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3章(5)
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ユルハ王国とツリシャ王国を隔てる山脈の麓に、その館は建っていた。
どっしりとしたレンガ造りの館を訪ねる人物は、そう多くはない。冬になれば山脈一帯が雪に閉ざされるため、なおさら人々の足は遠のく。こんな辺鄙な場所に建つ館を訪ねる者は、たいていは館の主の客である。
ミハイはベッドの中で猫のように丸まっていた身体をうんと伸ばし、裸足で床に降り立った。部屋の中には昨日、調合したハーブ類の甘くすっきりとした香りが漂っている。
黒髪に黄金のような色の瞳を持つミハイは現在、十六歳。職業は毒師である。
ミハイの手にかかれば数多の材料はたちまち毒へと変化する。なんの変哲もない材料でも、組み合わせによっては毒にも薬にもなるのだ。
どんな依頼も断らず、その腕もたしかなミハイは、裏社会の英雄である。その分、命を狙われることもあるため、この館の所在は限られた人間しか知らない。依頼人の多くは、ミハイが懇意にしている情報屋兼用心棒を通じて彼に依頼をすることになる。彼がミハイと外界を繋ぐ窓口だった。
階下で扉がノックされる音が響いている。いつもならすぐに用心棒が飛んでいって客の顔を確認するのに、今日はやけに時間がかかっているようだ。
やがてノックされる音は消え、用心棒のボソボソとした声が聞こえてくる。なにを話しているかまでは聞き取れない。
ミハイは好奇心から階段を駆け下り、用心棒の大きな背中――双子の兄に声をかけた。
「どうした、ミライ。客じゃないのか?」
ミライと呼ばれた男が振り向く。黒髪に黄金のような色の瞳はミハイそっくりだが、無骨な顔つきも鍛え上げられた長身も、ミハイとは似ても似つかない。彼らが双子であることに気づく人間は、ごく一部だろう。
ミライは眉を寄せて、首を振る。
「客だ……たぶん」
「たぶん?」
ミハイは俄然、興味を引かれてミライを押しのけ、扉を開けた。ひんやりとした冬の風が室内に吹き込む。
そこに立つ人物を見て、ミハイはうんと首を傾げた。
「お前みたいなガキが来るところじゃないぞ?」
ミハイにガキ、と呼ばれた少女の肩がぴくりと動く。彼をぎろっと睨みつけた目は存外に強く、ミハイは彼女の評価を改めるべきか思案した。
「ガキではありません! わたしはもう十歳です!」
ミハイを睨みつけ、頬を膨らませる少女はどう見ても毒を求めてやってくる客には見えない。それに、十歳ならミハイにとってはまだまだガキの範疇だ。
身なりはそれほど悪くない。肌や髪にも荒れは見られず、食べるに困るような家の者ではなさそうだ。
ミハイが黙っているのを見て、少女はごそごそと持ち物を漁ると、一通の封書を取り出した。
「これが主様から預かったものです! わたしは主様の遣いでここまで来ました!」
少女は得意げに、ミハイの手に封書を押しつける。まだ親元を離れることもできなさそうなちびっ子を、こんな辺鄙な場所まで遣いに出すなんてどうかしている。ミハイはそう思いながら封書を裏返し、ぴたりと動きを止めた。
「お前、ユルハ城の遣いだろ?」
「なっ……ち、違います! 絶対違います!」
「というか、お前の主様は馬鹿だぞ? お前には絶対身元を喋るなって口止めしたかもしんないけど」
「馬鹿とはなんですか!」
ミハイは騒ぎ立てようとする少女に、封書の裏を見せる。少女はなにを見ればよいものか、分からずにおろおろするだけだ。ミハイの病的な細い指が封蝋を指す。
「分かる? これ、王族が使う 印璽なの。ユルハ城に住んでる奴しか使えない印なんだよ」
少女の目に戸惑いの光が宿る。どう答えるべきか、迷っているようだ。
「わ、わたしの主様は馬鹿ではありません……」
小さく絞り出すように呟くと、少女はうつむいてもじもじと手を合わせた。
ため息しか出ない。後ろを振り向くと、鉄面皮のミライでさえ、困惑した表情で二人のやりとりを眺めている。
こんなちびっこい女の子を遣いに出して、王族はなにをやってるんだ?
