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序章:異世界にて
第十六話:そうしたいから
しおりを挟むその後、倒れてから目覚めない紅髪の少女を背負いながら、レイヴンは一歩一歩重い足を運ぶ。
森を抜けると街までは草原が広がっている。濡れた草に足を滑らせて転ぶも、背中の少女が傷つかないように庇う。
雨で濡れた服が体温を奪い、青い唇を小刻みに震わせ、遠くに見える街の外壁を見つめて、また一歩……。
果たして、街まで体力は持つのだろうか、そんな不安が頭をよぎるたびに重くなる足を、それでも無理やり地面を擦るように前へ。
どのくらい歩いたのだろうか、随分長い時間歩いたと感じるのに、街へ近づいている気配がない。
一、二時間、もしかしたらまだ十分も歩いていないのかもしれない。
ガクッと突然足の力が抜けて膝から崩れ落ち、彼は天を仰ぐ。
視界いっぱいに広がる灰色の空から、降り注ぐ無数の雨粒、ぼんやりと見ているうちに目が眩み、前のめりに地面に倒れ込む。
ヴィルの魔法の腕では、体内に広がった魔毒を完全に取り除くことはできておらず、体力の限界を迎えていた。
(せめて、ヴィルだけでも……。)
無力感。
『竜殺し』の英雄とまで呼ばれる彼だが、その人生においてそれが消えたことはない。
今もこうしてだだっ広い草原に倒れ込み、雨の中で震える小さな存在であることを痛感する。
流れ落ちる涙は、即座に雨に流されて消え、レイヴンは静かに目を閉じた。
このまま自分は死ぬ。
そう悟る彼の胸中に死への恐怖は無く、今までに守れなかった一つ一つをただ浮かべていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……、ちょっと……大丈夫!?」
低く、それでいて柔らかな女性の声が遠くに聞こえた。
その聞き馴染みのある声に、彼は口元を緩めると小さく鼻で笑う。
暖かい。激しく降り注いでいた雨がピタリと止んでいる。
魔法で雨を防ぎ、手には穏やかに揺らめく炎を浮かべる金髪の女性。
「シルス……か」
「カリナが……、こんな雨なのに、二人がなかなか戻ってこないって……」
普段の彼女とは違い、鋭い目を心配そうに歪めて涙を一杯に溜め込んでいた。
レイヴンの顔色の悪さを確認すると、すぐに魔毒の気配を探り当て解毒する。
じきに彼の顔色が良くなると、彼女は安心したように胸を撫で下ろすが、相変わらずのタフさに感心を通り越して呆れ気味だ。
「ヴィルは、大丈夫なの?」
「ああ、寝ているだけだ。来てくれてありがとうな、正直もうダメかと思ったぜ」
そう笑って見せるレイヴンを見ると、ヴィルを背負って立ち上がるシルス。
「はぁ……よかったよ、ホントに」
そう言って軽く目を細めると一粒の涙が頬を伝い、彼女はそれを恥ずかしそうに肩で拭った。
******
『道具屋』と書かれた看板のある一軒家の、その二階。
少々手狭ではあるが、味のある木製の家具が並べられた一室。
窓から差し込む細やかな陽光を瞼の裏に感じたのか、紅の少女が目を覚ます。
「……知らないてんじょ…………」
知っている、二ヶ月間もここで起床しているのだから知らない訳がない。
何か、より高位の存在の思惑を感じる。どうしてもそのセリフを彼に言わせたいらしい。
どうやら自分は気を失い、この部屋に運ばれたみたいだ。
布団に残る熱に、再び夢の世界への帰還を試みるも、どうも寝足りているようだったので起きることにした。
「うう……さむい」
そろそろ冬が近いのだろうか? この地域に四季があるのかは不明だが、最近はうんと気温が下がっていた。
服もあまり持っていないので、掌に小さな炎の球を作り、薄暗い階段を降りる。
横目で見た店内にも陽光が、その手を細く伸ばしている。
狭いキッチンには朝食の準備をしている女性、しかし彼女の様子は普段と異なっていた。
目の下の大きなクマと、どことなく動きに元気がない。髪が跳ねているのはいつも通りだが。
「おはよー」
キッチンへの入り口から聞こえる呑気な声に、カリナは急いで振り返り、驚きと安堵を示す瞳をヴィルに向けた。
「おはよう、ずっと目覚めないから、心配した……」
彼女はヴィルに近づき、少し屈んで優しく抱き寄せる。
顔に感じる贅沢な脂肪の奥に響くのは、普段の彼女からは考えられないほど忙しない鼓動の音。
表情に示した以上にヴィルを心配していたようだ。
甘く香る花のような香りに包まれながら、彼はどこか懐かしさを感じて穏やかな表情になる。
そしてまた彼は、レイヴンに思ったものと同じ質問をした。
「なんでこんなに、優しくしてくれるんだ?」
その小さな鈴の音を思わせる細い声は、何かに怯えているように震えている。
優しさを疑ったわけではない、ただそうする理由を不思議に思った。
その理由を知れば、自分も他人にやさしく在れるかもしれない。
「理由……? 私がそうしたいから」
そう答えて少女の頭を抱え込むように強く抱き寄せる。
「……。そっか……ありがとう……」
暖かい胸の中で、諦めたように目を伏せて脱力した少女。
ーー確かに、この暖かさを知らないのは、損かもしれないな……。
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