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最初の授業
しおりを挟む「じゃあ今日から正式に貴族の基本的なマナーや貴族同士の関係性を勉強していきましょうか。」
「は、はい。よろしくお願いします…!」
「そんなに怖がらなくていいですよ。俺が教えるのは本当に基礎的な部分ですし、最初から難しいことは言いませんから。」
数日経って、ついに私にも貴族令嬢として勉強する時間がやってきた。
クラウシー様の“授業中は公私を分ける”という主義のもと、授業中はクラウス先生、そしてガリアナ嬢と呼び合うことになった。
それは良いのだけど、いつもとは違って敬語で、シャツのボタンをきっちりしめて、メガネをかけているクラウス先生が新鮮で、大人の男性のよう。…実際7つも歳上だし、もうすぐ成人なのだけど。普段は私に合わせてくれているからか歳の近いお兄さんという感じなのに。
「では…最初の授業ですから、そもそもなぜガリアナ嬢が勉強するのかを考えましょうか。」
「……え?」
クラウス先生はメガネとシャツの1番上のボタンを外し、腕まくりして微笑んだ。
初回とはいえ国内外の歴史や現状を……なんて緊張していた私は、思わず声を漏らしてしまった。
「勉強したい、学ばなくては…そんな思いは伝わっています。じゃあその目的は?家門のため、領民のため…それは当然。そして義務です。けれどそれだけだと学びが責務になってしまうでしょう?それは勿体無いし、つまらない。だから、侯爵令嬢としてでない、1人の人間としてのガリアナ嬢の目的を考えるんです。」
「は、はい。」
確かに、私はハルトマン侯爵家に恥じないように…役に立てるようにと、そんな事を考えていた。だから学ぶべきなのだと。
私自身が何を学びたいのか、どうなりたいのか…そんなことは考えたことも無かったし、たぶん言われなければ今後も考えなかったと思う。
私…私は、何を学びたいんだろう。
「…あまり難しく考えないでいいですよ。この世界はどんな些細な事にも、不可思議と、これまでの叡智が詰まっているんです。ガリアナ嬢が“知りたい”と思えることを教えてください。」
「……あ…では、空が青いのはどうしてでしょうか?」
「良い目の付け所ですね。答える前に…ガリアナ嬢はどうしてだと思いますか?」
クラウス先生がにこりと笑って私を見つめる。
「…分かりません。本では、お姫様が泣けば雨になって、笑えば青空になっていました。けれど…天は1人の感情で変わることなどないと思うんです。それに、幸せならピンクや黄色の空になったっていいのに、とても澄んだ青だから…。」
「なるほど、とても賢い。ガリアナ嬢の言う通り、空はお姫様や王子様の気持ち1つで変わるものではありません。それに、ピンクや黄色の空…そういった、見たことも聞いたこともないものを自分で想像するのはなかなか出来ることじゃない。空は青い、それは誰しもの日常の当たり前で、“なぜ空は青いのか”と疑問に思わない人は大勢いますから。」
「あ…ありがとう、ございます。」
「…さて、では答えです。空が青いのは、レイリー散乱というものがあるからです。」
「レ…レイリーさんらん…?」
「えぇ。俺も専門外なので詳しくはないですが。正確には、空自体が青いわけじゃないんです。俺たちの目には空が青く映っていると言う方が正しいかな。」
「じゃあ……他の動物にとっては、空は青くないのですか?」
「そうですね…モノクロに見えている動物もいれば、人間より細かく色を識別できるものも沢山いますから。」
「へぇ…!」
「……絵本の…お姫様の話通りじゃなくてがっかりされてないですか?」
「そんなことないです!」
「それは良かった。こういう小さな疑問も全て、この世界を学ぶ目的になります。どうですか?楽しいですか?」
「……はい!とても!」
私が答えると、クラウス先生は笑顔のまま私の頭をぽんぽんと撫でた。
「学ぶということは…時にロマンを奪います。真実に近くなるほど、それはあまりにあっけなく単純なものになる。けれど、無知からロマンは生まれない。追求するほど、知るほど新しい疑問や理想像が浮かんでくる。それが学ぶ楽しさです。…忘れないで。」
クラウス先生は、最後の言葉を少し躊躇ってから言った。なぜだか分からないけれど、悲しそうだった。
「はい。忘れません。私、たくさん学びます。クラウス先生、よろしくお願いします!」
「あぁ、こちらこそ。」
「へへ……クラウス先生、とても頼もしいです。」
私の言葉に、クラウス先生の顔が一瞬綻ぶ。まるでいつものお兄さんのような笑顔。それを小さな咳払いで隠して、再び真面目な顔になった。
「……女性が家計以外の勉強なんて、と宣う貴族は大勢います。だがそんな言葉は気にしなくていい。侯爵様もガリアナ嬢が学びたいことは全て学んでいいと仰っていました。知識は誰にも奪えないあなたの武器だ。俺がきっと、あなたを社交界最高の…最強の淑女にしてみせます。」
「では、私は必ず、最強の淑女にならなければいけませんね!」
その後も私はいくつかの質問をして、クラウス先生は分かりやすく解説してくれた。
太陽が月に変わるのはなぜなのか、暑くなったり寒くなったりするのはなぜなのか、山や池はどうしてできるのか……
私はどれも、絵本でしか知らない。でもいくら知識がなくても、絵本を全て信じきるほど子どもでもない。
クラウス先生は「ガリアナ嬢は自然や天文に興味があるのですね」と言った。
たしかに、そういう質問ばかりしていたわ。そうやって言葉にされると、領地のこと以外の勉強もしたくなる。クラウス先生が言っていた学ぶことの楽しさって、このことなのね。
「さぁ、今日の授業はここまでにしましょう。」
時計を見ると、終わる予定よりもだいぶ早い。
「大丈夫!ほら、これどーぞ。紅茶よりココアのほうがいいか?」
「え、あ、ココアで……」
白いお菓子が盛られた大皿とあたたかいココアが渡される。これが1番大事だからな、とココアにマシュマロを山盛りトッピング。
マシュマロが溶けていく様子とクラウス先生の笑顔を交互に見る。
「勉強の後は糖分補給が大事だよ、おじょーさま。」
あ、いつものクラウシー様に戻っている。
こう聞くと、いつもは授業をしている時よりほんの少しだけ声が柔らかいのね。
「ん、ほら。食べてみて?おれ用のクッキーだからいつも食べてるやつより甘いと思うよ。おいしーよ?」
クッキー……?
