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第9話
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その週の金曜日。誠はまたしても、ホストクラブの前に立っていた。五日も会社で顔を合わせたというのに、周と話せたのは、業務のことだけ。天気の話すら受け付けない徹底ぶりに、誠も腹をくくった。周が自分と話さないというのなら、天音に話に行くしかない。客として店まで押しかければ、嫌でも話してくれるだろう。
残業を早めに切り上げ、開店と同時に入店したかいがあり、今回は天音を指名することに成功した。受付にいた青年によれば、昨日大きなイベントが終わったばかりで、今日の来店客は少なくなる見込みだという。皆、昨日のイベントで盛大に金を使い、今日は休みということだ。
青年の言葉通り、週末だというのに店内の客はまばらだった。出勤しているホストたちもどこか暇そうで、フロアの中を意味もなくうろついては一人、天音が来るのを待っている誠に話しかけてくれる。
「こんにちは――じゃなくて、こんばんは。村谷さん」
入店してから十五分ほどで、天音は誠の卓に姿を見せた。昼間の憂鬱は吹き飛び、黒のワイシャツとスーツで身を固めた天音はシックな装いには似合わない、へにゃりとした笑みを浮かべている。誠はその笑顔を見た瞬間、猛烈に天音に対して――周に対して自分が腹を立てていることに気づいた。
けれど、怒りを全面に出すことはできない。自分はなにをそんなに怒っているのか、いまいち理由がわからなかったからだ。それに、こんなところで怒り出すなど大人のすることじゃない。この場所での誠は、あくまで客だ。彼の上司ではないのだから。
「お金、大丈夫ですか? 初回じゃないから指名とサービス料だけでもけっこうするでしょ」
天音が誠の隣に腰を下ろしながら、声をひそめて尋ねてくる。たしかに初回こそ三千円程度で済んだが、二回目の来店からは通常料金を取られている。あまり酒を頼むほうではないが、一万円は確実に超える。高給取りとは呼べない誠にとって、痛い出費であることはたしかだ。
しかし誠は自身の懐事情を探られないように鷹揚にうなずいた。
「別に、どうってことない」
ホストクラブへ通う金もないとは思われたくなかった。虚しいプライドで、見栄を張っているだけだ。わかっている。
天音は満足げにうなずくと、テーブルに置かれていたグラスを手に取った。
「じゃあ……村谷さんのお財布に乾杯」
なんだそれ、と思いながらも誠はグラスを合わせた。ガラスのぶつかり合う澄んだ音は、たちまちフロアの狂騒にかき消されてしまう。天音はグラスの中身がなにかもろくに確かめないまま、一気に呷る。
会社にいる時とは違って、天音はよく喋った。誠は心配になるほどのペースで酒を飲み、誠の言葉少なな話にさも楽しそうに聞き入り、店で出会った不思議な客や、同僚のホストのことを面白おかしく話してくれる。天音と話しているうちに、誠は自分の心がだんだんと解れていくのを感じた。
だが、最初に天音を見た時の苛立ちはいまだ心の奥底でくすぶっている。なにかきっかけがあった瞬間、それは耐えきれずに爆発してしまいそうなほどだった。
店を去るタイミングを逃し、ずるずると閉店間際まで居続けてしまった。そろそろラストオーダーの時間だ。
黒と白、そして差し色の赤。洗練された店内で、天音の美しい横顔がきらびやかな照明に照らされている。
やっぱり信じられなかった。これがあの、いつもなにを考えているのかよくわからない陰鬱な顔をした和泉周と同一人物だって?
天音はこちらを向くと、嘲るような笑みを見せた。
「どうします? 先輩」
忘れかけていた怒りが、ふっと腹の底に戻ってくる。なにが先輩だよ。会社では一度もそんなふうに呼んだことなどなかったくせに。会社では、俺のことを避けているくせに。
アルコールで上気した頬をゆるませて、天音が手を伸ばす。肩に置かれた手をなぜか振り払うこともできず、誠はまっすぐに彼を見つめ返した。
「先輩がもうすこし頑張ってくれたら、今夜のラストソングは僕のものになるんですけど」
こんなふうに煽られて、女は彼に金を使うのだろう。首を振り、肩に置かれたひんやりとした手を振り払う。
「お前に貢ぐつもりはない」
「僕に会いにここまで来たのに?」
くつくつと、喉の奥で笑う声がした。
図星だ。誠は天音と――周と会話をするためにここまでやってきた。酔いが覚め、幾分かひんやりしてきた誠の顔を天音がじっと見つめる。すべてを飲み込んでしまいそうなほど、真っ黒な瞳。漆黒の闇の中に、間抜けな自分の顔が映り込んでいる。
「先輩が好きなのはどっちですか? ホストとして生きる天音? それとも……冴えない営業社員の和泉周?」
誠は怒りを忘れ、呆けてしまった。
「俺が、お前のことを好きだって?」
天音の瞳にいたずらっ子のような好奇心にも似た光がきらめく。主人の命令を待つ番犬のように、忠実に誠の言葉を待っている。
「まさか。俺がお前のことを好きなんてことは――」
「会社では話せないから、わざわざ店にまで来たんでしょ? 僕と話したくて、僕に会いたくて。ちがいますか?」
「……っ」
フロアの喧騒が遠く聞こえる。隣にいる天音から香ってくる、甘い石鹸のような香りにやけに心が乱される。
