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第7話
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誠は目の前に置かれた小盛りの牛丼を見つめた。真夜中に並の牛丼を完食できるほど、誠はもう若くはない。誠の隣に座る天音――もとい和泉周は平気で大盛りのチーズ牛丼にがっついている。
「夕食取らずに出勤してるので、腹減って仕方なくて」
周はまるでいたずらが見つかった子どもみたいに言い訳を口にした。どのくらいの頻度でホストクラブへ出勤しているのか知らないが、出勤のたびに浴びるように酒を呑み、深夜に牛丼を食べるような生活をしていたら、間違いなく健康を害するだろう。
誠は部下の健康を心配しながら、控えめに割り箸で牛丼をつついた。周の食べっぷりを見ていて、すこしだけ食欲が湧いてきている。
「どうして、わかったんですか」
ふいに周は牛丼をかき込んでいた手を止めて、誠に尋ねた。黒縁眼鏡の奥、どろりと濁った目が誠を抜け目なく見つめている。
「お前が天音だってこと?」
周は返事をする代わりにこくんとうなずいた。その仕草がやけに子どもっぽくて、見ていられずに目をそらす。
「他のホストから聞いた話と、お前が話していた家族の話が一致していた。声も似ていると思ったし。それに……手首の、それ」
ちらりと周の左手首を見る。腕時計は外され、ワイシャツの袖から覗く手首には一生治ることのなさそうな火傷の痕がある。身近に同じ位置に、同じような火傷の痕がある人間など、頻繁に現れるものではない。
周は誠の視線を避けるように、ワイシャツの袖を引っ張り、火傷痕を隠した。
触れてはいけない話題に触れた時のような、気まずい沈黙が場を支配する。24時間営業の牛丼屋で、男二人で肩を寄せ合い、牛丼をつついている奇妙な光景。最近の流行曲が絶えず天井のスピーカーからBGMとして流れ続けている。
割り箸でひとすくいした牛丼を口に入れてみたが、砂を噛んだようになんの味もしなかった。周に連れられて牛丼屋へ来たはいいものの、この先どう話を展開していけば良いのか、さっぱり方向性がわからない。そもそも自分は周の秘密を暴き立てて、なにがしたかったのだろう。周と天音が同一人物だとわかれば、それで満足だったのだろうか。
「村谷さんには、折り入ってお願いがありまして」
いつの間にかチーズ牛丼をぺろりと平らげた周が、遠く、期間限定メニューのポスターが貼られた壁を見ながら言う。
「会社には黙っていてほしいんです。俺が、ホストクラブで働いていること」
それは当たり前の要請だった。誠や周が働く会社は副業を全面的に禁止している。通常の副業でもバレたら処分が下るが、それがホストクラブなど夜の仕事となれば、なおさら厳しい目で見られることになる。場合によっては、解雇につながるかもしれない。
誠が次の言葉を探しているうちに、周がまた口を開く。
「せめて妹の大学の学費だけでも……貯めてやりたいんです」
母親のために、歳の離れた妹のために、彼は昼も夜も働いているのだ。誠はそのことを責める資格も、会社に告げ口をするような資格も持ち合わせていない。いま自分にできること――それは、周がホストクラブで働いているという事実を自分の心の中にしまい込み、誰にも見られないようにすることだろう。
これは絶対に気づかれてはいけない、二人だけの秘密だ。誠が黙ってさえいれば、周はこのままホストを続け、妹の学費を稼ぐことができる。邪魔するはずもなかった。ただ、すこし興味が湧いただけだ。
「――なんでホストなんだ?」
誠はずっと気になっていたことを、つい口に出してしまった。ぽっかりと暗闇の浮かんだ周の瞳が、こちらを見ている。どんな感情も読み取ることのできない、圧倒的な闇が黒縁眼鏡の向こうに広がっている。
周は自嘲気味に肩をすくめ、唇の端で笑った。
「村谷さんは、和泉周が本当の俺だと思ってる」
「ちがうのか?」
「どう思います?」
問われて周の目を見返す。ボサボサの黒髪も、顔を隠すようにかけられた眼鏡も、人を寄せ付けない陰気な性格も、全部がフェイクだというのか? 本当の自分はホストをやっている天音であって、しがない営業社員の和泉周ではないと言いたいのだろうか。
「わからないな」
誠は正直に言った。
「俺には、お前のことがなにひとつわからん」
「それじゃ上司失格ですよ」
周の声色が変わったのを捉えて、誠は伏せていた視線を上げた。見た目はいつもの、やる気のないどんよりとした顔の和泉周だ。けれど、中身は――彼にはいま、No.1ホストの天音が宿っている。
周は丼の上で割り箸を綺麗に揃えると、誠の目を覗き込んだ。うっかりすると吸い込まれてしまいそうなほど、深い闇がそこには広がっている。
「もっと知ってください、俺のこと。和泉周も、天音も、ぜんぶ村谷さんには知ってほしいんです」
なぜ、と問いかけた唇になにかが押し当てられ、誠は口を閉ざした。唇に押し当てられたものをよく見ると、煙草だった。電子タバコが主流の現代には珍しい、紙の煙草だ。銘柄まではわからなかったが、煙草特有の鼻の奥にこびりつくようなきつい匂いが漂っている。
周は誠の唇に押し当てていた煙草を指先で回収すると、それをゆっくりとした動作で咥えた。火を付ける直前、店内が禁煙であることを思い出したかのように席を立ち上がる。
「なんで、俺なんだ」
誠はかろうじて、それだけ口にした。他の言葉はどれも口に出せば、たちまちに消えてしまう気がした。煙草を咥えたまま、周が気だるげな微笑みのようなものを見せる。毎日見慣れているはずの姿が、いまははるか遠くのものに見えた。
