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序章:異世界にて

第二十話:強がりは夜風に消えた

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 肩の力を抜いて後頭部を木につけると、逆光に隠れていた彼の表情が露わになる。
 申し訳なさと、悲しさの入り混じったその顔に、ヴィルの震えは止まっていた。
 それからレイヴンは、過去を憂うような遠い目で空を見上げる。

「妻と娘がいたんだ」
「いた……」

 肩の力を抜いて唾を呑む少女に、彼は静かに頷いて続ける。

「俺は昔から剣の才能があってな、十四の時には竜や魔物を討伐して各地をまわっていた」
「無茶やってたんだな」
「まあけっこう楽しかったぜ」

 いつもの調子が戻ってきた会話にレイヴンが笑って見せる。

「そんな日々が続いて、ある日立ち寄った村で、綺麗な赤毛の女に惚れた」
「それが奥さん?」
「ああ、そうだ。数年して娘も、生まれて……」

 穏やかな日々の追憶にふける瞳からは、取り戻せない過去への思いと、やるせなさが滲んでいる。
 過ぎ去った幸せな時間、村の近くの湖畔の淵を、母譲りの赤髪を快活に振り乱して、跳ねるように駆けていく娘の笑顔。隣を歩く妻は、いつも微笑んでいる優しい人だった。

「楽しかったんだ。幸せだったんだ……ほんと」

 声を震わせているレイヴンを見ると、ヴィルは胸が締め付けられる苦しさを覚えた。
 同情? 二十年以上引きこもり、結婚すらしていないヴィルであったが、今胸に抱いている感情は、ただ他人を憐れむのとは違っていた。
 今自分はどんな顔をしているのだろう、どんな顔をすればいいのだろう。
 痛む胸を抑えて話の続きに耳を澄ませる。

「その日は、領主様のところへ村で穫れた農作物を運ぶことになっていて、俺は護衛として同行した」

 そこまで言ってレイヴンは言葉につまり、心の奥底にしまっていた記憶に手を掛ける。
 ずっと向き合えていなかった過去は、いくら時が経っても褪せることはない。むしろ逃げる度に少しずつ、それと向き合う勇気を失った。
 彼は深く息を吐き、奥歯に力を入れて唇の震えを誤魔化すと、その記憶を引き摺り出す。

「……帰ってきた時には、道は荒れ果て、家屋は焼き崩ていた。その破壊ぶりから竜種がきたことは明らかだった。そこらじゅうに死体と肉片が転がっている中を歩いて、家の近くに来たところで妻と娘を見つけた……」

 絞り出された低い声に乗るのは、怒りか悲しみ、あるいは自責の念。
 握られた拳の中から湧き出た血が、肘を伝い地面に落ちる。
 
「死んでたよ……。体の弱かった妻を守ろうとしたんだろうな……、あいつの手には剣が握られていた。振れる筈もないのに……、たった七歳の小さな手で、血が滲むほど握りしめて。怖かった筈だ、痛かったはずだ……、それでも俺が来ると、信じて闘っていたんだ……。それなのに……俺は……」

 そこまで言うと、レイヴンは力なく項垂れて嘆息し、弱々しい瞳でヴィルを見る。
 涙などとうの昔に枯れ果てたのだろう、乾いて艶のない瞳だった。

「亡くなった娘の面影をお前に重ねていたんだ。お前を助けることで、娘への贖罪をしている気分になれた。その間だけは、救われていたんだ……」

 口角を軽く引き攣らせて自嘲的に笑うレイヴンだが、目だけは笑っていない。
 妻と娘を理不尽に、唐突に失い、何が贖罪になるのかも分からなかったのだろう。
 そんな彼を、責めることなどできる訳もないのだが、掛ける言葉も落ちてはいなかった。

 さらに冷え込んできた夕方の風が、瞬きも忘れた男の暗い瞳を撫でる。
 覇気のない、生気すら感じさせない、生きるのを諦めた人間の目。ヴィルにはよく見慣れた、ゲームの真黒なロード画面に反射していたあの目。
 諦めた人間の辿る末路は知っている。後悔も悲しみも枯れ果てた後、何の意味もない呆気のない死に直面してようやく、いくらかの後悔を思い出すだけ。
 この男に、そんな虚しい結末を迎えさせてはならないと思いつつも、頭に浮かぶのは上っ面で薄っぺらな言葉ばかり。
 沈黙が続き、街に近づく夜闇の気配に、レイヴンは随分重そうに腰を上げ、

「お前はきっと一人でも生きていけた。それだけの力があった……。急に暗い話して悪かったな、ギルドに戻ろう。竜の件について対策会議がある」

 無理にぎこちない笑みを作ると、薄暗い道へ体を向ける。

 レイヴンは、過去の話をしたことを少し後悔していた。
 ヴィルを巻き込んだという罪悪感から、伝えなければいけないと思ったのだが。
 話しながら、娘に似ているこの少女に、赦しの言葉を求める自分がいた。

 妻と娘を失った日から、生きる理由を見失い、何も分からなくなった。ただ過去に思いを馳せ、生きながらえる地獄の日々。
 それでも死ぬことはできなかった。二人との記憶が、この世界で出会って過ごした幸福な時間が全て、初めから無かったことになる気がして恐ろしかった。

