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5章(6)
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「なんか、煮物みたいな匂いがするね?」
将太と顔を合わせた暁は、開口一番に言った。そう思われるのも無理はない。寮まで帰ってシャワーを浴び、着替える時間がなかったため、タオルで簡単に頭と顔を拭っただけで地下3階のバーへやってきたのだ。
白いTシャツには筑前煮の煮汁による、茶色い染みが点々と散っている。幸い、ホテルやバーの中に人は少なく、他人に見られることなくバーまできたが、暗い照明の下でも、目の前に立つ暁には将太に降りかかった災難がよく見て取れたようだった。
「上に部屋を取ってるから、そこでシャワーを浴びるといいよ。着替えも、ベッドの上に投げてあるのを勝手に着ていいから」
暁はさらりと言ってのけ、ルームキーらしき部屋番号の書かれたカードを差し出してきた。
「暁さんは? 部屋に戻らないんですか?」
将太の言葉に、暁は目を丸くした。将太にとっては当たり前のことを聞いただけだが、彼にとってはそうではなかったらしい。珍獣でも見るような目で、将太の顔をまじまじと眺めている。
「人を信用しすぎるのも、よくないと思うけどね」
暁の言ってる意味が分からず、首をかしげる。
すると暁はおもむろに手を伸ばし、将太のTシャツの首元をがっちりと掴んで引き寄せた。
鼻先がつきそうなほどの近距離で、暁の深い色をした瞳がまたたく。濃く甘い、バニラのような香りが将太の鼻腔を突き刺した。
「他人に気安く背中を向けない方がいい。その気になればオレも、君を殺すことくらい造作もない」
それだけ言うと、暁は将太のTシャツからぱっと手を離した。胸元の生地がよれて、しわしわになっている。
暁は押しつけるように将太の手にカードキーを握らせると、どっかりとカウンターの席へ腰を下ろした。明るさを落とした照明の中で、暁は悠然と微笑む。
「着替え終わったら、またここにくるといい。適当に飲んで待ってるから」
将太は暁になにも言い返せず、黙って踵を返した。
その気になれば殺すことなど、造作もない。
中性的で整った顔立ちから発せられた言葉は、鋭い刃物のように将太の胸を切り裂いた。暁は将太に、無防備だと伝えたかったのだろう。
暁に言われるまで自分の後ろに私服警官がいることに気づかなかったように、将太は周りをよく見て、気配を察知することが苦手だ。自分に向けられる敵意のようなものを察知する能力が欠けていると言ってもいい。敵意を向けられる機会など、これまでなかったに等しいのだから、仕方ないともいえるが。
暁とは住んでいる世界がちがう。彼はきっと週刊誌の記者という職業柄、人の悪意や敵意に晒されてすごしているはずだ。他人に隙を見せた瞬間、頭から丸呑みされてしまうような、常に気を抜くことが許されない業界なのだろう。勘の鋭さや周りをよく観察する様は、将太よりよほど警察官に向いているように思う。
彩鳥も、暁と同じなのだろうか。彩鳥もまた、将太のことなど簡単に殺せると思っているのだろうか。
将太はホテルの長い廊下を歩きながら、悪い想像を止めることができなかった。
◇ ◇ ◇
シャワーを浴びて、暁の服を拝借して着替えると、将太は憑き物が落ちたようにさっぱりとした気持ちになった。我慢していただけで、弁当の染み込んだ服を着ているのが相当ストレスだったのかもしれない。
部屋に着いてから、暁こそ他人を気安く部屋へ入れていいのだろうか、と思ったが、杞憂だった。なにせ彼が借りているという部屋へ入ってみると、ベッドの上に服が数枚投げられている以外は、ものがまったくなかったからだ。
ベッドのシーツは四方がフレームの巻き込まれたまま使った形跡はないし、洗面台も浴室も水滴ひとつなかった。
ベッドの上に乱雑に置いてあった服も、まるで将太が着ることを見越したようにサイズがぴったりだった。暁の方が10センチほど身長が高い。それなのに将太にぴたりと合うサイズで用意された服。気味が悪くなり、将太は途中で考えることをやめた。
部屋を出て、地下3階のバーへ行くと暁はグラスに入ったウイスキーをちびちびと傾けているところだった。グラスの中に入った大きな氷が、涼しげな音を立てて揺れる。
暁の隣に腰を下ろしたものの、将太はバーの作法が分からず、またなにを頼むべきなのかも分からなかった。こういった高そうなところで酒を飲んだ経験がゼロで、普段は同期につき合って缶チューハイを少し飲む程度だ。見たところメニュー表もなく、将太はますます戸惑った。
「どれでも好きなものを頼めばいい」と暁は言ったが、自分の好きな酒もよく分からない。
困り果てていると、暁は丁寧に置いている酒の種類やカクテルの名前、味わいなどを教えてくれた。
「ちなみに彩鳥ちゃんが一番好きなのは、ジントニックだ」
「……じゃあ、ジントニックで」
暁が喉の奥でくつくつと笑っている。気になる人と同じものを飲んでみたいと思ってなにが悪い? 口には出さないが、将太は心の中で抗議しておいた。
はじめて飲むジントニックは、近頃の蒸し暑さにふさわしい爽快感を持っていた。香草の香りに、ライムとトニックのすっきりとした味わいが調和している。予想よりも大きなグラスに入ってきたため、飲み切れるか一瞬心配になったが、これならぐいぐいいけそうだ。
暁が軽く手を掲げると、カウンター内にいたバーテンダーがすっとふたりのそばから離れた。どうやら簡易的な人払いらしい。客は将太と暁以外に誰もおらず、話を聞かれる心配はなさそうだ。
グラスを傾けながら、暁が目で先を促してくる。
