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3章(4)

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 人妻の家に男ひとりで乗り込むのはさすがにまずいと思い、同期で女性の菱目ひしめを呼び出したわけだが、呼び出された方はむっつりと口を引き結び、不機嫌そのものだった。こんな夜更けに呼び出されたのだから、無理もない。部屋着にサンダルという出で立ちでやってきた菱目に将太は謝り倒し、なんとか彩鳥さとりの家へ同行してほしいと頼み込む。
 菱目は肩甲骨のあたりまで伸びる茶髪を夜風でなびかせながら、唐突に口を開いた。

「で、加藤はあのお姉さんに惚れてるわけ?」
「ちょっ、なんてこと言うんすか!」

 3メートルほど離れて前を歩く彩鳥に聞こえたのではないかと焦ったが、彩鳥に大きな動きはない。振り向きもしない。将太はそっと胸を撫で下ろして、菱目をじっと睨む。

「なによ、好きでなきゃこんな時間の虫退治なんて引き受けないでしょ。あたしを呼んだってことは、あわよくば旦那から寝取ってやろうなんて考えはなさそうで安心したけど」
「ヘタレだもんね、あんた」と菱目は将太へ刺さりまくる言葉を投げつけてくる。

 人の奥さんに手を出してはいけないことくらいは分かる。そのくらいの倫理観はきちんと持ち合わせているつもりだ。菱目を呼んだのも、将太にその気がなくても万が一にも疑われるようなことは避けなければならないという決意からだ。その点では、菱目がヘタレだと評するのを受け入れなければならない。できれば慎重とか、用心深いとか言ってほしいところだが。
 菱目と惚れた惚れていないと押し問答をしているうちに、目的地へたどりついたようだ。弁当屋からは10分ほど歩いただろうか。彩鳥がまだ築浅らしい綺麗な外観をしたマンションの前で立ち止まる。

「ここの5階なんですけど、今エレベーターが壊れてて……」

 彩鳥の言葉に、菱目は露骨に嫌そうな顔をした。1、2階ならともかく、5階まで昇るのはかなりの重労働だ。
 菱目を階下で待たせて、自分だけ彩鳥と一緒に5階まで上がることも考えたが、いくらエントランスの明かりがあるとはいえ23時すぎに女性を一人にしておくことは気が進まない。
 困り果てる将太を一瞥し、菱目は大きなため息をついた。

「ここまでついてきたのに、あんたを野放しにするわけないでしょ。さっさと行くわよ」

 まるで将太のことを害獣がなにかのように言ってくれるが、ついてきてくれるならありがたい。事が済んだらハーゲンダッツのアソートボックスを献上することもいとわないくらいには、感謝している。
 二人の間で話がまとまったと見た彩鳥は、入口のオートロックを開け、二人を招き入れた。彩鳥、菱目、将太の順で中に入る。入口のオートロックといい、エントランスの清潔さといい、かなり値の張るマンションのように見える。弁当屋はそんなに稼げるのだろうか、なんて邪推をしてしまった。

「失礼」

 将太の後ろで閉まりかけていた扉の隙間を人影がすり抜けた。扉がぴたりと閉じ、モーター音を響かせながらオートロックがかかった。
 将太は横をすり抜けた人影を見て、息を飲む。すらりと背が高く、スーツを着ているその人影が、一見すると男性だ。切れ長の目が一瞬、将太の顔を覗き見る。
 しかし、腰まで届くかというほど長い黒髪に、内側は紫色のカラーが入っている。黒と紫の混じる髪を後ろで無造作にくくり、髪の隙間から覗く耳にはいくつものピアスが開いていた。着ているものや靴のサイズ、骨張った手を見れば、明らかに男性である。けれど、同時になんとも形容しがたい女性的な雰囲気もまとっている。

 将太は一気に警戒度を引き上げた。前を歩く菱目もその人とすれ違った際、身を固くした。将太がもしパトロール中に出会ったら、まちがいなく職質をするところだった。菱目がゆるやかに速度を落とし、将太に並ぶ。

「あの人、ここに住んでるのかな?」

 菱目が小声で尋ねる。将太は答えられず、肩をすくめた。業務中ならともかく、非番に一般人へ声をかける気はない。警察手帳も、携帯していない。
 菱目もそのことは理解しているようで、特に返答は期待していなかったのか、また速度を上げて将太から離れていった。彩鳥にも同じことを聞いているようだが、彩鳥の曖昧に笑うばかりで詳しいことは知らないらしい。
 先に非常階段を上がりはじめた男の姿はすぐに見えなくなり、将太はその男が3階で足を止めたのを確認してからは、黙々と階段を上り続けた。

 なんとか5階まで上りきり、彩鳥の部屋の前に立つ頃には、背にびっしょりと汗をかいていた。エレベーターとちがい、非常階段にはエアコンの風も通らず、蒸し暑かったのだ。
 彩鳥が手慣れた様子で部屋の鍵を開ける。そして緊張した面持ちで将太のことを見た。

「キッチンの隅にホイホイを置いてきたので、かかっているといいんですけど……」

 かかっていたら、そいつを処理するだけで仕事は終わる。問題は、どこを探しても見つからなかった時だ。まだ家にいる可能性もあるし、知らない間に外へ出ていった可能性もある。見つからない場合、彩鳥はどうするつもりなのだろうか。
 将太がそんなことを考えていると、彩鳥は考えを読み取ったように弱々しく微笑んだ。

「見つからなかったら、しばらく店で寝泊まりしようと思います」

 家に泊めてくれる友達はいないのだろうか。ふとそんなことを思ったが、まさか面と向かって「友達いないんですか?」とも聞けない。友達を呼ばず、ただ店の常連である将太に虫退治を頼んできたあたり、察するべきだろう。

「菱目さんはどうします? 虫だめなら、ここで待っててもいいすけど」
「一緒に行くわ。加藤が下着泥棒をしないとも限らないし」
「俺ってそんなに信用ないすかね?」
「別に、あんただけじゃなく男はみんな信用してないだけ」

 菱目はさらりと言い放つと、彩鳥の脇をすり抜けて部屋のドアを開けた。エアコンをつけっぱなしで出てきたのか、冷風が廊下まで流れてくる。

「じゃあ、ぱぱっと見てきますね」

 将太は彩鳥にそう声をかけ、菱目の後を追うように部屋へ入っていった。
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