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1章(3)
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驚くことに、榊さんはその日すべての授業で居眠りを続けた。家で一睡もしてこなかったのではと思うほど、いい眠りっぷりである。
それが彼女にとっての普通であるということを、僕は放課後になってから知ったのだった。
「一年生の時、同じクラスだったんだ?」
「うん。同じ三組だったし、出席番号も近かったから」
そう言って、冴島くんは床を掃く手を止めた。
冴島くんとはたまたま掃除当番で一緒になり、お互い初対面のぎこちなさを漂わせたまま共通の話題を探していたところ、榊さんの話にたどり着いた。
いつの間にか他の当番の人も集まってきて、机を下げた広い教室のど真ん中で顔を突き合わせている。本人不在のなかで話すのはすこし気が引けたが、今は榊さんに対する申し訳なさよりも興味のほうが勝っている。
「榊さんって、一年生の時からあんな感じなの?」
気の強そうな女子に質問されて、冴島くんはわずかに身を引いた。心なしか顔が引きつっていて、眼鏡の奥の目もまったく笑っていない。ほうきの柄を両手でぎゅっと握りしめ、適切な言葉を探るように視線を宙に向けながらうなずく。
「じゅ、授業中に起きてるの、あんまり見たことないかも。学校行事も休んでばっかだし……でも、定期考査は全科目満点で学年一位だって。担任の先生がびっくりしてたから」
羨望とも驚愕ともとれないため息が漏れる。なんというか……本当に同じ人間なのかすら疑わしい。そんな気持ちだ。
嘆くべきは榊さんがよりにもよって星海高校の生徒だということだろう。これが都会の進学校の生徒で、授業中に寝ていてもテストで満点を取れて、しかも美人となれば天は二物以上与えたことになる。
しかし星海高校にいる限り、彼女の頭がいいのではなく、学校のテストが簡単すぎるのではないかという疑念がつきまとう。「星海高校の生徒」という肩書きほど、負の名誉はない。あんなに見せびらかしたくない学生証もこの世にはふたつとないだろう。
なぜそんなに頭のいい彼女が馬鹿ばっかりの高校に入ったのかというのも、いまいちわからない。榊さんならもっといい高校に入れたはず。
そう思いながら、僕は中学の時の担任に同じことを言われたのを思い出した。
――森岡なら、もっといい高校にだって行けるんだぞ? 本当に星海でいいのか?
彼女は入る高校を間違えているなんて、母親に進学先を決められた僕が言えたことではないな。
◇ ◇ ◇
今朝告げた時間通りに帰宅したおかげか、母の機嫌はいつもよりよかった。いや、夕食中ずっと愚痴を聞き続けてあげたおかげかもしれないし、母の買ってきたシュークリームを人生で一番美味しいものを食ったみたいな顔をして満腹の腹に詰め込んだからかもしれない。
とにかく、今日の母親は機嫌がよかった。珍しく、僕の学校生活のことを聞いてくるくらいには。
「どうだったの? 最初の授業は」
「普通だよ。一年生の時と変わらないかな」
「瑞希は小さい頃から頭がいいものね」
母の何気ない言葉が鉤爪のように心に刺さって抜けなくなる。
中学生の頃の僕には一応、どこの高校に行きたいとか、部活はなにをしたいとか、そんな希望はあった。幸いなことに志望校に合格できるくらいの頭も持っていた。けれど僕から希望を奪い、僕が星海町の外へ出ようとしたのを阻止したのは紛れもなく、目の前に座る母親だ。
母親にとって僕は、母を疎ましく思って家に寄りつかなくなった父親の代わりだった。僕が母を見捨て、この町から出ようとすることは許されない。僕の「志望高校へ進学する」という中学校三年生なら誰しもが持つ当たり前の夢をへし折っておきながら、母はまるで僕が自分で星海高校への進学を決めたかのような言い方をする。そういった母の些細な物言いが、僕の心の底に泥のように溜まっていく。
僕は身体の内に渦巻く感情を無視して、話題を変えた。
「そういえば、同じクラスにすごい人がいるんだ」
「すごい人?」
「授業中ずっと居眠りしてるのに、一年生の時から学年一位なんだって」
「元からとっても頭がいい子なのねぇ」
母の青白い両手がマグカップを包んでいる。左手の薬指にはめられた、サイズの合わない結婚指輪から目を逸らす。
「どんな子なの? 一年生の時は同じクラスじゃなかったの?」
「二年生ではじめて同じクラスになったよ。榊さんっていう女の子なんだけど……」
母の視線が、ふっと遠くなる。嫌な予感がした。母が僕の話を聞いてなにかを思い出す時、たいていろくでもない話に繋がっていく。まさか、地雷を踏んだか? 今の話に母が嫌がるような要素はなかったと思うが、もしかしたら女の子を話をするのはよくなかったかも――。
「その子、名前はゆらちゃんじゃない?」
「……なんで知ってるの?」
つい非難がましい口調になってしまい、慌てて取り繕う。
「榊さんって、小中の頃はいなかったよね? いたら絶対一回は同じクラスになってるはずだから」
所詮、星海町は田舎だ。町内で産まれた人間は、幼稚園か保育所から小学校、中学校までずっと一緒に過ごす。荒ぶる少子化の波のせいで一学年の人数もすくないため、九年間を一緒に過ごせば必ず一度は同じクラスになる。星海高校にも少数ではあるが星海町出身の人もいて、僕の学年では僕を含めて七人ほどが幼稚園からそのまま高校まで同じということになっている。
その七人のなかに、榊ゆらという名前の女の子はいなかった。まして僕が小中学校にいた頃に榊さんが転校してきた記憶もない。都会からの通学組だと思っていたが、どうして母が榊さんの名前を知っているのだろう?
