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6章(2)
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メルフェリーゼは葉を潰さないように、そうっと力を込めてハーブを摘み取った。小脇に抱えた籠には、まだ数枚しか入っていない。ハーブティーにするためにはもっと数が必要だ。
けれど常に背中に視線を感じるせいで、メルフェリーゼはハーブを摘むだけだというのにやけに緊張した。
「あの、アウストル様はお部屋に戻られては……」
「それはできない」
メルフェリーゼの訴えを、アウストルはすげなく却下する。
「メルが葉で手を切るかもしれない。茂みから蛇が出てきてメルに噛みつこうとするかもしれない。メルの綺麗な顔が泥で汚れてしまうのは困る。部屋に戻って、落ち着くわけがないだろう」
「お気遣い、ありがとうございます……」
メルフェリーゼは振り返って、じっと彼女を見下ろすアウストルに向かい、ぎこちない笑みを浮かべた。メルフェリーゼの作りかけの笑顔を見たアウストルは満足したように唇の端を吊り上げると、彼女の肩にかかったブロンドの髪を一房取り上げて口づける。
この頃のアウストルは、少し心配性すぎるきらいがある。常にメルフェリーゼを視界に入れ、触れていなければ落ち着かないようで、メルフェリーゼがなにをするにも、どこへ行くにもついて回っている。
これまで唯一の自由時間だったアウストルの着替えや湯浴みの時間さえ、今ではメルフェリーゼとともにしている。服を着ていると細身で気づきにくいが、アウストルの身体は脱ぐと男らしさが全面に出る。がっしりとした体躯に、隆起した筋肉。戦場で負ったのか、古い切り傷がいくつも残る身体は、怠惰を極める王族とは思えないほど軍人然としていた。
アウストルの裸体を知ってしまってからというもの、メルフェリーゼは彼と目が合っただけで頬を染め、目を逸らしたくなる。アウストルはいつもたくましい身体には似合わぬ繊細な手つきで、メルフェリーゼの世話をしていた。
「俺も一緒にやっていいか」
そう言いながらアウストルがメルフェリーゼの隣にしゃがみ込む。メルフェリーゼからひょいと籠を奪い取ると、真剣な目つきで葉の一枚一枚を吟味しはじめた。
この葉は育ちすぎている、この葉は柔らかすぎる、などとぶつぶつ言いながら、アウストルは指先を緑に染めて葉を丁寧に摘み取っている。メルフェリーゼはアウストルがあまりに真剣にやるものだから、茶葉農家のほうが向いているのではないかとすら思いはじめた。
思えば、アウストルはなにをするにも手を抜かない。メルフェリーゼがオムレツが好きだといった日の夜更け、アウストルが厨房で寝ずにオムレツ作りを練習していたことも知っている。翌日の朝食には、アウストルの性格を反映したような均整のとれたオムレツがいくつも並んでいた。
自分に厳しすぎるがゆえに、他人との距離を測りにくいところがある。それがアウストルが周囲から彫像のように完璧な人間と噂される所以なのだろう。メルフェリーゼはこれまでアウストルのことをろくに知ろうとしなかった自分を恥じた。
「メルは、ずっとあそこに住んでいたのか」
アウストルが葉から目を離さずに問う。
「どうしたんですか、急に」
「いや、俺はお前のことをほとんど知らないと思って。妻のことをすべて知りたいと思うのは、いけないことだろうか」
アウストルも、メルフェリーゼと同じことを考えていたようだ。夫婦のくせに、お互いのことをなにも知らなかった。心が近づくにつれ、相手のことを知りたいと思った。
メルフェリーゼは葉を摘む手を止めて、どこから話そうか考える。
「生まれは国境近くの山のそばでした。父は猟師をしていて、母は近くの畑を手伝っていました。毎日の食事に困らないくらいには裕福だったと思います。学校にも通わせてもらえて、読み書きはそこで習いました」
「どうりで、貧民窟に住んでいるにしては教養のありそうな娘だと思った」
アウストルが十年前を思い出すように目を細める。
「六歳の時に父が狼に襲われて、片脚を失ったんです。貯金を切り崩して生きていくのも限界で、八歳の時に家を売って貧民窟に行きました」
「そこで、あの双子に会ったのか?」
メルフェリーゼの記憶も、幼い頃に戻る。
貧民窟に来たばかりで右も左も分からなかったあの頃、暴漢に襲われようとしていたメルフェリーゼを救ったのが、双子のミハイとミライだった。ミハイは大人のようによく頭が回り、ミライは年齢にそぐわない力の持ち主だった。
「あの二人がいなければ、私は貧民窟に来た最初の年に死んでいたと思います」
「だから二人を助けるためにマーリンドに向かっていったのか」
「はい、彼らは命がけで私を助けてくれた。今度は私が、彼らを助ける番だと思ったんです」
アウストルはメルフェリーゼの話を噛みしめるように、目を閉じた。長いまつげが顔に陰影を落とす。美しい横顔を、メルフェリーゼは黙って見つめた。
庭に風が吹き抜けて、ハーブの香りが鼻をくすぐる。初夏の風は爽やかで、メルフェリーゼの着ているワンピースの裾をゆるくはためかせた。
アウストルが目を開けて、メルフェリーゼの顔を見る。
「もっとお前の話が聞きたい。中に入って、お茶の時間にしよう」
メルフェリーゼもうなずいて立ち上がる。アウストルは葉のいっぱい詰まった籠を脇に抱えると、メルフェリーゼに手を差し出した。その手を取ると、アウストルの長い指がメルフェリーゼの指を絡め取る。