そういえば初めて会ったときに角砂糖をそのままくださったんだ。目の前のクッキーも、なぜか砂糖がたくさんまぶしてあって生地がうっすらとしか見えないくらい。クッキーと言われなければ分からない。
「あ……では、いただきます!」
「うんうん、どうぞ。」
「……ぅ」
思わず声が漏れた。
砂糖のざらざらザクザクの食感がほとんどで、クッキー自体にも砂糖がたくさん入っていてホロホロ崩れてしまう。これは……なんというか、クッキーというより、ほんのりクッキー風味のお砂糖だわ…!
口の中に残った甘さを流すためにココアに口をつける。
けれどそれも、溶けきらなかったマシュマロとマシュマロ液が口に流れ込んできただけで、余計甘さが広がった気がする。
「んふ、そうそう。甘いクッキーの後に甘いココアって最高なんだよねぇ。今日はいつもより甘さ控えめにしてみたんだけど…どうかな?おいしい?」
ココアを飲んで動きが完全に停止してしまった私を見て、クラウシー様は満足そうに頷いている。
それよりこれで甘さ控えめなんて、普段どんなものを食べてるのかしら…!?
「…入るぞ。」
なんて答えるか迷いつつココアを飲むふりをしてみたところで、扉の外からお兄様の声がした。
「あらら、もうおれら2人っきりの時間が終わりだなんて残念だなぁ。おじょーさまもそう思わない?」
「……はぁ……そんなことだと思った。…あ。おいリア、そのコップ!それを離すんだ、いいか、まだ口はつけてないな?その目の前の塊も絶対に食べちゃ駄目だぞ!?」
「そんな人を殺人鬼みたいな言い方…おじょーさまのために甘さ控えめにしてますけど~?」
「大差ないだろう、お前の食生活を続けていたら常人は1年で死ぬ。控えめってのはその塊の砂糖を全て洗い流して生地の砂糖も1/3にすることを言うんだよ。」
「お、お兄様……実はもう…」
「なんだと!?どのくらい食べた!?その目の前のやつだな、あぁ可哀想に…ココアも飲んだのか?いま水を用意させるからな。今後はこいつが出す物はどんなに勧められても手をつけなくていい。いや、手はつけるな。わかったか?」
クラウシー様がいる手前頷きにくいけれど、お兄様、窮地を救っていただきありがとうございます…。
「……ごめんね、喜んで欲しかったんだけど…ほら、おれの分みて?おじょーさまのが砂糖かなり少なめなの分かる?」
そう言ってクラウシー様が見せてきたのはなんというか……角砂糖の親玉のような……たぶん、砂糖とクッキーの割合が5:2くらいの、たしかにこれを1年間食べたら死んでしまうと思うようなものだった。
「大丈夫です、わかってます。私のために用意してくださってありがとうございます。」
「リアおじょーさま……可愛いなぁいい子だなぁ……お小言ばかりのヘルベルト卿とは違って……」
大袈裟に言うから、それが本心じゃないことは私にもわかる。
「なんだと?リアを可愛いと言っていいのは俺だけだからな、二度と言うなよ。」
……対して、お兄様はまるで冗談には聞こえないわ…。
「あれ、でもフロリアン卿はこの前おじょーさまのこと終始口説いてましたけど?」
「……それは…」
「ま、仕方ないか。フロリアン卿はずーっとあんな感じだけど…。おれ、前はほとんど関わりなかったしね。早く信頼してもらえるように頑張りますよ、ヘルベルト卿」
「…分かったら早くその劇物を戻せ。それとリア、この後時間があるなら俺と…その……遊ぶか?」
「お兄様……?」
「えっと……ほら、昔、ふたりで母上にプレゼントする花冠を作っただろう。…覚えてるか?」
「う~ん…たしかに、お母様によくお花や花冠をあげていたような……?」
「今日はリアに似合う花冠を作ろう。…一緒に、選ぶから。」
「おれも付き添いますよ~!リアおじょーさまはやっぱ白が似合うかなぁ?でも濃い紫も似合いそう!」
「……着いて来なくていい」
お兄様がクラウシー様をギロっと睨む。けれど、それがいつもの流れなのは分かっている。
「おれって実は護衛騎士だからね?すご~く頭が良いから専属教師もしてるけど~、本業は騎士だから!リアおじょーさまが行くところは全部着いて行きますよ~」
「…………半径5m。それより近くには来るな。」
「まぁ…うっかりと万が一の時以外はそうしますよ。兄妹仲良くするのも大切ですからね~」
「万が一の時のみだ。うっかりでリアに近寄るな。」
笑顔のみで答えるクラウシー様。おふたりの言い合いは微笑ましいわ。
「行こう、リア。」
お兄様が手を出してくれる。
その手を取って、私は部屋を後にした。
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