「言いませんでしたっけ? 俺、村谷さんみたいな人がタイプなんですよ」
「夕食取らずに出勤してるので、腹減って仕方なくて」
周はまるでいたずらが見つかった子どもみたいに言い訳を口にした。どのくらいの頻度でホストクラブへ出勤しているのか知らないが、出勤のたびに浴びるように酒を呑み、深夜に牛丼を食べるような生活をしていたら、間違いなく健康を害するだろう。
誠は部下の健康を心配しながら、控えめに割り箸で牛丼をつついた。周の食べっぷりを見ていて、すこしだけ食欲が湧いてきている。
「どうして、わかったんですか」
ふいに周は牛丼をかき込んでいた手を止めて、誠に尋ねた。黒縁眼鏡の奥、どろりと濁った目が誠を抜け目なく見つめている。
「お前が天音だってこと?」
周は返事をする代わりにこくんとうなずいた。その仕草がやけに子どもっぽくて、見ていられずに目をそらす。
「他のホストから聞いた話と、お前が話していた家族の話が一致していた。声も似ていると思ったし。それに……手首の、それ」
ちらりと周の左手首を見る。腕時計は外され、ワイシャツの袖から覗く手首には一生治ることのなさそうな火傷の痕がある。身近に同じ位置に、同じような火傷の痕がある人間など、頻繁に現れるものではない。
周は誠の視線を避けるように、ワイシャツの袖を引っ張り、火傷痕を隠した。
触れてはいけない話題に触れた時のような、気まずい沈黙が場を支配する。24時間営業の牛丼屋で、男二人で肩を寄せ合い、牛丼をつついている奇妙な光景。最近の流行曲が絶えず天井のスピーカーからBGMとして流れ続けている。
割り箸でひとすくいした牛丼を口に入れてみたが、砂を噛んだようになんの味もしなかった。周に連れられて牛丼屋へ来たはいいものの、この先どう話を展開していけば良いのか、さっぱり方向性がわからない。そもそも自分は周の秘密を暴き立てて、なにがしたかったのだろう。周と天音が同一人物だとわかれば、それで満足だったのだろうか。
「村谷さんには、折り入ってお願いがありまして」
いつの間にかチーズ牛丼をぺろりと平らげた周が、遠く、期間限定メニューのポスターが貼られた壁を見ながら言う。
「会社には黙っていてほしいんです。俺が、ホストクラブで働いていること」
それは当たり前の要請だった。誠や周が働く会社は副業を全面的に禁止している。通常の副業でもバレたら処分が下るが、それがホストクラブなど夜の仕事となれば、なおさら厳しい目で見られることになる。場合によっては、解雇につながるかもしれない。
誠が次の言葉を探しているうちに、周がまた口を開く。
「せめて妹の大学の学費だけでも……貯めてやりたいんです」
母親のために、歳の離れた妹のために、彼は昼も夜も働いているのだ。誠はそのことを責める資格も、会社に告げ口をするような資格も持ち合わせていない。いま自分にできること――それは、周がホストクラブで働いているという事実を自分の心の中にしまい込み、誰にも見られないようにすることだろう。
これは絶対に気づかれてはいけない、二人だけの秘密だ。誠が黙ってさえいれば、周はこのままホストを続け、妹の学費を稼ぐことができる。邪魔するはずもなかった。ただ、すこし興味が湧いただけだ。
「――なんでホストなんだ?」
誠はずっと気になっていたことを、つい口に出してしまった。ぽっかりと暗闇の浮かんだ周の瞳が、こちらを見ている。どんな感情も読み取ることのできない、圧倒的な闇が黒縁眼鏡の向こうに広がっている。
周は自嘲気味に肩をすくめ、唇の端で笑った。
「村谷さんは、和泉周が本当の俺だと思ってる」
「ちがうのか?」
「どう思います?」
問われて周の目を見返す。ボサボサの黒髪も、顔を隠すようにかけられた眼鏡も、人を寄せ付けない陰気な性格も、全部がフェイクだというのか? 本当の自分はホストをやっている天音であって、しがない営業社員の和泉周ではないと言いたいのだろうか。
「わからないな」
誠は正直に言った。
「俺には、お前のことがなにひとつわからん」
「それじゃ上司失格ですよ」
周の声色が変わったのを捉えて、誠は伏せていた視線を上げた。見た目はいつもの、やる気のないどんよりとした顔の和泉周だ。けれど、中身は――彼にはいま、No.1ホストの天音が宿っている。
周は丼の上で割り箸を綺麗に揃えると、誠の目を覗き込んだ。うっかりすると吸い込まれてしまいそうなほど、深い闇がそこには広がっている。
「もっと知ってください、俺のこと。和泉周も、天音も、ぜんぶ村谷さんには知ってほしいんです」
なぜ、と問いかけた唇になにかが押し当てられ、誠は口を閉ざした。唇に押し当てられたものをよく見ると、煙草だった。電子タバコが主流の現代には珍しい、紙の煙草だ。銘柄まではわからなかったが、煙草特有の鼻の奥にこびりつくようなきつい匂いが漂っている。
周は誠の唇に押し当てていた煙草を指先で回収すると、それをゆっくりとした動作で咥えた。火を付ける直前、店内が禁煙であることを思い出したかのように席を立ち上がる。
「なんで、俺なんだ」
誠はかろうじて、それだけ口にした。他の言葉はどれも口に出せば、たちまちに消えてしまう気がした。煙草を咥えたまま、周が気だるげな微笑みのようなものを見せる。毎日見慣れているはずの姿が、いまははるか遠くのものに見えた。
「言いませんでしたっけ? 俺、村谷さんみたいな人がタイプなんですよ」
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