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3章(1)
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寒さも和らぎ、ユルハ王国にも春が訪れようとしていた。
冬の間、メルフェリーゼは何度かカイリエンが療養している離れを訪れようとしたが、そんな時に限ってマーリンドが声をかけてくるのである。
なにも相手がメルフェリーゼではなくてもいいのではと思うような些細な話から、茶会の誘い、さらにはメルフェリーゼのために新しいドレスを仕立てようという話までしてくるものだから、メルフェリーゼはマーリンドの考えていることがよく分からなかった。
元々、メルフェリーゼは特にマーリンドと親しかったわけではない。それどころか、アウストルとマーリンドの対立を間近で見ていたせいか、若干の苦手意識すらあった。マーリンドも今まではほとんどメルフェリーゼに話しかけてこなかったというのに、最近の変わりようときたら背筋が寒くなるほどだ。
アウストルとは似ても似つかないだらしない笑みを浮かべたその顔の裏になにが隠されているのか、メルフェリーゼは考えを巡らせたものの、答えにたどりつくことはできなかった。
この日、メルフェリーゼは意を決してアウストルの部屋の前に立っていた。
マーリンドに言われたのだ、歩み寄りが足りないのではないか、と。メルフェリーゼが一方的に大切にされていないと思い込み、嘆くだけで、アウストル本人はメルフェリーゼが苦しんでいることに気づいていないのではないか、とマーリンドは言っていた。
たしかに、メルフェリーゼは面と向かってアウストルに結婚したことや世継ぎのことについて尋ねたことがない。なぜアウストルは自分に冷たく当たるのか、なぜ結婚して二年も経つのに世継ぎを望まないのか。
対話を避けているのは、メルフェリーゼも同じだったのだ。アウストルに自分の気持ちを伝えなければ、机上に問題があがることすらない。
正直に自分の気持ちを話し、アウストルに二人の間に横たわる問題を自覚してもらうのだ。
大事な話があるから、と部屋で会う約束は取りつけている。後は、メルフェリーゼが目の前の扉を叩き、自分の夫と向き合うだけだ。
扉の両脇に立つ護衛の兵士にじっと見つめられ、なかなか落ち着かない。メルフェリーゼは大きく深呼吸をしてから、扉を叩いた。
少しの間があってから、部屋の中にいた兵士が扉を開ける。
アウストルは入り口に背を向け、立ったまま窓の外を眺めていた。後ろで手を組み、直立の姿勢を取っているアウストルの表情は変わらない。けれど、楽しそうでないことはたしかだ。メルフェリーゼに向けた背中からピリピリと殺気のようなものが立っている気がして、膝が震えそうになる。
メルフェリーゼはドレスの裾を持ち上げて礼をしたが、アウストルは振り返りもしない。
「話とは、なんだ」
刺々しさはないが、それでも厳しい声がメルフェリーゼに問う。
メルフェリーゼは勇気を出すようにぎゅっと手を握りしめ、頭の中で反芻した言葉を切り出す。
「私たちの間に子どもが産まれないことを、憂慮している方々がいることはアウストル様もご存知のことと思います。マーリンド様とロワディナ様の間にも、王位を継承できる男児は産まれておりません」
「それで?」
アウストルがメルフェリーゼに背を向けたまま、続きを促す。
「私は……アウストル様の気に入るような人間ではないかもしれません。アウストル様が私と結婚してくださったのも、愛などではなく国にとって、王族にとって最良の選択をしたまでだと存じております」
ぴくりとアウストルの肩が揺れる。
メルフェリーゼはアウストルの背中を見つめたまま、続ける。
「どうか、世継ぎのことを、私との関係を、考えていただきたいのです。貧民窟にいた私と結婚していただいたことは、身に余るような幸せです。しかし……」
メルフェリーゼは泣きたくなる気持ちをぐっとこらえて、手を握り直す。どういうわけか、脳裏にはカイリエンの蜂蜜色の瞳が浮かんでいた。
「もう、耐えられません……この二年間、一度もアウストル様に触れられず、初夜も迎えることもなく、夫婦の会話もない。周りから世継ぎだけを望まれ、それも無理と分かると夫の気も引けない駄目な女だと陰口を叩かれる。私は、ずっと、ずっと二年間……」
