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第4話

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 会社近くの定食屋に着き、まことはアジフライ定食を、しゅうは生姜焼き定食を頼んだ。定食が運ばれてくるまでの時間をなんとか会話で持たせようとしたが、なにを問いかけても周の反応はかんばしくない。そのうち誠は意味もなく、水の入ったグラスを上げ下げしたり、壁一面に貼られたメニュー表に目を走らせることで時間を潰した。
 営業部で働き、他者との会話は得意なほうだと思っていたが、それは相手も会話に積極的な時だけなのだと、誠はいまさらながらに痛感した。自分の実力でもコミュニケーション能力でもなんでもなく、ただ相手が自分との会話を望んでくれるから上手くいっていただけなのだ。相手が自分と話したがらなければ、会話だって成立のしようがない。
 ほどなくして二人の前に注文した定食が運ばれてきた。周の頼んだ生姜焼き定食のほうが五分ほど早く着いたものの、彼は上司に遠慮してか、なかなか箸をつけようとしなかった。誠の前にアジフライ定食が並んだとき、周はようやくワイシャツの袖をまくり、割り箸を割って、小さな声で「いただきます」と呟いた。

 誠も周にならって「いただきます」と手を合わせる。顔と同じくらいの大きなのあるアジフライにかぶりつきながら、誠の視線はある一点で釘付けになった。
 周の左手首。腕時計のバンドで隠れているが、手首の内側あたり、皮膚の色が変わっている。古い傷のようで皮膚がひきつり、赤黒くなっているのだ。見てはいけないものを見てしまったような気がして、誠はさっと目をそらしたが、周の反応のほうが早かった。彼は誠の視線が自分の左手首に刺さっていることに気づき、生姜焼きをつついていた手を止めて、まくり上げていた袖を下ろした。

「子どもの頃に、熱湯をかぶったんです」

 周はそれしか言わなかった。その説明だけで、もう十分だというように。顔色を変えず、黙々とおかずと白米を交互に口に運んでいる。誠もそれ以上聞くことはできなかったし、すこし意外な気もしていた。
 周が自ら自分のことを話すとは思っていなかったのだ。誠が見ていることに気づかないふりをするか、こちらから「その傷は?」と聞かない限り、答えてくれないものだと思い込んでいた。わずかながら、周との距離が縮まっているのかもしれないと思いはじめる。

「和泉は、一人暮らしなのか? 兄弟は?」

 誠は古傷のことなど気にしていないというように、自然なふうを装って、質問を重ねた。ふっと周の目が一瞬、遠くを見る。

「いまは一人暮らしですが……実家にいた頃は、母と、妹と一緒に暮らしていました」

 母子家庭だということか。いまの時代、さして珍しいものでもないが、誠は三人暮らしの様子を上手く思い描けなかった。誠の家は両親ともに健在だ。兄弟はおらず、親の愛情を一身に受けて育ったといっても過言ではない。両親は常に一緒で、どちらかが欠けている様子を思い浮かべることは誠にとって難しいものだった。

「そうか……妹さんは? いまいくつなんだ」
「今年で十七になります。父親が違って、歳も離れているんですよ」

 周はあくまで淡々と、聞かれたことに最低限の回答をする。会話の糸口を掴みきれないまま、皿が綺麗になりはじめる。誠は困り果てていた。ここからどうやって、周と距離を縮めて、仕事の話に持っていけばいいのかわからなかったからだ。

村谷むらやさんは――」

 ふいに周が誠を呼んだ。付け合わせの千切りキャベツを一本残らず平らげた周が、重たい視線を上げて、誠のほうを見ている。正面から覗き込んだ彼の目は、その陰鬱な雰囲気に反して淡く澄んでいた。

「村谷さんは、結婚とかしていないんですか」

 結婚とか。思い切って突っ込んできたな、と誠はまじまじと周の目を見つめてしまう。
 嘘を吐いても仕方がない。誠はアジフライの欠片を飲み込みながら、うなずいた。

「ああ、この歳になっても独身だよ」
「彼女は? 付き合っている人は、いないんですか」
「昔はいたが……最近はずっと一人だよ。結婚を考えたことすらない」

 誠が正直にそう打ち明けると、周の表情が幾分か和らいだ気がした。彼の口元にうっすらと浮かんでいるのは――微笑み? 周はいまだ独身だという誠を笑っているのだろうか。誠は次の瞬間、周の口から飛び出した囁きに翻弄された。

「――良かった」

 良かった? 周はたしかにいま、「良かった」と囁いた。どういう意味だ? 同じ独身仲間として仲良くやれそうだということか? それとも周も恋愛経験がほとんどなく、同じく彼女のいない誠に親近感を覚えたのだろうか。
 どういう意味だ、と聞きかけて、誠は喉元で言葉を飲み込んだ。
 周が黒縁眼鏡を外して、ワイシャツの袖でレンズを拭っていた。眼鏡を外したその顔に、強烈な既視感を覚えたのだ。彼が会社で眼鏡を外したことはあっただろうか? 自分は一体、この顔をどこで見た?
 目の前に現れた既視感のある顔。その顔を凝視していると、示し合わせたように周と目が合った。眼鏡を外した彼の目はより澄んで、黒く、夜空をそのまま写し取れそうなほどだった。

「俺の顔に、なにか……?」

 眼鏡をかけ直しながら、周が尋ねてくる。誠は慌てて目をそらし、スーツのポケットをまさぐって財布を取り出した。
 俺はあの顔を、一体どこで見たというのだろう。
 周に尋ねてみたい気もしたが、当の本人はすでに伝票を手に立ち上がっていた。
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