将太は覚悟を決め、口を開いた。
「本部長の奥様とお子さんを殺したのは、添木さんですか?」
将太と顔を合わせた暁は、開口一番に言った。そう思われるのも無理はない。寮まで帰ってシャワーを浴び、着替える時間がなかったため、タオルで簡単に頭と顔を拭っただけで地下3階のバーへやってきたのだ。
白いTシャツには筑前煮の煮汁による、茶色い染みが点々と散っている。幸い、ホテルやバーの中に人は少なく、他人に見られることなくバーまできたが、暗い照明の下でも、目の前に立つ暁には将太に降りかかった災難がよく見て取れたようだった。
「上に部屋を取ってるから、そこでシャワーを浴びるといいよ。着替えも、ベッドの上に投げてあるのを勝手に着ていいから」
暁はさらりと言ってのけ、ルームキーらしき部屋番号の書かれたカードを差し出してきた。
「暁さんは? 部屋に戻らないんですか?」
将太の言葉に、暁は目を丸くした。将太にとっては当たり前のことを聞いただけだが、彼にとってはそうではなかったらしい。珍獣でも見るような目で、将太の顔をまじまじと眺めている。
「人を信用しすぎるのも、よくないと思うけどね」
暁の言ってる意味が分からず、首をかしげる。
すると暁はおもむろに手を伸ばし、将太のTシャツの首元をがっちりと掴んで引き寄せた。
鼻先がつきそうなほどの近距離で、暁の深い色をした瞳がまたたく。濃く甘い、バニラのような香りが将太の鼻腔を突き刺した。
「他人に気安く背中を向けない方がいい。その気になればオレも、君を殺すことくらい造作もない」
それだけ言うと、暁は将太のTシャツからぱっと手を離した。胸元の生地がよれて、しわしわになっている。
暁は押しつけるように将太の手にカードキーを握らせると、どっかりとカウンターの席へ腰を下ろした。明るさを落とした照明の中で、暁は悠然と微笑む。
「着替え終わったら、またここにくるといい。適当に飲んで待ってるから」
将太は暁になにも言い返せず、黙って踵を返した。
その気になれば殺すことなど、造作もない。
中性的で整った顔立ちから発せられた言葉は、鋭い刃物のように将太の胸を切り裂いた。暁は将太に、無防備だと伝えたかったのだろう。
暁に言われるまで自分の後ろに私服警官がいることに気づかなかったように、将太は周りをよく見て、気配を察知することが苦手だ。自分に向けられる敵意のようなものを察知する能力が欠けていると言ってもいい。敵意を向けられる機会など、これまでなかったに等しいのだから、仕方ないともいえるが。
暁とは住んでいる世界がちがう。彼はきっと週刊誌の記者という職業柄、人の悪意や敵意に晒されてすごしているはずだ。他人に隙を見せた瞬間、頭から丸呑みされてしまうような、常に気を抜くことが許されない業界なのだろう。勘の鋭さや周りをよく観察する様は、将太よりよほど警察官に向いているように思う。
彩鳥も、暁と同じなのだろうか。彩鳥もまた、将太のことなど簡単に殺せると思っているのだろうか。
将太はホテルの長い廊下を歩きながら、悪い想像を止めることができなかった。
◇ ◇ ◇
シャワーを浴びて、暁の服を拝借して着替えると、将太は憑き物が落ちたようにさっぱりとした気持ちになった。我慢していただけで、弁当の染み込んだ服を着ているのが相当ストレスだったのかもしれない。
部屋に着いてから、暁こそ他人を気安く部屋へ入れていいのだろうか、と思ったが、杞憂だった。なにせ彼が借りているという部屋へ入ってみると、ベッドの上に服が数枚投げられている以外は、ものがまったくなかったからだ。
ベッドのシーツは四方がフレームの巻き込まれたまま使った形跡はないし、洗面台も浴室も水滴ひとつなかった。
ベッドの上に乱雑に置いてあった服も、まるで将太が着ることを見越したようにサイズがぴったりだった。暁の方が10センチほど身長が高い。それなのに将太にぴたりと合うサイズで用意された服。気味が悪くなり、将太は途中で考えることをやめた。
部屋を出て、地下3階のバーへ行くと暁はグラスに入ったウイスキーをちびちびと傾けているところだった。グラスの中に入った大きな氷が、涼しげな音を立てて揺れる。
暁の隣に腰を下ろしたものの、将太はバーの作法が分からず、またなにを頼むべきなのかも分からなかった。こういった高そうなところで酒を飲んだ経験がゼロで、普段は同期につき合って缶チューハイを少し飲む程度だ。見たところメニュー表もなく、将太はますます戸惑った。
「どれでも好きなものを頼めばいい」と暁は言ったが、自分の好きな酒もよく分からない。
困り果てていると、暁は丁寧に置いている酒の種類やカクテルの名前、味わいなどを教えてくれた。
「ちなみに彩鳥ちゃんが一番好きなのは、ジントニックだ」
「……じゃあ、ジントニックで」
暁が喉の奥でくつくつと笑っている。気になる人と同じものを飲んでみたいと思ってなにが悪い? 口には出さないが、将太は心の中で抗議しておいた。
はじめて飲むジントニックは、近頃の蒸し暑さにふさわしい爽快感を持っていた。香草の香りに、ライムとトニックのすっきりとした味わいが調和している。予想よりも大きなグラスに入ってきたため、飲み切れるか一瞬心配になったが、これならぐいぐいいけそうだ。
暁が軽く手を掲げると、カウンター内にいたバーテンダーがすっとふたりのそばから離れた。どうやら簡易的な人払いらしい。客は将太と暁以外に誰もおらず、話を聞かれる心配はなさそうだ。
グラスを傾けながら、暁が目で先を促してくる。
将太は覚悟を決め、口を開いた。
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