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5章(3)
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相沢の告白は重く、じっとりと暗い質感を持っていた。
将太はもはや頭を抱えるしかない。銀行強盗事件の犯人の娘、彩鳥の旦那、そして相沢の同期だったという警察官。将太が知るだけでもすでに三人、宝井の手によって命を奪われ、あるいは命を絶とうとした人間がいるのだ。
明るみに出ていないだけで、他にも被害者がいるのではないか? そう邪推してしまう。上に立つ者の多くは陰で悪く言われたり、あらぬ噂を流されることが常のような部分もあるが、それにしても宝井は異常である。
そしてなにより異常なのは、これだけ宝井による被害を訴える人間がおり、現在進行形で多数の人間から恨みを買っている宝井が県警の本部長まで上り詰めていることだ。そのできすぎた出世街道は、宝井がこれだけのことを起こしておきながら、一回も処分されていないことを示す。
この世に死んだ方がいい人間など、いない。少なくとも将太はそう思っている。命と時間は、みなに等しく平等であると。
けれど、宝井はどうだ? 多くの人を苦しめておきながら、のうのうと人の上に立つ彼を、自分は許せるのか? 宝井のために命を懸けて職務に当たることができるのか?
将太の葛藤を、相沢は黙って見ていた。あるいは将太を見ているように見えて、その実なにも見ていないのかもしれない。黙ってひとりで、思考の海に沈んでいるようにも見える。
相沢の顔には焦燥のような、安堵のような不思議な表情が浮かんでいた。将太が相沢と目を合わせると、そのなんともいえない表情は途端に陰に隠れ、いつもの冷静な顔が戻ってくる。
「加藤は明日、非番だったよな?」
「はい、特練もないというので特に予定はありません」
将太の返答に、相沢は自分を納得させるみたいに何度か大きく息を吐き出した。目の下は隈が縁取っており、濃い疲労の色が窺える。
相沢はしばし自分の中で考えを巡らせていたようだが、やがて真正面から将太の顔を見つめながら言った。
「明日からは宝井本部長の警備任務に就いてほしい。加藤は訓練も当直も、しばらく入る必要はない」
なにかが大きく動き出した音がした。背筋をじっとりと冷たい汗が伝う。できれば理由など聞きたくない。しかし、聞かねばならない。
「本部長に、なにかあったんすか」と将太はかろうじて言葉を絞り出した。相沢の答えを聞きたくないというように、耳の奥で耳鳴りが止まない。
しかし相沢は淡々と、事実だけを告げる。
「宝井本部長の奥様とお子さんが殺された。本部長は今、ホテルに避難して機動隊が交代で警備に就いている」
◇ ◇ ◇
「それにしても、よく分からん事件だよな」
次の日、将太と一緒に宝井の警備を任された同期の小森は、将太の顔を見るなりそう言った。
将太は昨夜、宝井の妻子が殺害されたこと以外の事情を一切知らない。
相沢がそれ以上、語らなかったからだ。もしくは将太のような新人に教えることなど、なにもなかったということかもしれない。変に首を突っ込むことなく、職務を全うしろという指示の裏返しということも考えられる。
脳裏に浮かんだのは彩鳥と暁のことだったが、幸いにも妻子が殺害されたとされる時間に、ふたりは将太や菱目と一緒にいた。きちんとしたアリバイがあることに、将太はそっと胸を撫で下ろす。
一方の小森は、刑事課の先輩と仲がいいとかなんとかで、それなりに情報を仕入れていた。交代までの8時間、宝井が泊まっている部屋の入口に突っ立っているだけだ。無駄話をする時間はいくらでもある。
小森はよほど誰かに話したかったのか、将太が聞くまでもなく声を潜めて話しはじめた。
「本部長の家から、奥さんと子どもだけじゃない、別の人の遺体も見つかってるらしい」
「どういうこと?」
将太は思わず、隣に立つ小森の顔をまじまじと見つめてしまった。小森に小突かれて、慌てて目線を前に戻す。
「リビングに奥さんと子どもの遺体があって、どっちも胸を刺されてたんだが、問題はそのふたりのそばにあった第三者の遺体なんだよ。顔と指紋が潰されてて、男だってことしか分かっていないらしい」
「宝井本部長の親族や知り合いじゃないのか?」
「いや、それも分かってない。なにせ顔も指紋もないからな。本部長は自分が不在の時に家にくるような男はいないって言ってる」
だとしたら、宝井とはまったく関係のない第三者が家に入り込み、挙句、顔と指紋が潰された状態で死んだことになる。
「その身元の分からない男が、奥さんと子どもを殺したんだろう? そいつが死んでるんだったら、犯人は捕まったようなものじゃ――」
将太は言ってから、気づいた。もしその顔と指紋を潰された男の遺体がふたりを殺した犯人だったとしても、どうしても不可解な状況が生まれる。
小森も将太が言いかけたことに気づいたようだ。
「もしそうだったとしても、その男の顔と指紋を潰した奴が別にいる。男が奥さんと子どもを殺した後、誰かに身元が分からないように殺されたのか。もしくは……」
「謎の第三者が本部長の奥さんと子ども、そしてなぜかそこにいた男を身元が分からないように殺したのか」
状況を整理してみれば、小森の言う通り、よく分からない事件だ。宝井の妻子が殺されたことと、身元不明の遺体はなにか関係があるのか、それともまったく別の殺人がたまたま宝井の家で2件同時に起こっただけなのか。
将太と小森はそれきり黙り込み、考えに耽った。この問題を考えるのに、8時間は短すぎる。
将太はどうしても、彩鳥や暁が関わっているのではないかという考えを振り払うことができなかった。
将太はもはや頭を抱えるしかない。銀行強盗事件の犯人の娘、彩鳥の旦那、そして相沢の同期だったという警察官。将太が知るだけでもすでに三人、宝井の手によって命を奪われ、あるいは命を絶とうとした人間がいるのだ。
明るみに出ていないだけで、他にも被害者がいるのではないか? そう邪推してしまう。上に立つ者の多くは陰で悪く言われたり、あらぬ噂を流されることが常のような部分もあるが、それにしても宝井は異常である。
そしてなにより異常なのは、これだけ宝井による被害を訴える人間がおり、現在進行形で多数の人間から恨みを買っている宝井が県警の本部長まで上り詰めていることだ。そのできすぎた出世街道は、宝井がこれだけのことを起こしておきながら、一回も処分されていないことを示す。
この世に死んだ方がいい人間など、いない。少なくとも将太はそう思っている。命と時間は、みなに等しく平等であると。
けれど、宝井はどうだ? 多くの人を苦しめておきながら、のうのうと人の上に立つ彼を、自分は許せるのか? 宝井のために命を懸けて職務に当たることができるのか?
