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2章(2)

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 ユルハ王国、第二王子アウストルが率いるユルハ王国軍の帰還式は盛大に執り行われた。
 城下では帰還式の騒ぎに乗じて屋台がいくつも並び、冬だというのに冷たい麦酒が飛ぶように売れる。ほろ酔いで騒ぐ大人、珍しい屋台に目を輝かせる子ども。店の店主たちも、この先の実入りを想像して、生唾を飲み込んでいる。
 遠征から帰ってきた王国軍は、城下の店で三日三晩飲めや歌えの大騒ぎをするのが習わしになっている。自分の強さ、そして金払いの良さをまざまざと見せつけ、国民からより一層の信頼と尊敬を得る。

 その騒ぎは、なにも城下だけのものではない。城内も、遠征の成功とアウストルはじめ王国軍の指揮官の帰還を祝い、盛大な晩餐会や夜会が開かれる。
 今回の東方遠征の立役者であるアウストルは、どこへ行っても人々の中心にいた。あいかわらずの鉄面皮ではあるが、時にはうっすらと口元をゆるませ、彼なりにこの祝いの場を楽しもうとしている様子が窺える。

 メルフェリーゼは、遠巻きにその様子を眺めているだけだ。本来であればアウストルの後ろに控え、妻として一緒に要人たちと挨拶を交わさねばならないが、アウストルは「お前は来なくていい」の一言で、メルフェリーゼを遠ざけた。
 夫に必要とされていない。その事実がメルフェリーゼの心を抉る。
 フロアを照らすきらびやかな明かりも、貴族令嬢の着込んでいる華やかなドレスも、メルフェリーゼにはすべてが滲んで見える。

 アウストルに面と向かって聞きたかった。メルフェリーゼのことなど必要としていないのに、なぜ嫁に迎えたのか。いらないのにどうして、解放してくれないのか。

 ぽたりと落ちた涙が、手に持っていたシャンパングラスの縁を濡らす。
 メルフェリーゼは慌てて目元を拭ったが、涙は次から次へとこぼれ落ち、頬を濡らした。
 人に見られないようにうつむき、そっとフロアの隅に移動する。また途中で抜け出したら、後でアウストルになんと言われるか分かったものではない。自分の心が落ち着くまで、メルフェリーゼはフロアの隅でやり過ごすはずだった。

 雑踏の中で、メルフェリーゼの耳がコツコツとした靴音を捉える。目の端に映ったコートの刺繍を見て、メルフェリーゼは深くうなだれた。

「なぜ、泣いている」

 アウストルの刺すような声が頭上から振ってくる。本当のことは言えない。言ったところで、アウストルがメルフェリーゼの苦しみを分かってくれるとは思わない。メルフェリーゼはますます縮こまって、グラスを持つ手に力を込める。

「泣くほど夜会がつまらなかったか?」

 アウストルの非難めいた嘲笑的な声に、メルフェリーゼの肩が震える。その翡翠色の目は、メルフェリーゼをくまなく観察しているだろう。夫からドレスのひとつもプレゼントされず、他の男から贈られたドレスで夜会に出る妻のことを、アウストルはなんの感慨もこもらない厳しい目で、じっと見ているはずだ。
 ふうっと、息を吐く音が聞こえる。

「まあ、いい。泣くくらいなら部屋に戻っていろ。そんな顔でうろつかれても困る」

 コートの裾が翻り、コツコツと足音が去っていく。
 メルフェリーゼは耐えきれず、手近な侍女にシャンパングラスを押しつけるとフロアを飛び出した。



◇ ◇ ◇



 メルフェリーゼは重たいドレスの裾を持ち上げ、城内を走った。途中、驚いた侍女がメルフェリーゼを呼び止めたような気がしたが、どうでもよかった。
 走るごとに酔いが回り、楽しいような泣きたいような、なんとも形容しがたい感情が体内を暴れ回る。
 メルフェリーゼは自室の隣の扉を前に、立ち止まった。もしかしたら、カイリエンはもう寝ているかもしれない。夜会は遅くまで行われており、今はもう深夜と呼ぶべき時間だ。廊下を照らすランプの数も少なく、遠くから夜会の喧騒が響く。
 一目、彼の姿を見るだけでいい。会話はできなくてもいい。メルフェリーゼはノックもせずに、そっと扉を開けた――。

 入り口に背を向けて、ベッドにカイリエンが腰かけていた。メルフェリーゼは急に恥ずかしさで息も切れ切れになる。まさか、起きているとは思わなかったのだ。寝顔を見て、満足して帰ろうと思っていたのに。
 室内にランプの明かりはなく、窓から差し込む月明かりがベッドシーツの白さを際立たせている。
 振り向いたカイリエンの顔を見て、メルフェリーゼは目を見張った。

「メル……」

 カイリエンも驚いている。はじめてその目で見る、メルフェリーゼの姿に。

 メルフェリーゼはドレスの裾を持ち上げ、よたよたとカイリエンに近づく。カイリエンも立ち上がり、メルフェリーゼを歓迎するかのように両手を広げた。
 今だけは、なにもかも忘れたい。アウストルのことも、自分のことも、この国のことも、王子妃という立場の前に広がる未来のことも。
 倒れ込むようにして駆け寄ったメルフェリーゼの身体を、カイリエンの腕がきつく抱きとめる。カイリエンの肌から立ち上る石鹸の香りを胸いっぱいに吸い込み、メルフェリーゼはそっと顔を上げた。

 左目にはむごたらしい傷跡が残り、まぶたがくっついてしまったように固く閉ざされている。
 無傷の右目は、月明かりを受けて蜂蜜色に輝いていた。目つきは鋭いが、不思議と険しい印象は与えない。目をふちどるまつげは長く、その顔に陰を落として美しい憂いを残していた。
 とろりとした蜂蜜色の瞳に見つめられ、メルフェリーゼの心臓が暴れ出す。

「俺の想像通り、メルはとても美しい人だ」

 熱っぽく囁かれて、腰に回された腕を意識してしまう。知らずしらずのうちにメルフェリーゼの体温がぐっと上がる。
 カイリエンの手がメルフェリーゼのブロンドの髪を一房すくい上げ、愛おしげに唇を寄せる。

「髪も……こんなに綺麗なブロンドだったんだな」

 メルフェリーゼはたまらず、視線を逸らしてうつむいた。これ以上、彼を見ていてはいけない。戻れないところまで来てしまう。
 けれど、カイリエンはメルフェリーゼを解放するどころか、ますます抱く腕に力を込めた。

「夜会は楽しかった?」

 いじわるな質問だと思った。メルフェリーゼが、ひとつしか答えを持ち合わせていないことを、カイリエンはとっくに知っているのだ。
 カイリエンの腕に抱かれたまま、ふるふると首を振る。

「楽しかったら、カイのところへは来ていないわ」

 顔を上げれば、カイリエンの射抜くような視線とかち合う。

「メルフェリーゼ」

 低く、じっとりとした質感を持った声がメルフェリーゼの名前を呼ぶ。
 もう、後戻りはできない。うるんだ目で、カイリエンを見つめる。


「俺は、あなたを抱きたい」
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