 ヴィルを拾った日から、またあの美しい日々に戻れた気がした。彼女の笑顔に赦された気持ちになっては、二人への後ろめたさは増すばかり。
 閑静な夕暮れ時の夜道には、いつも力無く横たわる妻と娘の幻影が映り、彼女たちは、きまって恨めしそうな目をしていた。
 赦される筈がないのだ、自分だけ救われようだなんて。
 
 ヴィルの瞳に映るレイヴンの背中はとても小さく、よろよろと闇に消えようとする彼を、ヴィルは呼び止めていた。
 
「レイヴン」

 少女の声に彼は足を止めて振り返る。
 いつも通りの優しい顔だった。
 そしていつも通り、努めて気丈に振る舞う、悲しい男の顔だった。
 ヴィルは色々考えてみたが、やはり背負っている過去の重さが違いすぎて、レイヴンにかけてやれる言葉など思いつかない。
 
「俺は、お前が手を差し伸べてくれなかったら、今も行くあてもなく森を彷徨っていたかもしれない……」

 まとまらない考えが頭の中でひしめきあう中で、出会った時の記憶が一際大きく膨れ、自然とそう口に出していた。

「だからそんなことは……」

 ない、と言いかけたレイヴンの言葉をかき消す強い口調で、

「本当の俺はっ! ……俺は、お前の思っているような強いやつじゃない」

 過去の惰弱な自分を戒めるように、徐々に語気に重みが増し、指先に力が籠る。
 思い返すと初めは、社会で周囲に馴染めず疎外感を感じたところからだった。それから徐々に人の目を見て話すこともできなくなっていき、ネットでそれらしい病状を見つけて、それを口実に会社をやめた。
 実際に病だったかは分からない、上手くできない言い訳が欲しかったのだ。己の弱さを認めず、責任の所在を社会に置いて逃げ続けた、しょうもなくて、弱い駄目人間だ。

 一方、目の前の男は降りかかった理不尽に対して、全ての結果は自身の弱さが原因だとして今も苦しみの最中にいる。
 そんな二人を比べて、レイヴンの方が駄目な人間だなんて答えが、あっていい筈がない。
 自分を差し置いて、『駄目人間』を自称するこの男を、正真正銘の『駄目人間』であるヴィル本人が見逃す筈がない。
 その不届者に、何故か今度は苛立ちを覚える。
 
「俺は一度死んだんだよ。死んでこうして生まれ変わった。本当の俺がどんな駄目な奴だったか、お前は知っているのか? 俺は卑怯で卑屈で逃げることしか能のない臆病ものだった! 自分の弱さを認めず無為で無意味な人生を貪って死んだっ!!! …………どうしようもない奴だ」

 ヴィルの言っている意味が分からず呆気に取られて、口を間抜けな形に開けたまま立ち尽くすレイヴン。
 無理もない、ヴィルも何が言いたいかはよくわかっていない。
 そこで、エリザの優秀な脳の手を借り。無論脳に手などないが、こう結論づけた。

「俺を差し置いて、駄目人間語ってんじゃねえよ馬鹿野郎。俺はお前に救われたんだ……お前は優しくて凄いやつなんだよレイヴン」
「ははっ……、なんだよそれ」

 レイヴンは呆れ気味に笑ったが、決して気持ちが晴れたわけではない。
 そんなレイヴンに対してヴィルは、今度は真剣な面持ちで付け足す。

「無神経かもだけど一つ言わせてくれ。娘さん、剣持って竜に挑んだんだろ、お前はきっと強くてかっこいい父親だったんだ。今もだ……。間違って、失って、そこからどうするか。せめて、かっこいい父親のままでいてやれよ」

 言葉を選ぶ余裕などなく、もう思ったことをそのまま投げつけた。
 本当は今すぐレイヴンを救ってやれるような、魔法の言葉を吐きたかった。
 だがいくら考えても、そんなものは無い。
 どうやっても亡くなった二人が戻ることは無いのだから。

「それは……、できそうもねぇな」

 レイヴンはまた辛そうに笑うが、その仮面を剥ぎ取るように、ヴィルは彼の心に土足で踏み入る。

「別に俺を見て救われた気持ちになったっていいじゃんか!」
「そんなこと……いい訳ねぇだろぉがッ!!!」

 閑散とした広場にレイヴンの声が響き、一段と冷たい風が吹き付ける。

「そんなこと赦されるわけがない!!!」
「なんで……、なんでお前はそうやって、自分の事しか考えないんだよっ!!!」

 声を荒げていたレイヴンだったが、ヴィルの一言に押し黙る。
 図星だったのだ。

「よく考えろ。お前の家族は本当にそんな事を言うのか? 苦しむお前が、ほんの一時だけ救われるのを、赦さないとでも言うのかよ!!!」
「そ、れは」

 そうだ、二人はそんな事を言わない。
 二人のことなら、俺が一番わかっている。
 
「違う、言う筈がない……」

 だが……、

「だが俺は、本当に赦されるのだろうか……」

「……。ああ、赦すよ。きっと」
 
 そう答える紅髪の少女に、レイヴンはやはり娘の似姿を重ねてしまったが、もう罪悪感は感じなかった。

 自分を赦せたわけではない。
 しかし、はそうでない事を、彼は知っている。

「馬鹿だな俺は……セティ、ノウル」

 強がりの消えた優しい笑顔で彼は、妻と娘の名を噛み締めるように呟いた。
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