将太の葛藤を、相沢は黙って見ていた。あるいは将太を見ているように見えて、その実なにも見ていないのかもしれない。黙ってひとりで、思考の海に沈んでいるようにも見える。
相沢の顔には焦燥のような、安堵のような不思議な表情が浮かんでいた。将太が相沢と目を合わせると、そのなんともいえない表情は途端に陰に隠れ、いつもの冷静な顔が戻ってくる。
「加藤は明日、非番だったよな?」
「はい、特練もないというので特に予定はありません」
将太の返答に、相沢は自分を納得させるみたいに何度か大きく息を吐き出した。目の下は隈が縁取っており、濃い疲労の色が窺える。
相沢はしばし自分の中で考えを巡らせていたようだが、やがて真正面から将太の顔を見つめながら言った。
「明日からは宝井本部長の警備任務に就いてほしい。加藤は訓練も当直も、しばらく入る必要はない」
なにかが大きく動き出した音がした。背筋をじっとりと冷たい汗が伝う。できれば理由など聞きたくない。しかし、聞かねばならない。
「本部長に、なにかあったんすか」と将太はかろうじて言葉を絞り出した。相沢の答えを聞きたくないというように、耳の奥で耳鳴りが止まない。
しかし相沢は淡々と、事実だけを告げる。
「宝井本部長の奥様とお子さんが殺された。本部長は今、ホテルに避難して機動隊が交代で警備に就いている」
◇ ◇ ◇
「それにしても、よく分からん事件だよな」
次の日、将太と一緒に宝井の警備を任された同期の小森は、将太の顔を見るなりそう言った。
将太は昨夜、宝井の妻子が殺害されたこと以外の事情を一切知らない。
相沢がそれ以上、語らなかったからだ。もしくは将太のような新人に教えることなど、なにもなかったということかもしれない。変に首を突っ込むことなく、職務を全うしろという指示の裏返しということも考えられる。
脳裏に浮かんだのは彩鳥と暁のことだったが、幸いにも妻子が殺害されたとされる時間に、ふたりは将太や菱目と一緒にいた。きちんとしたアリバイがあることに、将太はそっと胸を撫で下ろす。
一方の小森は、刑事課の先輩と仲がいいとかなんとかで、それなりに情報を仕入れていた。交代までの8時間、宝井が泊まっている部屋の入口に突っ立っているだけだ。無駄話をする時間はいくらでもある。
小森はよほど誰かに話したかったのか、将太が聞くまでもなく声を潜めて話しはじめた。
「本部長の家から、奥さんと子どもだけじゃない、別の人の遺体も見つかってるらしい」
「どういうこと?」
将太は思わず、隣に立つ小森の顔をまじまじと見つめてしまった。小森に小突かれて、慌てて目線を前に戻す。
「リビングに奥さんと子どもの遺体があって、どっちも胸を刺されてたんだが、問題はそのふたりのそばにあった第三者の遺体なんだよ。顔と指紋が潰されてて、男だってことしか分かっていないらしい」
「宝井本部長の親族や知り合いじゃないのか?」
「いや、それも分かってない。なにせ顔も指紋もないからな。本部長は自分が不在の時に家にくるような男はいないって言ってる」
だとしたら、宝井とはまったく関係のない第三者が家に入り込み、挙句、顔と指紋が潰された状態で死んだことになる。
「その身元の分からない男が、奥さんと子どもを殺したんだろう? そいつが死んでるんだったら、犯人は捕まったようなものじゃ――」
将太は言ってから、気づいた。もしその顔と指紋を潰された男の遺体がふたりを殺した犯人だったとしても、どうしても不可解な状況が生まれる。
小森も将太が言いかけたことに気づいたようだ。
「もしそうだったとしても、その男の顔と指紋を潰した奴が別にいる。男が奥さんと子どもを殺した後、誰かに身元が分からないように殺されたのか。もしくは……」
「謎の第三者が本部長の奥さんと子ども、そしてなぜかそこにいた男を身元が分からないように殺したのか」
状況を整理してみれば、小森の言う通り、よく分からない事件だ。宝井の妻子が殺されたことと、身元不明の遺体はなにか関係があるのか、それともまったく別の殺人がたまたま宝井の家で2件同時に起こっただけなのか。
将太と小森はそれきり黙り込み、考えに耽った。この問題を考えるのに、8時間は短すぎる。
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