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5章(2)
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相沢の部屋は、その人柄にふさわしくしっかり整理整頓されており、清潔が保たれていた。
将太を部屋に招き入れると、間髪入れずに「腹減ってるか?」と尋ねてくる。そう聞かれると、先ほどまで空腹もなにも感じなかったのに、不思議と腹が減ってくるような気がする。将太が「ほどほどに減ってます」と答えると、相沢は冷凍庫を開け、ラップに包まれた茶色い物体をふたつ取り出した。
茶色い物体を電子レンジに入れると、冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出し、丁寧に紙コップに注いでくれた。先輩がてきぱきと動いているのに、後輩の自分がなにもしないのはなんとも居心地の悪いものである。しかし相沢は手を動かすことが問題の解決につながるというように、将太の手伝いを拒否してすべて自分で手筈を整えた。
小さなテーブルを挟んで、将太と相沢は向かい合わせに座る。テーブルの上には麦茶の入った紙コップと、ほかほかに温められた茶色の物体がふたつ乗っていた。
相沢がTシャツの裾でその物体を持ち上げ、ラップを剥がす。将太も相沢に習ってTシャツの裾で掴み、ラップを剥がした。湯気に混ざって出汁と醤油の匂いがふんわりと立ちのぼる。具材は鶏肉とごぼう、それに油揚げとにんじんが入った炊き込みご飯だった。
「自分で作ったんすか?」
将太の問いかけに、相沢はむぐむぐとおにぎりを頬張ったまま、頷く。
「休みの日に知り合いの家のキッチンを借りてやってる。電子レンジでの解凍と加熱だけなら、寮の部屋でもできるからな」
将太が知るところによれば、相沢は結婚もしていないし、交際相手がいるという話も聞いたことがない。寮の共用キッチンを使いにくいのは相沢も同じだったようだ。しかし、休みのたびに知り合いの家まで出向いて料理を作っているその労力には感心する。将太も実家へ帰れば自炊はできるものの、帰る気力もなく日々、弁当屋で食事を済ませているのだから。
「歳を取ると外食がきついんだよな」と相沢は将太の考えを読み取ったように言った。自分も30を超えても結婚せず、つき合う相手もいなかったらこうなるのだろうか?
しばらくはふたりが腹の満たす音だけが響いた。炊き込みご飯は出汁がよく効いていて、ごぼうや油揚げから染み出した旨味がご飯を包んでいる。鶏肉はもも肉のようだ。コクのある脂が、また米を進ませる。
やがて将太が麦茶まで飲み干すと、相沢は手早くテーブルの上を片づけ、まっすぐ将太を見据えた。
唇を何度か舐め、相沢がためらいがちに口を開く。
「前にお前が言っていた弁当屋に行ってきた」
将太の心臓が、どくんと大きく跳ねる。次の言葉を聞くのが怖い。相沢のまっすぐな鋭い視線は、将太の内側をすべて見通しているようだ。
相沢がテーブルの上に置いた手を見て、その感触を確かめるように指を組み替える。
「昔、機動隊にいた添木という男の奥さんだった……水本は、彼女の旧姓だな」
「5年前の、銀行強盗事件で亡くなった方ですよね?」
知っているのか、と相沢の口がかすかに動く。
「添木さんと、暁さんから聞きました」
暁の名前を出した途端、相沢の目の色が変わった。鋭い目つきに、不安な色が混じる。将太がどこまで知っているのか、探るような目で相沢は油断なく見つめてくる。
正直に、聞いたことを話していいものか? それとも相沢に関することはなにも聞かなかったことにして、自分と菱目の心の中だけに留めておくか?
将太は振り返り、部屋のドアがぴたりと閉じられ、鍵をかけられていることを確認した。こんな夜更けに入ってくる人もいないだろう。どうしても、将太は相沢に聞きたいことがあった。その衝動、好奇心は、もはや自分のうちに留めておけるものではなくなっている。
「どうして、暁さんに協力したんですか」
上司や上層部の人間は、相沢のしたことを咎めるだろう。菱目のように、落胆する部下もいるかもしれない。しかし将太に限っては、相沢を責める気にはなれなかった。36歳で警部補になり、小隊長まで務める相沢が、一時の迷いや好奇心でそんなことをするとは到底思えなかった。
長い沈黙が、部屋の中を支配する。いつまでも待つつもりだ。どうせ明日の特練はないし、早起きする予定もない。
たっぷり5分は待ったかと思われる頃、相沢はテーブルの上で組んでいた手を握りしめた。
「……添木の死に、納得がいかなかったからだ」
相沢はその罪を懺悔するように、吐き出す。
「なぜ若いあいつが、宝井のような男のために死ななくちゃならなかったのか、俺には理解できなかったからだ。事件の後、悶々としている俺の前に暁が現れた――」
その恨み、オレが代わりに晴らしてやろうか?