すべてを吐き出してしまいたかった。アウストルのせいだとは言いたくない。けれど、メルフェリーゼに降りかかったすべての元凶は、アウストルとの結婚だ。
多くは望まない、心の底から愛されたいとも思わない。でも、それでも、人並みの、周りから見て問題ないくらいには、妻としての扱いをして欲しい。世継ぎさえ、男児さえ産まれてしまえば、周りは二人の仲をとやかく言うことはなくなるだろう。
メルフェリーゼも王位継承者の母という立場になり、後ろ指を指されることはなくなるはずだ。
メルフェリーゼは腰を折り、深い礼をする。
「……このままでは、私だけでなくアウストル様まで、良くない噂をされるようになってしまいます。どうか、一度だけでも――」
「話は――」
メルフェリーゼの言葉をアウストルが遮る。メルフェリーゼは顔を上げて、アウストルを見た。
アウストルは振り返り、翡翠色の目をメルフェリーゼへ向けている。ぞっとするほど冷たい表情に、メルフェリーゼは気が遠くなるような気がした。
「話はそれだけか?」
淡々としたアウストルの問い。喉が張りついてしまったかのように、声は出ず、掠れた呼吸音だけが響く。目頭が熱く、かろうじて立っているだけでメルフェリーゼはほとんど座り込みたいような気持ちになっている。
彼には、なにも響かない。なにを言っても、アウストルの心を動かすことはできない。
そのことを、メルフェリーゼは今、はっきりと悟った。
「お前がなんと言おうと、俺はお前に触れる気はない。貴族の馬鹿女よりは、貧民の出で俺に逆らえないお前のほうがマシだと思って結婚したまでだ。世継ぎも、望まない。お前が産まなくても、そのうちロワディナが勝手に産むからな」
アウストルの言っている意味が分からない。言葉として捉えられず、ただ音としてメルフェリーゼの耳に流れ込んでいるだけだ。
ひんやりとした翡翠色の目が、黙って涙を流すメルフェリーゼを一瞥する。
「話が済んだのなら、出ていけ。そこに突っ立っていられても邪魔なだけだ」
追い立てられるように、アウストルの部屋から出る。護衛の兵士が見ているのを構わず、メルフェリーゼはその場にくずおれた。
冬の間、メルフェリーゼは何度かカイリエンが療養している離れを訪れようとしたが、そんな時に限ってマーリンドが声をかけてくるのである。
なにも相手がメルフェリーゼではなくてもいいのではと思うような些細な話から、茶会の誘い、さらにはメルフェリーゼのために新しいドレスを仕立てようという話までしてくるものだから、メルフェリーゼはマーリンドの考えていることがよく分からなかった。
元々、メルフェリーゼは特にマーリンドと親しかったわけではない。それどころか、アウストルとマーリンドの対立を間近で見ていたせいか、若干の苦手意識すらあった。マーリンドも今まではほとんどメルフェリーゼに話しかけてこなかったというのに、最近の変わりようときたら背筋が寒くなるほどだ。
アウストルとは似ても似つかないだらしない笑みを浮かべたその顔の裏になにが隠されているのか、メルフェリーゼは考えを巡らせたものの、答えにたどりつくことはできなかった。
この日、メルフェリーゼは意を決してアウストルの部屋の前に立っていた。
マーリンドに言われたのだ、歩み寄りが足りないのではないか、と。メルフェリーゼが一方的に大切にされていないと思い込み、嘆くだけで、アウストル本人はメルフェリーゼが苦しんでいることに気づいていないのではないか、とマーリンドは言っていた。
たしかに、メルフェリーゼは面と向かってアウストルに結婚したことや世継ぎのことについて尋ねたことがない。なぜアウストルは自分に冷たく当たるのか、なぜ結婚して二年も経つのに世継ぎを望まないのか。
対話を避けているのは、メルフェリーゼも同じだったのだ。アウストルに自分の気持ちを伝えなければ、机上に問題があがることすらない。
正直に自分の気持ちを話し、アウストルに二人の間に横たわる問題を自覚してもらうのだ。
大事な話があるから、と部屋で会う約束は取りつけている。後は、メルフェリーゼが目の前の扉を叩き、自分の夫と向き合うだけだ。
