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1章(5)

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 次の日。僕は榊さんの丸まった背中を眺めながら、数学の授業を聞き流していた。彼女は今日も元気に惰眠を貪っている。もしかすると、夜に眠れなくて授業中に眠る昼夜逆転生活なのかもしれない。いわゆる不眠症というやつで、その治療のために精神科にいたなら昨日あそこで会ったのも納得できる。
 でも、昨日病院で会った榊さんはちっとも眠そうではなかった。やはり不眠症とかそんな難しい問題ではなくて、たんに学校の授業がつまらないから寝ているだけなのか?

 授業中にこんなことを考えている僕も、たいがい真面目な授業態度とはいえない。別に授業のレベルが低すぎてつまらないとか、そういうことではない。たんに興味が湧かないだけだ。高校卒業後の進路はどうせ母親が決める。僕を家に縛りつけようとしている人だから、大学に行けとは言わないだろう。たぶん近所で就職しろと言うか、父親と同じ会社に行けと言うかもしれない。
 ちなみに、僕の父親は建設会社の社長をやっている。社長といっても中小企業の社長だから、そんなに裕福ではないらしい。最近ずっと家に帰ってきていないから、詳しいことは知らないけど。
 前の席から小テストのプリントが回ってきて、僕は一枚を自分の机に置きながら残りを後ろの席へ回した。こっそり榊さんのほうを盗み見る。彼女は先ほどまですやすやと眠っていたのが嘘のように、しゃっきりと背筋を伸ばして座っていた。

「終わった人から昼休みにしていいぞー。あ、白紙提出は受けつけないからな」

 数学の先生の間延びした声でテストの開始が告げられる。用紙に目を落とす。授業をきちんと聞いていればわかる問題ばかりだ。十分もかからず終わるだろう。僕は途中式を書くために広く空けられた白紙のスペースを埋めながら、今日の榊さんは何分で解き終わるのだろうと、そればかり考えていた。
 問題文の上を目が滑って、知らずしらずのうちに榊さんの背中を見てしまう。榊さんの席が右斜め前にあるのが悪い。どうしても意識してしまうし、見ずにはいられない。彼女の背中に意識をそそられながら、なんとか空白を埋めていく。授業内容はあまり頭に残っていなかったが、家でやることがなくて教科書を読んできたのがよかったのか、比較的すらすら解ける。

 僕が最後の問題に取りかかりはじめた時――榊さんがギギっと音を立てて椅子を引き、立ち上がった。手持ち無沙汰に教科書を眺めていた先生に小テストの用紙を渡し、席に戻るのかと思いきや、なにも持たずに教室を出て行った。僕も駆け足気味に解答欄を埋めて、待ち構えていた先生に提出する。
 さっき榊さんが出て行ったばかりの教室の出入り口から廊下に飛び出す。彼女の足が遅くてよかった。榊さんはまだ十メートルくらい先をふらふらと歩いていて、走らなくても余裕で追いつけそうである。
 なんとなく後をつけているとは思われたくなくて、慎重な足取りで彼女の後ろをそっと歩く。振り返る様子はない。ほとんどのクラスはまだ授業中で、廊下に出ているのは僕と榊さんだけだ。しんと静まり返った廊下に二人分の足音が響く。
 榊さんは廊下の端にある階段のところまで来ると、手すりをぎゅっと握って階段を登りはじめた。右膝がゆらゆらと揺れて、やけに危なっかしい昇り方だ。こんな尾行みたいなやり方で後ろからついていくのは、あまりよくない気がする。

「あの――」

 気づくと僕は、彼女の背中に声をかけていた。ちょうど階段の踊り場に差しかかった榊さんが頭を揺らして振り返る。天井近いところにある窓から正午の日差しが降り注ぎ、彼女の姿を天使か女神のように照らし出していた。

「なに?」

 思ったよりもきつい声で尋ねられ、尻込みする。それはそうだ、僕と榊さんの間には二年三組のクラスメイトという以外なにも接点がない。いきなり一度も話したことがない男子に話しかけられて、すぐにこやかに対応してくれるライトノベルのヒロインみたいな女子がいたら知りたい。現実はそう甘くない。榊さんが振り返って、僕に興味を持ってくれただけでも満点である。

「いや……」

 なんて切り出そう? ここまで追いかけてきておいて、僕は彼女に対する問いをまったく用意していなかった。昨日、病院にいたことはあまり触れられたくない話題かもしれない。僕だって仲良くもないクラスメイトから突然「お前、昨日精神科にいたよな?」なんて聞かれたらめちゃくちゃ警戒する。
 背後に伸びる廊下が急に騒がしくなった。授業が終わり、教室からどっと生徒が溢れ出してきたのだ。僕は階段の一段目に足をかけたまま、榊さんを見上げた。そもそも彼女は、どこへ向かおうとしているのだろう? 購買なら一階だから階段を下りるべきだし、上階には三年生の教室と屋上しかない。
 緊張のせいか、手のひらにじっとりと嫌な汗をかく。今さら、すいません間違えましたと引き下がれる状況ではない。というかそんな勇気、僕にはない。たかがクラスメイトの女の子に話しかけるだけで精神をすり減らしている自分が情けない。生まれ変わったら、もっとイケメンの明るい人になりたい。

「昨日、市立病院の精神科にいたよね」

 ささやかに、僕を突き刺す榊さんの声。まさか向こうから切り出してくるなんて。僕は彼女を見上げ、ぎこちなくうなずいた。
 榊さんが僕に背を向ける。彼女の上履きの底には、画鋲が深々と刺さって光を反射していた。

「話したいことあるなら、来れば」

 ひょこひょこと歪な歩き方で榊さんの背中が去っていく。僕は慌てて階段を駆け上がり、彼女の後を追いかけた――。
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