暁は確かに、相沢へそう声をかけたという。そして暁は、相沢が胸の奥底に抱え込んでいた闇を、明るみに引きずり出した。
「あいつは言った、宝井を排除して天使を救おうってな」
「天使?」
急なファンタジー要素に戸惑うか、話している相沢はいたって真剣な表情をしている。冷静な顔に見え隠れするのは、宝井への恨みか、心から湧き上がってくる悲しみか。
「暁は俺の過去まで徹底的に調べ上げたんだろう。俺の同期が宝井のパワハラで自殺未遂を起こして、警察を辞めたことも。そして俺がその同期を慕っていることも、代わりに恨みを晴らしたいと思っていることも」
将太を部屋に招き入れると、間髪入れずに「腹減ってるか?」と尋ねてくる。そう聞かれると、先ほどまで空腹もなにも感じなかったのに、不思議と腹が減ってくるような気がする。将太が「ほどほどに減ってます」と答えると、相沢は冷凍庫を開け、ラップに包まれた茶色い物体をふたつ取り出した。
茶色い物体を電子レンジに入れると、冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出し、丁寧に紙コップに注いでくれた。先輩がてきぱきと動いているのに、後輩の自分がなにもしないのはなんとも居心地の悪いものである。しかし相沢は手を動かすことが問題の解決につながるというように、将太の手伝いを拒否してすべて自分で手筈を整えた。
小さなテーブルを挟んで、将太と相沢は向かい合わせに座る。テーブルの上には麦茶の入った紙コップと、ほかほかに温められた茶色の物体がふたつ乗っていた。
相沢がTシャツの裾でその物体を持ち上げ、ラップを剥がす。将太も相沢に習ってTシャツの裾で掴み、ラップを剥がした。湯気に混ざって出汁と醤油の匂いがふんわりと立ちのぼる。具材は鶏肉とごぼう、それに油揚げとにんじんが入った炊き込みご飯だった。
「自分で作ったんすか?」
将太の問いかけに、相沢はむぐむぐとおにぎりを頬張ったまま、頷く。
「休みの日に知り合いの家のキッチンを借りてやってる。電子レンジでの解凍と加熱だけなら、寮の部屋でもできるからな」
将太が知るところによれば、相沢は結婚もしていないし、交際相手がいるという話も聞いたことがない。寮の共用キッチンを使いにくいのは相沢も同じだったようだ。しかし、休みのたびに知り合いの家まで出向いて料理を作っているその労力には感心する。将太も実家へ帰れば自炊はできるものの、帰る気力もなく日々、弁当屋で食事を済ませているのだから。
「歳を取ると外食がきついんだよな」と相沢は将太の考えを読み取ったように言った。自分も30を超えても結婚せず、つき合う相手もいなかったらこうなるのだろうか?
しばらくはふたりが腹の満たす音だけが響いた。炊き込みご飯は出汁がよく効いていて、ごぼうや油揚げから染み出した旨味がご飯を包んでいる。鶏肉はもも肉のようだ。コクのある脂が、また米を進ませる。
やがて将太が麦茶まで飲み干すと、相沢は手早くテーブルの上を片づけ、まっすぐ将太を見据えた。
唇を何度か舐め、相沢がためらいがちに口を開く。
「前にお前が言っていた弁当屋に行ってきた」
将太の心臓が、どくんと大きく跳ねる。次の言葉を聞くのが怖い。相沢のまっすぐな鋭い視線は、将太の内側をすべて見通しているようだ。
相沢がテーブルの上に置いた手を見て、その感触を確かめるように指を組み替える。
「昔、機動隊にいた添木という男の奥さんだった……水本は、彼女の旧姓だな」
「5年前の、銀行強盗事件で亡くなった方ですよね?」
知っているのか、と相沢の口がかすかに動く。
「添木さんと、暁さんから聞きました」
暁の名前を出した途端、相沢の目の色が変わった。鋭い目つきに、不安な色が混じる。将太がどこまで知っているのか、探るような目で相沢は油断なく見つめてくる。
正直に、聞いたことを話していいものか? それとも相沢に関することはなにも聞かなかったことにして、自分と菱目の心の中だけに留めておくか?
将太は振り返り、部屋のドアがぴたりと閉じられ、鍵をかけられていることを確認した。こんな夜更けに入ってくる人もいないだろう。どうしても、将太は相沢に聞きたいことがあった。その衝動、好奇心は、もはや自分のうちに留めておけるものではなくなっている。
「どうして、暁さんに協力したんですか」
上司や上層部の人間は、相沢のしたことを咎めるだろう。菱目のように、落胆する部下もいるかもしれない。しかし将太に限っては、相沢を責める気にはなれなかった。36歳で警部補になり、小隊長まで務める相沢が、一時の迷いや好奇心でそんなことをするとは到底思えなかった。
長い沈黙が、部屋の中を支配する。いつまでも待つつもりだ。どうせ明日の特練はないし、早起きする予定もない。
たっぷり5分は待ったかと思われる頃、相沢はテーブルの上で組んでいた手を握りしめた。
「……添木の死に、納得がいかなかったからだ」
相沢はその罪を懺悔するように、吐き出す。
「なぜ若いあいつが、宝井のような男のために死ななくちゃならなかったのか、俺には理解できなかったからだ。事件の後、悶々としている俺の前に暁が現れた――」
その恨み、オレが代わりに晴らしてやろうか?
暁は確かに、相沢へそう声をかけたという。そして暁は、相沢が胸の奥底に抱え込んでいた闇を、明るみに引きずり出した。
「あいつは言った、宝井を排除して天使を救おうってな」
「天使?」
急なファンタジー要素に戸惑うか、話している相沢はいたって真剣な表情をしている。冷静な顔に見え隠れするのは、宝井への恨みか、心から湧き上がってくる悲しみか。
「暁は俺の過去まで徹底的に調べ上げたんだろう。俺の同期が宝井のパワハラで自殺未遂を起こして、警察を辞めたことも。そして俺がその同期を慕っていることも、代わりに恨みを晴らしたいと思っていることも」
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