母は「知らなかったの?」と目を丸くした。
「町内で榊さんっていえば、線路裏に住んでる子でしょ? あの三角の土地に建ってる、変なアパートのところ」
「ああ……」
たしかにそのアパートならわかる。通学で毎日のように使う星海駅の線路沿いに建っているアパートのことだ。外壁が深い緑で塗られ、なぜか建物自体が二等辺三角形のような形になっている。直角の部分が細すぎて、あのなかに部屋があっても誰も住めないのではないかと思いながら通学中に眺めている馴染み深いアパートでもあった。
「でもあそこに住んでるなら小学校で一緒になったはずだよね?」
僕の記憶のなかに、あの三角形アパートに住んでいた同じ学年の人間はいない。いるなら友達になって、直角の部分がどうなっているのか見せてもらっているはずだ。星海高校への進学を機に町に引っ越してきたとか――。
母はマグカップをことりと食卓の上に置くと、こわばった関節を伸ばすように指を広げた。僕の疑問に答えようと、母がためらいがちに口を開く。
「言ったことなかった? 榊さん、小学校も中学校も行ってないってPTAで噂になったことあるの。児相の人が来ていたって話もあるし……」
後半は、ほとんど聞こえていなかった。母の言う「榊さん」は、本当に同じクラスの榊さんなのだろうか?
それが彼女にとっての普通であるということを、僕は放課後になってから知ったのだった。
「一年生の時、同じクラスだったんだ?」
「うん。同じ三組だったし、出席番号も近かったから」
そう言って、冴島くんは床を掃く手を止めた。
冴島くんとはたまたま掃除当番で一緒になり、お互い初対面のぎこちなさを漂わせたまま共通の話題を探していたところ、榊さんの話にたどり着いた。
いつの間にか他の当番の人も集まってきて、机を下げた広い教室のど真ん中で顔を突き合わせている。本人不在のなかで話すのはすこし気が引けたが、今は榊さんに対する申し訳なさよりも興味のほうが勝っている。
「榊さんって、一年生の時からあんな感じなの?」
気の強そうな女子に質問されて、冴島くんはわずかに身を引いた。心なしか顔が引きつっていて、眼鏡の奥の目もまったく笑っていない。ほうきの柄を両手でぎゅっと握りしめ、適切な言葉を探るように視線を宙に向けながらうなずく。
「じゅ、授業中に起きてるの、あんまり見たことないかも。学校行事も休んでばっかだし……でも、定期考査は全科目満点で学年一位だって。担任の先生がびっくりしてたから」
羨望とも驚愕ともとれないため息が漏れる。なんというか……本当に同じ人間なのかすら疑わしい。そんな気持ちだ。
嘆くべきは榊さんがよりにもよって星海高校の生徒だということだろう。これが都会の進学校の生徒で、授業中に寝ていてもテストで満点を取れて、しかも美人となれば天は二物以上与えたことになる。
しかし星海高校にいる限り、彼女の頭がいいのではなく、学校のテストが簡単すぎるのではないかという疑念がつきまとう。「星海高校の生徒」という肩書きほど、負の名誉はない。あんなに見せびらかしたくない学生証もこの世にはふたつとないだろう。
なぜそんなに頭のいい彼女が馬鹿ばっかりの高校に入ったのかというのも、いまいちわからない。榊さんならもっといい高校に入れたはず。
そう思いながら、僕は中学の時の担任に同じことを言われたのを思い出した。
――森岡なら、もっといい高校にだって行けるんだぞ? 本当に星海でいいのか?
彼女は入る高校を間違えているなんて、母親に進学先を決められた僕が言えたことではないな。
◇ ◇ ◇
今朝告げた時間通りに帰宅したおかげか、母の機嫌はいつもよりよかった。いや、夕食中ずっと愚痴を聞き続けてあげたおかげかもしれないし、母の買ってきたシュークリームを人生で一番美味しいものを食ったみたいな顔をして満腹の腹に詰め込んだからかもしれない。
とにかく、今日の母親は機嫌がよかった。珍しく、僕の学校生活のことを聞いてくるくらいには。
「どうだったの? 最初の授業は」
「普通だよ。一年生の時と変わらないかな」
「瑞希は小さい頃から頭がいいものね」
母の何気ない言葉が鉤爪のように心に刺さって抜けなくなる。
中学生の頃の僕には一応、どこの高校に行きたいとか、部活はなにをしたいとか、そんな希望はあった。幸いなことに志望校に合格できるくらいの頭も持っていた。けれど僕から希望を奪い、僕が星海町の外へ出ようとしたのを阻止したのは紛れもなく、目の前に座る母親だ。
母親にとって僕は、母を疎ましく思って家に寄りつかなくなった父親の代わりだった。僕が母を見捨て、この町から出ようとすることは許されない。僕の「志望高校へ進学する」という中学校三年生なら誰しもが持つ当たり前の夢をへし折っておきながら、母はまるで僕が自分で星海高校への進学を決めたかのような言い方をする。そういった母の些細な物言いが、僕の心の底に泥のように溜まっていく。
僕は身体の内に渦巻く感情を無視して、話題を変えた。
「そういえば、同じクラスにすごい人がいるんだ」
「すごい人?」
「授業中ずっと居眠りしてるのに、一年生の時から学年一位なんだって」
「元からとっても頭がいい子なのねぇ」
母の青白い両手がマグカップを包んでいる。左手の薬指にはめられた、サイズの合わない結婚指輪から目を逸らす。
「どんな子なの? 一年生の時は同じクラスじゃなかったの?」
「二年生ではじめて同じクラスになったよ。榊さんっていう女の子なんだけど……」
母の視線が、ふっと遠くなる。嫌な予感がした。母が僕の話を聞いてなにかを思い出す時、たいていろくでもない話に繋がっていく。まさか、地雷を踏んだか? 今の話に母が嫌がるような要素はなかったと思うが、もしかしたら女の子を話をするのはよくなかったかも――。
「その子、名前はゆらちゃんじゃない?」
「……なんで知ってるの?」
つい非難がましい口調になってしまい、慌てて取り繕う。
「榊さんって、小中の頃はいなかったよね? いたら絶対一回は同じクラスになってるはずだから」
所詮、星海町は田舎だ。町内で産まれた人間は、幼稚園か保育所から小学校、中学校までずっと一緒に過ごす。荒ぶる少子化の波のせいで一学年の人数もすくないため、九年間を一緒に過ごせば必ず一度は同じクラスになる。星海高校にも少数ではあるが星海町出身の人もいて、僕の学年では僕を含めて七人ほどが幼稚園からそのまま高校まで同じということになっている。
その七人のなかに、榊ゆらという名前の女の子はいなかった。まして僕が小中学校にいた頃に榊さんが転校してきた記憶もない。都会からの通学組だと思っていたが、どうして母が榊さんの名前を知っているのだろう?
母は「知らなかったの?」と目を丸くした。
「町内で榊さんっていえば、線路裏に住んでる子でしょ? あの三角の土地に建ってる、変なアパートのところ」
「ああ……」
たしかにそのアパートならわかる。通学で毎日のように使う星海駅の線路沿いに建っているアパートのことだ。外壁が深い緑で塗られ、なぜか建物自体が二等辺三角形のような形になっている。直角の部分が細すぎて、あのなかに部屋があっても誰も住めないのではないかと思いながら通学中に眺めている馴染み深いアパートでもあった。
「でもあそこに住んでるなら小学校で一緒になったはずだよね?」
僕の記憶のなかに、あの三角形アパートに住んでいた同じ学年の人間はいない。いるなら友達になって、直角の部分がどうなっているのか見せてもらっているはずだ。星海高校への進学を機に町に引っ越してきたとか――。
母はマグカップをことりと食卓の上に置くと、こわばった関節を伸ばすように指を広げた。僕の疑問に答えようと、母がためらいがちに口を開く。
「言ったことなかった? 榊さん、小学校も中学校も行ってないってPTAで噂になったことあるの。児相の人が来ていたって話もあるし……」
後半は、ほとんど聞こえていなかった。母の言う「榊さん」は、本当に同じクラスの榊さんなのだろうか?
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