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2章(3)

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 母の言う榊さんと、僕の知っている二年三組の榊さんは、同一人物だった。知りたくなかったけれど、いずれ知ることになっただろう。その時期が早まっただけだ。
 担任の先生が教えてくれた榊さん家の住所は、あの線路裏に建つ三角形アパートの場所だった。先生が僕の家から近いと言ったこともよくわかる。僕の家は、三角形アパートから歩いて十分もかからない。
 僕はプリントの詰め込まれた茶封筒を小脇に抱え、玄関の扉を開けた。榊さんは201号室に住んでいるらしい。榊さんの親が出てきたら、なんて挨拶しよう。母から余計なことを聞いたせいで、妙に緊張している。だって、小学校も中学校も不登校だったなんて。それでいて高校では授業中に寝ているのにテストで満点しか取ったことがないという。どんな天才少女だよ?

 ぎりぎり人とすれ違えるかどうかの狭い階段を上がる。階段も廊下も薄暗く、本当に人が住んでいるのか怪しいほど静まり返っている。壁や階段は老朽化がひどく、廃墟と言われたほうがまだしっくりくる。
 金属製の階段をカンカンいわせながら昇りきると、すぐに201号室の扉が目の前に現れた。インターホンに手を伸ばそうとした時、突如アパート全体がカタカタと揺れ出す。地震かと思って身構えたものの、やってきたのは電車の通り抜ける轟音と振動だった。線路沿いに建っていることを忘れていた。電車が通るたびにこんなにうるさいなら、家にいたってすこしも休まらなさそうだ。
 電車が通り抜けて静かになるのを待ってから、僕はインターホンを押した。ピンポーン、と部屋のなかから間抜けな音が聞こえる。そのあと、床を踏みしめるようなドスドスとした足音が聞こえ、鍵の回る音がして扉が開いた。

「誰?」

 扉の隙間からにゅっと顔が飛び出し、ぶっきらぼうな声が投げかけられる。

「森岡、ですけど」

 緊張からか、変な応答をする。しっかりしろ、自分。同い年の女の子の家に来ただけで、なにをビビってるんだ?
 榊さんはつい先ほどまで眠っていたような、まどろみと不機嫌を貼りつけた顔で僕のことを睨んだ。長袖の黒いTシャツにハーフパンツという出で立ちで、部屋着のまま出てきたようだ。

「何の用?」
「担任がしばらく休んでるし、様子見てこいって」

 榊さんの視線が落ちていき、僕が小脇に抱えた茶封筒を見やる。彼女は予想に反して、扉を大きく開けて僕を促した。

「入りなよ」


◇ ◇ ◇


 榊さんの家には、彼女以外の人の気配がなかった。リビングと二口コンロのキッチンに、和室がひとつ。家族で住むにはすこし狭すぎる気がする。
 適当なところに座っていいと言われて、僕はリビングに置かれたダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。榊さんが電気ポットに水道水を勢いよく入れて、電源をつける。

「ご家族は? 仕事?」
「いない」

 ぶくぶくと電気ポットの中身が沸騰する音に合わせて、榊さんの端的な答えが返ってくる。

「いないっていうのは、その……ってことだよね?」

 マグカップを二つ用意していた彼女が、ぼんやりと僕を見る。まるで僕の言っていることが理解できないというように、ちょこんと首をかしげる。細くてさらさらした黒髪が肩から落ちて、宙を舞った。

「ずっといないよ」

 パチン、と電気ポットの電源が切れる音がする。お湯が沸いたようだ。
 いつからいないのか聞いてみたい気もするが、これ以上は彼女のプライバシーを無遠慮に漁ることになる。たかが同じクラスの人間に、家庭環境を根掘り葉掘り聞かれるのは気分のいいものではないだろう。
 僕はなにか別の話題を提供しようとあたりを見回したが、会話の種になりそうなものはひとつもなかった。リビングから襖を隔てて繋がっている和室には布団が敷きっぱなしになっている。シーツや掛け布団がくしゃくしゃになっていて、つい先ほどまで榊さんがそこで寝ていたことを示している。
 そこまで考えたところで、急に顔に血液が集まり、頬が熱くなるのを感じた。頭が勝手に布団に横たわる榊さんを想像している。見てはいけないものを見てしまった気分だ。頭を振って、浮かんだ想像を振り払う。
 その時、ちょうど僕の目の前に湯気を上げるマグカップが置かれた。中身は紅茶のようだ。湯気とともに、ふんわりと林檎のいい匂いがする。榊さんもテーブルにマグカップを置くと、僕の向かいの席に腰を下ろした。両手でカップを包み込み、ふうふうと息を吹きかけている。

「あのさ、榊さん」

 紅茶で唇を湿らせ、僕はここへ来た目的を思い出す。

「今月の球技大会のことなんだけど……僕たち、ソフトバレーのチームで一緒になったんだよ」
「それで?」
「ソフトバレーのチームって、四人しかいないじゃん? 補欠とかもいないし。だから、榊さんが来ないと僕ら三人で大会出ることになるから、ちょっと厳しいんだよね」
「勝ちたいの?」

 思いがけず、真剣な声色だった。僕は紅茶の水面を眺めていた視線を上げて、榊さんを見る。

「勝ちたいっていうか……」

 自然と冴島くんや吉野さんの顔が浮かんでくる。二人とも、運動は苦手だと言いながらも真面目に練習している。僕も一年生の頃より断然気合いが入っているのはたしかだ。やっぱり一度くらい勝ってみたい。やればできるんだってところを証明したい。でもそれには、榊さんの参加が必須だ。三人ではどうやっても勝てっこないし、一人欠けているという事実がチームの士気を下げる可能性もある。どうせ練習しても人数的なハンデで勝てないんだと思ってしまうのは悲しい。
 僕はきゅっと口を引き結んでいる榊さんに向かって、頭を下げた。

「せっかく練習してるのに、人数で負けが決まってるみたいなのは嫌なんだ。他の二人のためにも、参加してほしい」

 そんなの自分の知ったことではないと、一蹴されるだろうか。榊さんにとって球技大会は所詮どうでもいい学校行事のひとつに違いない。はじめから参加する気などまったくないはずだ。ソフトバレーのチームに入っていることですら、今知ったとしてもおかしくない。チームメンバーを決める時だって寝ていたんだから――。

「練習には参加しない」

 張り詰めた榊さんの声に、顔を上げる。彼女はいつもと同じ無表情で、僕を見つめていた。
 やっぱり、だめだったか……。僕の一言で榊さんが動くなら、学校の先生だって彼女を起こすためにあんな苦労はしていない。カップに残る紅茶を飲み干して席を立とうとした僕の耳に、「でも」と榊さんのひんやりした声が届く。
 榊さんは手元のカップを見つめながら、ぽつりと言った。

「当日だけなら、出てもいい」

 まじで? 一年生にして学校行事を全欠席したと噂の榊さんが、球技大会に出てくれるって?
 僕は席を立とうとしていたことも忘れて、まじまじと彼女を見た。榊さんは話は終わったといわんばかりに、目をつむっていた。
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