徒がコート内で逃げ惑う。僕の返したボールは、誰にも触れられることなく床に落ちた。
「二年三組の勝ち!」
審判役の先生の一声で、どっと力が抜ける。勝った、勝ったんだ……。
「やった! 明日、準々決勝だよ!?」
冴島くんがずれている眼鏡もそのままに駆け寄ってくる。吉野さんは体力の限界だったのか、勝利が決まったとわかるとゆっくりと床にへたり込んだ。
まさか一日目を全勝で終えられるなんて、予想もしていなかった。去年と同じくさっさと敗退が決まって、明日は観戦だけになるんだろうな、なんて思っていたのに。
榊さんのおかげだ。彼女の働きがなければ、僕たちは初戦で敗退していただろう。榊さんは一人で三人分くらいの仕事をした。体育に出ていないから知られていなかっただけで、実は運動神経がいいほうなのだ、きっと。
「榊さ――」
僕は彼女のほうを振り返って、息を呑んだ。
榊さんは最後のボールをすくい上げた体勢のままで、床に突っ伏していた。だらりと床に伸びきった左手の拳が固く握りしめられ、小刻みに震えている。
「榊さん!」
慌てて駆け寄り、彼女のすぐそばに膝をつく。冴島くんと吉野さんも血相を変えて走り寄ってきて、コートの片づけをしていた先生までもが険しい表情を浮かべて近寄ってきた。
榊さんがのろのろと顔を上げる。汗の浮いた顔に、苦悶の表情が張りついている。彼女は腕の力だけで上半身を起こすと、なんでもないというように首を振った。
「大丈夫」
掠れた声で榊さんが言う。大丈夫なわけがない。脚に力が入らないのか、彼女は一向に立ち上がろうとしない。誰がどう見ても、異常が起こっていることはたしかだった。
「森岡くん、保健室に……」
吉野さんがすがるような目つきで僕を見る。そうだ、いつまでもここに座らせておいてはいけない。
様子を窺っていた先生が「立てるか?」と尋ねるが、榊さんはうつむくだけでなにも答えない。今、僕にできることは――。
「ごめん」
僕は榊さんにそう断ってから、彼女の背中と膝裏に腕を回した。ぐっと腕と脚に力を込めて、身体を持ち上げる。榊さんの身体はびっくりするほど軽かった。羽毛布団と同じくらいなんじゃないかと思うくらい、腕への負担がない。
冴島くんと吉野さんが集まった人混みを率先してかきわけて、道を空けてくれる。榊さんは僕の腕のなかで、ぴくりとも動かなかった。苦痛に耐えるようにぎゅっと目をつむり、いまいち調子の合わない息遣いがかすかに聞こえる。
僕は榊さんの見た目よりも小さな身体を抱えて、足早に保健室へと直行した。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
校長先生の話が長い、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
学校によっては、毎週聞かされることになる校長先生の挨拶。
学校で一番多忙なはずのトップの話はなぜこんなにも長いのか。
とあるテレビ番組で関連書籍が取り上げられたが、実はそれが理由ではなかった。
寒々とした体育館で長時間体育座りをさせられるのはなぜ?
なぜ女子だけが前列に集められるのか?
そこには生徒が知りえることのない深い闇があった。
新年を迎え各地で始業式が始まるこの季節。
あなたの学校でも、実際に起きていることかもしれない。
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
庭木を切った隣人が刑事訴訟を恐れて小学生の娘を謝罪に来させたアホな実話
フルーツパフェ
大衆娯楽
祝!! 慰謝料30万円獲得記念の知人の体験談!
隣人宅の植木を許可なく切ることは紛れもない犯罪です。
30万円以下の罰金・過料、もしくは3年以下の懲役に処される可能性があります。
そうとは知らずに短気を起こして家の庭木を切った隣人(40代職業不詳・男)。
刑事訴訟になることを恐れた彼が取った行動は、まだ小学生の娘達を謝りに行かせることだった!?
子供ならば許してくれるとでも思ったのか。
「ごめんなさい、お尻ぺんぺんで許してくれますか?」
大人達の事情も知らず、健気に罪滅ぼしをしようとする少女を、あなたは許せるだろうか。
余りに情けない親子の末路を描く実話。
※一部、演出を含んでいます。
就職面接の感ドコロ!?
フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。
学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。
その業務ストレスのせいだろうか。
ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。
スタジオ.T
青春
幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。
そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。
ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる