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1章(2)

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 結論から言うと、二年三組の面々に著しく常軌を逸した、先生に突然殴りかかったりするような人間はいなかった。むしろ学年の中でも真面目な人間ばかり集めたのではないかと思うほど、授業中の態度はいい人ばかりだ。
 小テストの時間に大音量で動画を見はじめる奴がいないだけでもだいぶありがたい。一年生の頃はそいつのせいでかなり苦しめられた。

 そんな真面目な人間の多い二年三組だからこそ、彼女は僕の目に留まりまくった。
 僕の右斜め前の席。否が応でも目に入る。机の端からこぼれる、さらさらとした黒髪。制服に包まれた、薄くて細い肩。ほっそりとした白いうなじ。
 彼女は一時間目から堂々と机に突っ伏して眠っていた。名前を思い出そうとするが、どうにも上手くいかない。
 そのうち気づいたのは、彼女の姿を見るのは今日がはじめてだということだった。昨日まで、右斜め前の席はずっと空席だったのだ。彼女はオリエンテーションの自己紹介の時にも、新しい学生証の写真撮影の時にもいなかった。

「――さん。さかきさん……榊ゆらさん!」

 現代文の先生が教科書を読む手をはたと止めたかと思うと、僕のほうを向いて名前を呼びはじめた。僕の名前じゃない。自分が怒られているような錯覚に陥るが、先生の目当ては僕ではなく、僕の右斜め前に座る彼女だ。
 さかきゆら、というのが眠り姫よろしく熟睡中の彼女の名前なのだろう。彼女の自己紹介を聞いていないから、何気に初耳だ。
 先生の怒りは頂点に達している。そりゃ、新学期一発目の授業(しかも一時間目)から居眠りをされるのは気分がいいものではない。たまに生徒が授業中になにをしようが気にしない仙人みたいな先生もいるが、現代文の先生はそういうタイプではなさそうだ。黒板の字は神経質そうで右上がりに尖っているし、前髪までぴっちりと張り詰めたポニーテールはいかにも厳しい女教師という感じだし、眼鏡の奥の目は一ミリも笑わずに榊さんの頭頂部を睨んでいる。

 先生は教卓に開いたままの教科書を伏せると、つかつかとこちらへ歩み寄ってきた。つられてクラス中の視線が僕の周りに集まる。注目されているのは僕じゃないのに、どうしようもなく居心地が悪い。
 意味もなく肩を縮めて、榊さんの丸まった背中と、パリッとしたスーツに身を包んだ先生を交互に見やる。

「榊さ――」

 先生が第二声を放とうとした時、彼女の頭がのっそりと持ち上がった。なぜか皆、息を詰めて彼女――榊さんの動向を見守っている。
 丸まっていた背中がまっすぐに伸び、机の上に広がっていた髪がすとんと伸びた背中に落ちた。
 そういえば僕はまだ、彼女の顔も知らなければ、声を聞いたこともなかった。新しいクラスになって一週間が経つというのに、である。榊さんについて知っていることといえば、一年生の時は同じクラスではなかったということだけだ。

「授業中は寝る時間じゃないんですよ」

 先生の当たり前すぎる注意に、誰かがくすくすと忍び笑いを漏らす。

「それに寝ていたら授業の内容もわからないでしょう? テストの時になって困るのは榊さんで――」
「わかります」

 すうっと空気に溶けていくような、やわらかく透き通った声だった。それでいて凛としていて、芯の強さを感じさせる。決して大きな声ではないのに、榊さんの声ははっきりと僕の耳まで届いた。
 榊さんは前を向いたままで、どんな表情をしているかはわからない。僕は声だけ聞いて、勝手にクール系の美少女を想像する。
 先生の顔はわかりやすく引きつっている。そんな先生に追い打ちをかけるように、榊さんはすこし頭を揺らしてから言った。

「寝ていても、わかります。テストもできます」
「……馬鹿にしているの?」
「そう思われたなら、すみません。でも、職員室で成績表とか定期考査の結果とか、見てもらったらわかると思います」

 榊さんの声は、事実を事実のままに、淡々と告げていた。
 なにも臆することなく、いっそ清々しいほどに。

「わたしは一年生の時から、満点しか取ったことないです」


◇ ◇ ◇


 その言葉で完全に先生に火がついた。先生は教室を飛び出していったかと思うと、五月に出す予定だったという小テストのコピーを抱えて戻ってきた。
 榊さんの一言により、クラス全員が巻き添えを食らった形で小テストははじまった。しかも小テストの内容は、あきらかに大学共通テストから抜き出してきたような問題だった。小テストとかいう規模じゃない。普通に定期考査の一問と同じ分量がある。
 周辺地域でもぶっちぎりの馬鹿高校と名高い星海高校において、予習もなしに共通テストの過去問を解ける人間がどれほどいるだろうか? いや、予習をしたとしても怪しい。なんせ星海高校の大学進学率は脅威の四パーセントだ。あとは全員就職か、家事手伝いという名のニートか、よくて専門学校。四大の現役合格を目指す人間など、公園の砂場でダイヤモンドの原石を見つけるようなものである。

 僕は小テストを解きながら、本当にこれを五月に出すつもりだったのか怪しく思えてきていた。どう考えても生徒のレベルとかけ離れすぎている。考えたくはないが、先生は榊さんを打ち負かすためだけに過去問を引っ張り出してきたのではないか?
 それに共通テストの過去問なら、授業をきちんと聞いていようがいまいが関係ない。解ける人は解けるし、解けない人は解けない。というかこれが解けるなら、星海高校うちにいないほうがいい。もっといい高校に行ける。
 ガタッと席を立つ音で、僕は読みかけていた文章から目を離した。
 小テストが配られてからまだ十分も経っていない。それなのに、榊さんはテストの用紙をひらひらさせながら教卓へ向かっていた。

「もう解けたの?」

 疑念の混じった先生の声に、榊さんは「はい」と気のない返事をする。
 僕はテストへの解答もそっちのけで、教卓のほうへ顔を向けて固まった。榊さんの言っていることが本当なら、この小テストでも満点を取っているはずだ。
 用紙を受け取った先生の手が空中で止まる。眼鏡の奥の目がめいいっぱい見開かれ、榊さんが書いたであろう解答を凝視している。
 ややしばらくしてから、先生は言いたくないことを言うように唇を噛み締めた。

「……満点よ。席に戻っていいわ」

 ざわっと教室の空気が変質する瞬間を、僕は全身で感じ取った。
 満点だって? 手元に目を落として問題を見る。僕はまだ問題文の半分も読んでいない。僕が問題文を半分読む間に、榊さんはすべてに目を通して満点の解答を叩き出した。居眠りを注意した先生を、彼女はその力をもって捻り潰してしまったのだ。
 榊さんが席に戻るために振り返る。伏せられていた顔が、ゆっくりと持ち上げられる。

「あ……」

 ばっちりと、目が合った。
 猫みたいなアーモンド型の、奥二重と長いまつ毛に縁取られた茶色の瞳が僕を見ている。肌は透き通るほど白く、桜色の花びらのように小さな唇がきゅっと引き結ばれる。
 目にかかる前髪を鬱陶しそうに払う彼女の指もまた、小枝のように細くなめらかだった。
 榊さんはふいと僕から視線を逸らすと、満点のテスト用紙を折り畳みながらひょこひょこと左右の脚の長さが合っていないような歪な歩き方で自分の席に戻った。
 その顔は僕が声を聞いて想像した通り、田舎にいるのはもったいないほどの美少女だった。
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