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3章(6)
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紫のインナーカラーを揺らしながら、男は菱目の肩に手を置いていた。まるで将太たちの行動を咎めるように。その奇抜な髪色に切れ長の目、スーツ姿には見覚えがある。先ほど、マンションの入口ですれちがった男だ。はじめは女性かと思ったが、こうして対峙してみると紛れもない男性である。
菱目は顔を強張らせ、男の手を振り払うかどうか迷っているらしい。こちらに助けを求めるように、菱目が将太の瞳を覗き込んでくるが、将太にできることは少ない。借り物のような笑顔を浮かべる男をなるべく刺激しないように、慎重に立ち回るしかない。
「勝手に和室へ入ったことは謝ります、すみません」
将太は大人しく男に頭を下げた。そもそもこの男が何者で、彩鳥とどんな関係があって、この部屋に入ってきたのか、なにも分かっていないが。反論するよりはいいだろう。事を荒立てるのは得策ではない。
男は将太の謝罪など聞こえていないかのように受け流した。そうして菱目から手を離し、和室を出ていく。将太はとっさに菱目を自分の背に隠した。男がその顔にふさわしい綺麗な声で彩鳥を呼ぶ。
「虫は片づいたみたいだ」という男の声を聞き、彩鳥がおずおずと部屋へ入ってきた。開け放たれた和室の襖を見て、一瞬だけ眉を寄せる。遺影の前に供えられた食事から、むわりと腐敗臭が漂った。
将太は改めて、彩鳥の顔を見て頭を下げる。
「すみません、勝手に入りました。食べ物が腐った臭いがしていたので、虫がいないか確認したかったんです」
自分でも言い訳めいた釈明だとは思うが、これ以上の理由はない。彩鳥の部屋を勝手に荒らしたかったわけでも、襖を閉じて隠すように置かれていた位牌や骨壺を見たかったわけでもない。本当に、ただの偶然なのだ。
彩鳥は感情の読めない顔で将太の言い訳を聞いていたが、やがて小さくため息をつくとちょうどリビングと和室の境目に立つ将太の脇をすり抜けた。
遺影の前に置かれた食事の皿を手に取り、キッチンへ入っていく。彩鳥は腐って悪臭を放つ食事を、そのままゴミ箱へ投げ入れた。食器を洗うのも面倒だというように、食器ごと捨てたのだ。
リビングからその一部始終を見ていた将太は、どう声をかけるべきか迷った。今の彩鳥は弁当屋でにこやかにご飯を大盛りにしてくれるやさしい雰囲気が消え失せ、厭世的な笑みを浮かべていた。
「ちゃんと二人に挨拶したの?」
彩鳥の刺々しい言葉は、どうやらスーツ姿の男へ向けられているようである。将太は彩鳥の様子に、少なからずショックを受けた。将太がこれまで見てきた彩鳥の姿はすべて幻想で、これが本当の彩鳥なのだろうか。恥ずかしそうにはにかむこともなく、猫のような瞳には強い光が宿っている。とても、虫が怖くて将太を頼ってくるようなか弱い女性には見えない。
男は彩鳥に促されてようやく自身の仕事を思い出したのか、おもむろにスーツの内側へ手を突っ込み、一枚の紙きれを取り出した。しわしわすぎてすぐには気づかなかったが、名刺のようである。男は丁寧に、もう一枚よれよれの名刺を取り出して将太と菱目に一枚ずつ渡してきた。
名刺は端が擦り切れ、字も水かなにかで滲んでいてよく読めない。しかし男は構わず、くたびれた名刺を押しつけてくるので受け取らないわけにもいかなかった。なんとか目を凝らして印字された名前を読み取ろうとするものの、滲みすぎててよく分からない。将太はどうしようもなくなって、男の整いすぎた顔を見た。
「暁康介。海廊社日報の記者だ」
海廊社日報、と聞いた途端に菱目の口が思い切りへの字に曲がった。嫌なものを見たと言わんばかりに菱目は暁と名乗った男を睨みつける。
「知ってるんすか?」
将太の問いに、菱目はますます顔をしかめる。
「逆にあんた知らないの? 海廊社日報といえば警察の不祥事とか、上の変な噂ばっかり扱ってる週刊誌でしょう? 父が本部長だった頃によくお世話になったわ」
菱目の父親が本部長だったのは初耳だ。さらりと衝撃的な事実を告げられた気がするが、菱目も暁も驚く将太は眼中にない。暁はじろじろと菱目の顔を見ていたが、やがて納得いったように喉の奥で笑った。
「君は、菱目さんのお嬢さんか。オレも君のお父さんのことは先輩から聞いただけだが……お母さんは元気かい?」
暁の言葉に、菱目はぎろりと彼を睨んだ。強い怒気をはらんだ目が、暁を無遠慮に刺し貫く。菱目は自分を落ち着けるように大きく息を吸うと、暁を睨みつけたまま言った。
「じゃあその先輩に言っておいてもらえます? 母は死にました。あなたが父の周りを嗅ぎまわって秘密を掘り返したせいでね」