そんなはずはない。自分に限って、同性を好きになるなんて。天音のことを、和泉周のことを好いているだなんて。
膝の上に置かれた誠の手に、するりと熱い手のひらが絡みついた。天音が酒臭い息を吐いて、誠に囁く。
「先輩なら特別に、シャンパン一本入れてくれたらアフターしますよ?」
残業を早めに切り上げ、開店と同時に入店したかいがあり、今回は天音を指名することに成功した。受付にいた青年によれば、昨日大きなイベントが終わったばかりで、今日の来店客は少なくなる見込みだという。皆、昨日のイベントで盛大に金を使い、今日は休みということだ。
青年の言葉通り、週末だというのに店内の客はまばらだった。出勤しているホストたちもどこか暇そうで、フロアの中を意味もなくうろついては一人、天音が来るのを待っている誠に話しかけてくれる。
「こんにちは――じゃなくて、こんばんは。村谷さん」
入店してから十五分ほどで、天音は誠の卓に姿を見せた。昼間の憂鬱は吹き飛び、黒のワイシャツとスーツで身を固めた天音はシックな装いには似合わない、へにゃりとした笑みを浮かべている。誠はその笑顔を見た瞬間、猛烈に天音に対して――周に対して自分が腹を立てていることに気づいた。
けれど、怒りを全面に出すことはできない。自分はなにをそんなに怒っているのか、いまいち理由がわからなかったからだ。それに、こんなところで怒り出すなど大人のすることじゃない。この場所での誠は、あくまで客だ。彼の上司ではないのだから。
「お金、大丈夫ですか? 初回じゃないから指名とサービス料だけでもけっこうするでしょ」
天音が誠の隣に腰を下ろしながら、声をひそめて尋ねてくる。たしかに初回こそ三千円程度で済んだが、二回目の来店からは通常料金を取られている。あまり酒を頼むほうではないが、一万円は確実に超える。高給取りとは呼べない誠にとって、痛い出費であることはたしかだ。
しかし誠は自身の懐事情を探られないように鷹揚にうなずいた。
「別に、どうってことない」
ホストクラブへ通う金もないとは思われたくなかった。虚しいプライドで、見栄を張っているだけだ。わかっている。
天音は満足げにうなずくと、テーブルに置かれていたグラスを手に取った。
「じゃあ……村谷さんのお財布に乾杯」
なんだそれ、と思いながらも誠はグラスを合わせた。ガラスのぶつかり合う澄んだ音は、たちまちフロアの狂騒にかき消されてしまう。天音はグラスの中身がなにかもろくに確かめないまま、一気に呷る。
会社にいる時とは違って、天音はよく喋った。誠は心配になるほどのペースで酒を飲み、誠の言葉少なな話にさも楽しそうに聞き入り、店で出会った不思議な客や、同僚のホストのことを面白おかしく話してくれる。天音と話しているうちに、誠は自分の心がだんだんと解れていくのを感じた。
だが、最初に天音を見た時の苛立ちはいまだ心の奥底でくすぶっている。なにかきっかけがあった瞬間、それは耐えきれずに爆発してしまいそうなほどだった。
店を去るタイミングを逃し、ずるずると閉店間際まで居続けてしまった。そろそろラストオーダーの時間だ。
黒と白、そして差し色の赤。洗練された店内で、天音の美しい横顔がきらびやかな照明に照らされている。
やっぱり信じられなかった。これがあの、いつもなにを考えているのかよくわからない陰鬱な顔をした和泉周と同一人物だって?
天音はこちらを向くと、嘲るような笑みを見せた。
「どうします? 先輩」
忘れかけていた怒りが、ふっと腹の底に戻ってくる。なにが先輩だよ。会社では一度もそんなふうに呼んだことなどなかったくせに。会社では、俺のことを避けているくせに。
アルコールで上気した頬をゆるませて、天音が手を伸ばす。肩に置かれた手をなぜか振り払うこともできず、誠はまっすぐに彼を見つめ返した。
「先輩がもうすこし頑張ってくれたら、今夜のラストソングは僕のものになるんですけど」
こんなふうに煽られて、女は彼に金を使うのだろう。首を振り、肩に置かれたひんやりとした手を振り払う。
「お前に貢ぐつもりはない」
「僕に会いにここまで来たのに?」
くつくつと、喉の奥で笑う声がした。
図星だ。誠は天音と――周と会話をするためにここまでやってきた。酔いが覚め、幾分かひんやりしてきた誠の顔を天音がじっと見つめる。すべてを飲み込んでしまいそうなほど、真っ黒な瞳。漆黒の闇の中に、間抜けな自分の顔が映り込んでいる。
「先輩が好きなのはどっちですか? ホストとして生きる天音? それとも……冴えない営業社員の和泉周?」
誠は怒りを忘れ、呆けてしまった。
「俺が、お前のことを好きだって?」
天音の瞳にいたずらっ子のような好奇心にも似た光がきらめく。主人の命令を待つ番犬のように、忠実に誠の言葉を待っている。
「まさか。俺がお前のことを好きなんてことは――」
「会社では話せないから、わざわざ店にまで来たんでしょ? 僕と話したくて、僕に会いたくて。ちがいますか?」
「……っ」
フロアの喧騒が遠く聞こえる。隣にいる天音から香ってくる、甘い石鹸のような香りにやけに心が乱される。
そんなはずはない。自分に限って、同性を好きになるなんて。天音のことを、和泉周のことを好いているだなんて。
膝の上に置かれた誠の手に、するりと熱い手のひらが絡みついた。天音が酒臭い息を吐いて、誠に囁く。
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