しかし、余計な詮索はミハイの美学に反する。依頼人のことは深く追及しない。名前を明かしたくないならば偽名で良い、ミハイの作ったものをどう使おうが関係ない。
必要なのは、対象の情報と効用になにを求めるかだけだ。
ミハイは唇の端を吊り上げると、扉を開け放った。
「まあ、とりあえず入れよ。話は中で聞くから」
「いえ、あの……主様はその封書に必要なことはすべて書かれているから、物だけもらったらすぐに帰って来いと」
「いや、そんなすぐできるもんでもないし。それに外で待ってたら死ぬぞ?」
ミハイは半ば脅しのようにそう言ったが、少女には効果てきめんだったようだ。迷うように小さな足を踏み出し、館へと誘われる。
「わたしは、寒くても死んだりしません」
少女の虚勢に、ミハイも自然と笑みがこぼれる。
「寒さじゃなくて狼。ここ山に近いから見つかったら食われる」
少女はミハイの言葉と、のっぺりとそこに立っているミライの巨体の両方に驚いたようだ。ぶるりと身を震わせて、ミハイの顔色を窺うように上目遣いで見つめてくる。
「そういや、名前教えてくれ。誰にも漏らさないから」
毒師は口が堅い。口の堅さが依頼の多さに直結するから。
少女は迷うような素振りを見せてから、寒さで色を失った唇を開いた。
「……ハナっていうの」
ミハイはにんまりと笑って、ハナの手を取る。
「ようこそ、ハナ。毒師の館ははじめてか?」
どっしりとしたレンガ造りの館を訪ねる人物は、そう多くはない。冬になれば山脈一帯が雪に閉ざされるため、なおさら人々の足は遠のく。こんな辺鄙な場所に建つ館を訪ねる者は、たいていは館の主の客である。
ミハイはベッドの中で猫のように丸まっていた身体をうんと伸ばし、裸足で床に降り立った。部屋の中には昨日、調合したハーブ類の甘くすっきりとした香りが漂っている。
黒髪に黄金のような色の瞳を持つミハイは現在、十六歳。職業は毒師である。
ミハイの手にかかれば数多の材料はたちまち毒へと変化する。なんの変哲もない材料でも、組み合わせによっては毒にも薬にもなるのだ。
どんな依頼も断らず、その腕もたしかなミハイは、裏社会の英雄である。その分、命を狙われることもあるため、この館の所在は限られた人間しか知らない。依頼人の多くは、ミハイが懇意にしている情報屋兼用心棒を通じて彼に依頼をすることになる。彼がミハイと外界を繋ぐ窓口だった。
階下で扉がノックされる音が響いている。いつもならすぐに用心棒が飛んでいって客の顔を確認するのに、今日はやけに時間がかかっているようだ。
やがてノックされる音は消え、用心棒のボソボソとした声が聞こえてくる。なにを話しているかまでは聞き取れない。
ミハイは好奇心から階段を駆け下り、用心棒の大きな背中――双子の兄に声をかけた。
「どうした、ミライ。客じゃないのか?」
ミライと呼ばれた男が振り向く。黒髪に黄金のような色の瞳はミハイそっくりだが、無骨な顔つきも鍛え上げられた長身も、ミハイとは似ても似つかない。彼らが双子であることに気づく人間は、ごく一部だろう。
ミライは眉を寄せて、首を振る。
「客だ……たぶん」
「たぶん?」
ミハイは俄然、興味を引かれてミライを押しのけ、扉を開けた。ひんやりとした冬の風が室内に吹き込む。
そこに立つ人物を見て、ミハイはうんと首を傾げた。
「お前みたいなガキが来るところじゃないぞ?」
ミハイにガキ、と呼ばれた少女の肩がぴくりと動く。彼をぎろっと睨みつけた目は存外に強く、ミハイは彼女の評価を改めるべきか思案した。
「ガキではありません! わたしはもう十歳です!」
ミハイを睨みつけ、頬を膨らませる少女はどう見ても毒を求めてやってくる客には見えない。それに、十歳ならミハイにとってはまだまだガキの範疇だ。
身なりはそれほど悪くない。肌や髪にも荒れは見られず、食べるに困るような家の者ではなさそうだ。
ミハイが黙っているのを見て、少女はごそごそと持ち物を漁ると、一通の封書を取り出した。
「これが主様から預かったものです! わたしは主様の遣いでここまで来ました!」
少女は得意げに、ミハイの手に封書を押しつける。まだ親元を離れることもできなさそうなちびっ子を、こんな辺鄙な場所まで遣いに出すなんてどうかしている。ミハイはそう思いながら封書を裏返し、ぴたりと動きを止めた。
「お前、ユルハ城の遣いだろ?」
「なっ……ち、違います! 絶対違います!」
「というか、お前の主様は馬鹿だぞ? お前には絶対身元を喋るなって口止めしたかもしんないけど」
「馬鹿とはなんですか!」
ミハイは騒ぎ立てようとする少女に、封書の裏を見せる。少女はなにを見ればよいものか、分からずにおろおろするだけだ。ミハイの病的な細い指が封蝋を指す。
「分かる? これ、王族が使う 印璽なの。ユルハ城に住んでる奴しか使えない印なんだよ」
少女の目に戸惑いの光が宿る。どう答えるべきか、迷っているようだ。
「わ、わたしの主様は馬鹿ではありません……」
小さく絞り出すように呟くと、少女はうつむいてもじもじと手を合わせた。
ため息しか出ない。後ろを振り向くと、鉄面皮のミライでさえ、困惑した表情で二人のやりとりを眺めている。
こんなちびっこい女の子を遣いに出して、王族はなにをやってるんだ?
しかし、余計な詮索はミハイの美学に反する。依頼人のことは深く追及しない。名前を明かしたくないならば偽名で良い、ミハイの作ったものをどう使おうが関係ない。
必要なのは、対象の情報と効用になにを求めるかだけだ。
ミハイは唇の端を吊り上げると、扉を開け放った。
「まあ、とりあえず入れよ。話は中で聞くから」
「いえ、あの……主様はその封書に必要なことはすべて書かれているから、物だけもらったらすぐに帰って来いと」
「いや、そんなすぐできるもんでもないし。それに外で待ってたら死ぬぞ?」
ミハイは半ば脅しのようにそう言ったが、少女には効果てきめんだったようだ。迷うように小さな足を踏み出し、館へと誘われる。
「わたしは、寒くても死んだりしません」
少女の虚勢に、ミハイも自然と笑みがこぼれる。
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少女はミハイの言葉と、のっぺりとそこに立っているミライの巨体の両方に驚いたようだ。ぶるりと身を震わせて、ミハイの顔色を窺うように上目遣いで見つめてくる。
「そういや、名前教えてくれ。誰にも漏らさないから」
毒師は口が堅い。口の堅さが依頼の多さに直結するから。
少女は迷うような素振りを見せてから、寒さで色を失った唇を開いた。
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