重たい沈黙がリビングの床にどんよりと溜まる。エアコンの冷気があってもなお、将太はじっとりと背中に汗をかいていた。将太はこっそり彩鳥の様子を盗み見たが、彩鳥はさして興味もなさそうにぼんやりと立っていた。菱目に同情するでもなく、かといって好奇心を滲ませているでもない。空虚な目で、彩鳥は暁を見ているようだった。
菱目は顔を強張らせ、男の手を振り払うかどうか迷っているらしい。こちらに助けを求めるように、菱目が将太の瞳を覗き込んでくるが、将太にできることは少ない。借り物のような笑顔を浮かべる男をなるべく刺激しないように、慎重に立ち回るしかない。
「勝手に和室へ入ったことは謝ります、すみません」
将太は大人しく男に頭を下げた。そもそもこの男が何者で、彩鳥とどんな関係があって、この部屋に入ってきたのか、なにも分かっていないが。反論するよりはいいだろう。事を荒立てるのは得策ではない。
男は将太の謝罪など聞こえていないかのように受け流した。そうして菱目から手を離し、和室を出ていく。将太はとっさに菱目を自分の背に隠した。男がその顔にふさわしい綺麗な声で彩鳥を呼ぶ。
「虫は片づいたみたいだ」という男の声を聞き、彩鳥がおずおずと部屋へ入ってきた。開け放たれた和室の襖を見て、一瞬だけ眉を寄せる。遺影の前に供えられた食事から、むわりと腐敗臭が漂った。
将太は改めて、彩鳥の顔を見て頭を下げる。
「すみません、勝手に入りました。食べ物が腐った臭いがしていたので、虫がいないか確認したかったんです」
自分でも言い訳めいた釈明だとは思うが、これ以上の理由はない。彩鳥の部屋を勝手に荒らしたかったわけでも、襖を閉じて隠すように置かれていた位牌や骨壺を見たかったわけでもない。本当に、ただの偶然なのだ。
彩鳥は感情の読めない顔で将太の言い訳を聞いていたが、やがて小さくため息をつくとちょうどリビングと和室の境目に立つ将太の脇をすり抜けた。
遺影の前に置かれた食事の皿を手に取り、キッチンへ入っていく。彩鳥は腐って悪臭を放つ食事を、そのままゴミ箱へ投げ入れた。食器を洗うのも面倒だというように、食器ごと捨てたのだ。
リビングからその一部始終を見ていた将太は、どう声をかけるべきか迷った。今の彩鳥は弁当屋でにこやかにご飯を大盛りにしてくれるやさしい雰囲気が消え失せ、厭世的な笑みを浮かべていた。
「ちゃんと二人に挨拶したの?」
彩鳥の刺々しい言葉は、どうやらスーツ姿の男へ向けられているようである。将太は彩鳥の様子に、少なからずショックを受けた。将太がこれまで見てきた彩鳥の姿はすべて幻想で、これが本当の彩鳥なのだろうか。恥ずかしそうにはにかむこともなく、猫のような瞳には強い光が宿っている。とても、虫が怖くて将太を頼ってくるようなか弱い女性には見えない。
男は彩鳥に促されてようやく自身の仕事を思い出したのか、おもむろにスーツの内側へ手を突っ込み、一枚の紙きれを取り出した。しわしわすぎてすぐには気づかなかったが、名刺のようである。男は丁寧に、もう一枚よれよれの名刺を取り出して将太と菱目に一枚ずつ渡してきた。
名刺は端が擦り切れ、字も水かなにかで滲んでいてよく読めない。しかし男は構わず、くたびれた名刺を押しつけてくるので受け取らないわけにもいかなかった。なんとか目を凝らして印字された名前を読み取ろうとするものの、滲みすぎててよく分からない。将太はどうしようもなくなって、男の整いすぎた顔を見た。
「暁康介。海廊社日報の記者だ」
海廊社日報、と聞いた途端に菱目の口が思い切りへの字に曲がった。嫌なものを見たと言わんばかりに菱目は暁と名乗った男を睨みつける。
「知ってるんすか?」
将太の問いに、菱目はますます顔をしかめる。
「逆にあんた知らないの? 海廊社日報といえば警察の不祥事とか、上の変な噂ばっかり扱ってる週刊誌でしょう? 父が本部長だった頃によくお世話になったわ」
菱目の父親が本部長だったのは初耳だ。さらりと衝撃的な事実を告げられた気がするが、菱目も暁も驚く将太は眼中にない。暁はじろじろと菱目の顔を見ていたが、やがて納得いったように喉の奥で笑った。
「君は、菱目さんのお嬢さんか。オレも君のお父さんのことは先輩から聞いただけだが……お母さんは元気かい?」
暁の言葉に、菱目はぎろりと彼を睨んだ。強い怒気をはらんだ目が、暁を無遠慮に刺し貫く。菱目は自分を落ち着けるように大きく息を吸うと、暁を睨みつけたまま言った。
「じゃあその先輩に言っておいてもらえます? 母は死にました。あなたが父の周りを嗅ぎまわって秘密を掘り返したせいでね」
重たい沈黙がリビングの床にどんよりと溜まる。エアコンの冷気があってもなお、将太はじっとりと背中に汗をかいていた。将太はこっそり彩鳥の様子を盗み見たが、彩鳥はさして興味もなさそうにぼんやりと立っていた。菱目に同情するでもなく、かといって好奇心を滲ませているでもない。空虚な目で、彩鳥は暁を見ているようだった。
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