扉の両脇に立つ護衛の兵士にじっと見つめられ、なかなか落ち着かない。メルフェリーゼは大きく深呼吸をしてから、扉を叩いた。
少しの間があってから、部屋の中にいた兵士が扉を開ける。
アウストルは入り口に背を向け、立ったまま窓の外を眺めていた。後ろで手を組み、直立の姿勢を取っているアウストルの表情は変わらない。けれど、楽しそうでないことはたしかだ。メルフェリーゼに向けた背中からピリピリと殺気のようなものが立っている気がして、膝が震えそうになる。
メルフェリーゼはドレスの裾を持ち上げて礼をしたが、アウストルは振り返りもしない。
「話とは、なんだ」
刺々しさはないが、それでも厳しい声がメルフェリーゼに問う。
メルフェリーゼは勇気を出すようにぎゅっと手を握りしめ、頭の中で反芻した言葉を切り出す。
「私たちの間に子どもが産まれないことを、憂慮している方々がいることはアウストル様もご存知のことと思います。マーリンド様とロワディナ様の間にも、王位を継承できる男児は産まれておりません」
「それで?」
アウストルがメルフェリーゼに背を向けたまま、続きを促す。
「私は……アウストル様の気に入るような人間ではないかもしれません。アウストル様が私と結婚してくださったのも、愛などではなく国にとって、王族にとって最良の選択をしたまでだと存じております」
ぴくりとアウストルの肩が揺れる。
メルフェリーゼはアウストルの背中を見つめたまま、続ける。
「どうか、世継ぎのことを、私との関係を、考えていただきたいのです。貧民窟にいた私と結婚していただいたことは、身に余るような幸せです。しかし……」
メルフェリーゼは泣きたくなる気持ちをぐっとこらえて、手を握り直す。どういうわけか、脳裏にはカイリエンの蜂蜜色の瞳が浮かんでいた。
「もう、耐えられません……この二年間、一度もアウストル様に触れられず、初夜も迎えることもなく、夫婦の会話もない。周りから世継ぎだけを望まれ、それも無理と分かると夫の気も引けない駄目な女だと陰口を叩かれる。私は、ずっと、ずっと二年間……」
すべてを吐き出してしまいたかった。アウストルのせいだとは言いたくない。けれど、メルフェリーゼに降りかかったすべての元凶は、アウストルとの結婚だ。
多くは望まない、心の底から愛されたいとも思わない。でも、それでも、人並みの、周りから見て問題ないくらいには、妻としての扱いをして欲しい。世継ぎさえ、男児さえ産まれてしまえば、周りは二人の仲をとやかく言うことはなくなるだろう。
メルフェリーゼも王位継承者の母という立場になり、後ろ指を指されることはなくなるはずだ。
メルフェリーゼは腰を折り、深い礼をする。
「……このままでは、私だけでなくアウストル様まで、良くない噂をされるようになってしまいます。どうか、一度だけでも――」
「話は――」
メルフェリーゼの言葉をアウストルが遮る。メルフェリーゼは顔を上げて、アウストルを見た。
アウストルは振り返り、翡翠色の目をメルフェリーゼへ向けている。ぞっとするほど冷たい表情に、メルフェリーゼは気が遠くなるような気がした。
「話はそれだけか?」
淡々としたアウストルの問い。喉が張りついてしまったかのように、声は出ず、掠れた呼吸音だけが響く。目頭が熱く、かろうじて立っているだけでメルフェリーゼはほとんど座り込みたいような気持ちになっている。
彼には、なにも響かない。なにを言っても、アウストルの心を動かすことはできない。
そのことを、メルフェリーゼは今、はっきりと悟った。
「お前がなんと言おうと、俺はお前に触れる気はない。貴族の馬鹿女よりは、貧民の出で俺に逆らえないお前のほうがマシだと思って結婚したまでだ。世継ぎも、望まない。お前が産まなくても、そのうちロワディナが勝手に産むからな」
アウストルの言っている意味が分からない。言葉として捉えられず、ただ音としてメルフェリーゼの耳に流れ込んでいるだけだ。
ひんやりとした翡翠色の目が、黙って涙を流すメルフェリーゼを一瞥する。
「話が済んだのなら、出ていけ。そこに突っ立っていられても邪魔なだけだ」
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