ぴったりと寄り添いながら、二人は屋敷へと入っていった。
ブルゴ湖の向こうから、二つの目が見ているとも知らずに。
けれど常に背中に視線を感じるせいで、メルフェリーゼはハーブを摘むだけだというのにやけに緊張した。
「あの、アウストル様はお部屋に戻られては……」
「それはできない」
メルフェリーゼの訴えを、アウストルはすげなく却下する。
「メルが葉で手を切るかもしれない。茂みから蛇が出てきてメルに噛みつこうとするかもしれない。メルの綺麗な顔が泥で汚れてしまうのは困る。部屋に戻って、落ち着くわけがないだろう」
「お気遣い、ありがとうございます……」
メルフェリーゼは振り返って、じっと彼女を見下ろすアウストルに向かい、ぎこちない笑みを浮かべた。メルフェリーゼの作りかけの笑顔を見たアウストルは満足したように唇の端を吊り上げると、彼女の肩にかかったブロンドの髪を一房取り上げて口づける。
この頃のアウストルは、少し心配性すぎるきらいがある。常にメルフェリーゼを視界に入れ、触れていなければ落ち着かないようで、メルフェリーゼがなにをするにも、どこへ行くにもついて回っている。
これまで唯一の自由時間だったアウストルの着替えや湯浴みの時間さえ、今ではメルフェリーゼとともにしている。服を着ていると細身で気づきにくいが、アウストルの身体は脱ぐと男らしさが全面に出る。がっしりとした体躯に、隆起した筋肉。戦場で負ったのか、古い切り傷がいくつも残る身体は、怠惰を極める王族とは思えないほど軍人然としていた。
アウストルの裸体を知ってしまってからというもの、メルフェリーゼは彼と目が合っただけで頬を染め、目を逸らしたくなる。アウストルはいつもたくましい身体には似合わぬ繊細な手つきで、メルフェリーゼの世話をしていた。
「俺も一緒にやっていいか」
そう言いながらアウストルがメルフェリーゼの隣にしゃがみ込む。メルフェリーゼからひょいと籠を奪い取ると、真剣な目つきで葉の一枚一枚を吟味しはじめた。
この葉は育ちすぎている、この葉は柔らかすぎる、などとぶつぶつ言いながら、アウストルは指先を緑に染めて葉を丁寧に摘み取っている。メルフェリーゼはアウストルがあまりに真剣にやるものだから、茶葉農家のほうが向いているのではないかとすら思いはじめた。
思えば、アウストルはなにをするにも手を抜かない。メルフェリーゼがオムレツが好きだといった日の夜更け、アウストルが厨房で寝ずにオムレツ作りを練習していたことも知っている。翌日の朝食には、アウストルの性格を反映したような均整のとれたオムレツがいくつも並んでいた。
自分に厳しすぎるがゆえに、他人との距離を測りにくいところがある。それがアウストルが周囲から彫像のように完璧な人間と噂される所以なのだろう。メルフェリーゼはこれまでアウストルのことをろくに知ろうとしなかった自分を恥じた。
「メルは、ずっとあそこに住んでいたのか」
アウストルが葉から目を離さずに問う。
「どうしたんですか、急に」
「いや、俺はお前のことをほとんど知らないと思って。妻のことをすべて知りたいと思うのは、いけないことだろうか」
アウストルも、メルフェリーゼと同じことを考えていたようだ。夫婦のくせに、お互いのことをなにも知らなかった。心が近づくにつれ、相手のことを知りたいと思った。
メルフェリーゼは葉を摘む手を止めて、どこから話そうか考える。
「生まれは国境近くの山のそばでした。父は猟師をしていて、母は近くの畑を手伝っていました。毎日の食事に困らないくらいには裕福だったと思います。学校にも通わせてもらえて、読み書きはそこで習いました」
「どうりで、貧民窟に住んでいるにしては教養のありそうな娘だと思った」
アウストルが十年前を思い出すように目を細める。
「六歳の時に父が狼に襲われて、片脚を失ったんです。貯金を切り崩して生きていくのも限界で、八歳の時に家を売って貧民窟に行きました」
「そこで、あの双子に会ったのか?」
メルフェリーゼの記憶も、幼い頃に戻る。
貧民窟に来たばかりで右も左も分からなかったあの頃、暴漢に襲われようとしていたメルフェリーゼを救ったのが、双子のミハイとミライだった。ミハイは大人のようによく頭が回り、ミライは年齢にそぐわない力の持ち主だった。
「あの二人がいなければ、私は貧民窟に来た最初の年に死んでいたと思います」
「だから二人を助けるためにマーリンドに向かっていったのか」
「はい、彼らは命がけで私を助けてくれた。今度は私が、彼らを助ける番だと思ったんです」
アウストルはメルフェリーゼの話を噛みしめるように、目を閉じた。長いまつげが顔に陰影を落とす。美しい横顔を、メルフェリーゼは黙って見つめた。
庭に風が吹き抜けて、ハーブの香りが鼻をくすぐる。初夏の風は爽やかで、メルフェリーゼの着ているワンピースの裾をゆるくはためかせた。
アウストルが目を開けて、メルフェリーゼの顔を見る。
「もっとお前の話が聞きたい。中に入って、お茶の時間にしよう」
メルフェリーゼもうなずいて立ち上がる。アウストルは葉のいっぱい詰まった籠を脇に抱えると、メルフェリーゼに手を差し出した。その手を取ると、アウストルの長い指がメルフェリーゼの指を絡め取る。
ぴったりと寄り添いながら、二人は屋敷へと入っていった。
ブルゴ湖の向こうから、二つの目が見ているとも知らずに。
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