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春を寿ぐ旋律 4

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 衣都の右足首は検査の結果、靱帯損傷としては軽い部類で、2週間程度の安静と包帯固定で済んだ。
 治療を終え、病院から旧四季杜邸に戻ると、梅見の会は既に終宴を迎えていた。
 ゲストルームには四季杜一家が勢揃いしており、衣都達が戻って来るのを待っていた。
 関係者が全員揃うと綾子はポツリポツリと話し始めた。

「ずっと紬さんに脅されていたの……」

 綾子は当初こそ響と衣都の関係に驚いたものの、すぐに二人を祝福しようと思い直した。
 しかし、紬の元へ詫びに行くと、にわかに態度が豹変した。ひた隠しにしていた秘密を盾にされ、二人の結婚を白紙に戻すよう強要された。
 その後はズルズルと彼女の言いなりなってしまったそうだ。

「おば様は何を隠していたのですか?」

 衣都は抱いた疑問をそのまま綾子にぶつけた。衣都にとって秋雪と綾子は理想の夫婦だった。
 妻を尊重する秋雪、夫を献身的に支える綾子。二人の間に隠し事などなさそうに見えた。

「私……本当はあの夜、秋雪さんとは何もなかったの!」

 綾子は耐えかねたように叫んだ。

「あ、兄から頼まれたの……。お酒に弱い秋雪さんを酔わせて、既成事実を作ってこいって……。け、経営難のうちの料亭のために……い、慰謝料をもらってこいって……。でも本当は何もしていないの!し、しきたりのことも知らなかった!まさか、結婚することになるなんて……!」

 綾子は顔を手で覆い、おいおいと泣き始めた。
 いまいち状況を把握できなかった衣都は律から詳しい説明を受けたのだった。

 綾子の生家は老舗の料亭を営んでいる。
 各界の著名人が足繁く通う知る人ぞ知る名店だったが、バブル崩壊の煽りをうけ、一時は廃業の危機に陥ったそうだ。
 綾子が秋雪と結婚し、四季杜グループの傘下になることで、抜本的な改革がなされ、経営は持ち直したらしい。
 綾子が言うように、お酒の席での過ちがあらかじめ画策されたものだったとしたら、秋雪が怒り狂うことは容易に想像できた。
 秋雪にそれと知られたくない綾子が、脅しに屈してしまったのも無理はない。
 綾子の兄がうっかり口を滑らせ、紬に秘密を知られてしまったこと自体が、不運としか言いようがない。

 話をすべて聞き終わると、響はことさら大きなため息をついた。

「父さん、ちゃんと自分で説明してください」
「いや、しかし……」
「父さん」

 再度、響に促されると秋雪はコホンと咳払いをして、自責の念に苛まれる綾子の肩に手を置いた。

「綾子、謝るのは私の方だ。響には口止めしていたのだが……私は日本酒一合足らずで前後不覚になるほど酒に弱くない。むしろ、強い方でこれまで一度として酔い潰れたことはない」

 綾子は弾かれたように顔を上げ、秋雪をまじまじと仰ぎ見た。

「正直に話すと、美人局紛いのことは綾子が初めてではなかったんだよ。それで……相手をするのが面倒だから、酔って寝たふりをしていつもやり過ごしていたんだ。だから、綾子とは何にもなかったことは、初めからわかっていたんだ」
「寝たふり……?じゃあ、どうして私と結婚を……?」
「そ、それは……」

 核心に迫ろうとすると秋雪は途端に歯切れが悪くなった。

「……父さん」

 この期に及んでお茶を濁そうとする秋雪を響はジト目で咎めた。
 隠していることはこの際、すべてをさらけ出してしまった方がいい。
 総帥ではなくひとりの男として、妻たる綾子に自分の気持ちを伝えるべきなのだ。

「酔い潰れたと思い込んで甲斐甲斐しく世話をしてくれる綾子が……か、可愛くて……。妻にするならこの人しかいないと確信したんだ」
「秋雪さん……?」
「理由はなんでも良かったんだよ。都合よく慰謝料の話をされたものだから……しきたりを理由に結婚を持ちかけた。そこまで気に病んでいたとは知らなかったんだ。悪かった」
「ああ……!」

 再び涙を流し始めた綾子を秋雪はドギマギしながら抱き寄せた。
 長年夫婦として過ごしていながら、あまりにも辿々しい手つきだった。

 衣都と響、律の三人は互いに顔を見合わせると、そっとゲストルームから離れた。今は二人きりにしてあげたい。

「俺、先に帰りますね」
 
 律はそう言い残し、妻子の待つ自宅に帰って行った。
 衣都と響は旧四季杜邸に残り、大広間のバルコニーで肩を並べ梅園を眺めた。
 よく考えたら、梅見の会の間はゆっくり梅を眺める余裕もなかった。
 芳しい梅の匂いを胸いっぱいに吸い込んでいく。ライトアップされた梅の花は夜露に濡れながらも、健気に咲いていた。

「右足は平気かい?」
「はい。処置が適切だったおかげです。処方された痛み止めがよく効いているみたいです」

 医者の話では無理さえしなければ、すぐに良くなるそうだ。しばらくはマンションでゆっくり養生させてもらおう。

「おば様のお話、本当に驚きました」
「しきたりに従って結婚したとはいえ、三十年以上も連れ添っていたら義務なのか愛情なのか、判別がつきそうなものだけれどね」
「きっとお互いに怖かったんですよ。真実を口に出してしまったら、夫婦を続けられないかもしれないから……」

 それは、かつて衣都が抱いていたものと同じ想いだ。
 臆病で、繊細で、触れたら壊れてしまいそうなほどに儚い。
 単なる他人以上の気持ちを期待してゆらゆら揺れ動く。
 それを、人は恋と呼ぶのだ。
 なんて愛しくて、尊いのだろう――。

「父さんも今回の件で、例のしきたりの廃止に前向きになってくれるだろう」
「じゃあ、私達がしきたりに従って結婚する最後のひと組になるのかもしれませんね」
「そうだね」

 しきたりが正式に廃止されたら、しきたりによって起こった誤解やわだかまりはなくなるのかもしれない。
 これまで散々しきたりに振り回されてきたけれど、いざなくなると聞くと惜しいと感じてしまうのもまた本心だった。
 初めてを捧げた女性を生涯愛し続けていけるのならば、しきたりはそう悪いものでもない。
 衣都は響に改めて向き直り、口を開いた。
 
「あのね、響さん。私、実はしきたりに少しだけ感謝しているんです」
「感謝?」
「しきたりがあったおかげで、しきたりがなくても響さんとずっと一緒にいたいって思えるんです」
「……僕もだよ」

 響は衣都の顔を手で包み込むと頭を傾け、そっと口づけた。

「僕は君が奏でる音色を、ずっと聴いていたいんだ」
「嬉しい――」

 衣都は頬を紅潮させ、響の胸に顔を埋めた。
 ひょっとしたらプロポーズのセリフよりも、嬉しいものだったかもしれない。
 衣都も同じ気持ちだった。
 貴方が奏でる極上の音色が耳から離れてくれない。
 初めて出会ったあの日から、今でもずっと……。



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