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春を寿ぐ旋律 3

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(みんなに迷惑をかけてしまったわ…………)

 応急処置と着替えを済ませた衣都は響に支えられるようにして大広間に向かった。
 律の言う通りだった。
 ズキズキとした右足首の痛みは、時間が経つにつれ明らかに増していた。
 気休めとして市販されている鎮痛剤を飲んだが、痛みは一向に消える気配がない。
 でも、弱音を吐くつもりはなかった。自分の我儘を最後まで貫き通してみせる。
 
「衣都……」

 衣都を支える響の手に力がこもっていく。本当に大丈夫なのかと心配そうに揺れる響の眼差しに、衣都は笑顔で応えた。

「平気です」

 足首の痛みはともかくとして、あんなことがあった後だというのに、心は不思議と静かだった。
 まるでさざなみひとつない穏やかな湖面のよう。
 透き通った水の中に身体を浸し、木の葉のように浮いているみたい。
 思えばこの数ヶ月、激動の日々を送っていた。
 ピアノさえあれば生きていけると思っていたのに、あまりにも多くのものを望んでしまった。
 けれどもう、響のいない人生など考えられない。

 響とともに大広間に足を踏み入れると、衣都は招待客から温かな拍手で迎えられた。
 響が傍に寄り添い、人を掻き分けながら、ピアノまで歩いていく。
 テラスの窓の前には既にグランドピアノが準備されていた。
 スツールに座り、鍵盤を前にすると、一切の雑念が振り払われた。
 招待客のざわめきが遠ざかっていく。
 衣都は大きく息を吸い、愛する人を見つめた。
 そして……。
 
(私にできるのは心をこめてピアノを弾くことだけ)

 ――渾身の力を込めて、鍵盤を指で弾いた。


 衣都がこの日のために選んだのは、春のときめきを表現したピアノ曲だ。
 凍てつく冬はあまりに長く、温かな春が待ち遠しい。
 春を告げるほととぎすを待つように。桜の花びらが綻ぶのを望むように。
 誰しもが春に憧れを持っている。
 衣都のピアノはまるで春を呼ぶための神聖な儀式のようだった。
 若木が萌え、鳥が大空を飛んでいく。梅の木が風に吹かれて、たおやかに揺れていた。
 幾つもの願いをのせた憧れと喜びの旋律が、空気に溶けていく。
 
(おば様にも聴こえているかしら……)
 
 衣都がこの曲にこめた気持ちはちゃんと伝わっているだろうか。
 響のことを愛おしいと思う気持ち。自分をここまで導いていてくれた綾子への感謝の気持ち。
 土蔵に閉じ込められても、恨む気持ちが微塵もないこと。

(どうか届いて欲しい)

 言葉ではうまく伝えられないから、メロディーにのせて届ける。
 大広間にいる誰もが衣都のピアノの音に、聞き惚れていた。
 魂を削り、奏でる春の旋律。
 衣都は死力を尽くし、最後の一音まで完璧に弾き切った。

「衣都」

 曲が終わり茫然としていた衣都は、響に肩を叩かれ我に返った。
 先ほどまで聞こえなかった大広間の音が一斉に耳に飛び込んでくる。
 皆、衣都の演奏を褒め称え、賞賛を惜しまなかった。
 衣都はスツールから立ち上がり、その場で一礼した。
 即座に響が腰に手を添え、割れんばかりの拍手を背にし、退場までエスコートしてくれた。


 大広間から出た途端、どっと疲れが押し寄せてきた。
 ゲストルームに戻る途中、突然身体に力が入らなくなりガクンと膝が抜ける。

「衣都!」

 響がすかさず身体を支えてくれたおかげで、衣都はことなきを得た。

「大丈夫です……!ちょっとふらついただけで……」
「衣都ちゃん……」

 廊下の柱から今にも消えそうなか細い声で衣都の名前を呼んだのは、綾子だった。
 
「おば様……」

 綾子の目は真っ赤に充血していた。もしかして、衣都の演奏をこっそり聴いてくれていたのだろうか。

「ごめんね、衣都ちゃん!貴女に酷いことをしたわ!どうか許してちょうだい……」

 綾子はそう言うと、衣都に駆け寄りぎゅっと抱きしめてくれた。衣都の気持ちは綾子に伝わっていた。嬉しくて、目尻に涙が浮かぶ。

「おば様、もういいんです。そんなに気に病まないでください」

 衣都は子供をあやすように、ポンポンと綾子の背中をたたいた。何もかもをひとりで背負いこんで、思い詰められていく綾子をこれ以上見ていられない。

「おば様、教えてください。土蔵で私の背中を押したのは誰ですか?」

 綾子は弾かれたようにパッと衣都を見上げた。
 あの時、綾子の他にも足音が聞こえた。衣都の敏感な耳は綾子以外の足音を、精緻に聞き分けていた。

「そ、それは……!」
「……とんだ茶番だったわね」
 
 綾子の声を遮るようにして、尾鷹紬がこの場に姿を現した。
 綾子が答えずとも、答え合わせが済んでいく。
 正体不明の足音は、彼女のものだったのだ。
 招待客でもない彼女を敷地の中に入れるよう手引きしたのは綾子だろう。

「綾子さん、いいのかしら?例のあの件、総帥のお耳に入れてしまって……」
「いやっ!もうやめて……!」

 綾子は耳を塞ぎ、その場に崩れ落ちた。尋常ではない怯え方だった。
 綾子を虐げた紬の唇が満足げにニンマリと優美な弧を描いていく。
 例のあの件……とは何のことだかわからないが、綾子が秘密を盾に脅されていることは理解できた。
 衣都は紬をキッと睨みつけると、おぼつかない足取りで前へと進み出た。
 次の瞬間、パーンと破裂音が廊下に鳴り響く。
 衣都の渾身のビンタは、紬の左頬に見事命中した。
 
「何するのよ!」
「これでおあいこでしょう?文句を言われる筋合いはないはずだわ」

 怒りがふつふつと湧き上がり、自分でも制御できそうもなかった。
 
「おば様を脅して言うことを聞かせようとするなんて!最低だわ!」
「ハッ。言って……くれるじゃない……!」

 紬は衣都を鼻で笑った。
 恨まれるのが自分だけならともかく、綾子まで巻き込んだことがどうしても許せなかった。
 二人は睨み合いを続けたまま、動こうとしなかった。


「衣都、やめるんだ。彼女には然るべき手段で、報いを受けてもらうべきだ」

 相手にするなと響が冷静に口を挟んだが、衣都は聞く耳を持たなかった。
 そのまま醜いキャットファイトが始まるかと思いきや……。
 
「何の騒ぎだ!」

 肩を怒らせた秋雪と、足止めに失敗し申し訳なさそうに眉を下げた律がその場に走り寄ってきたのだった。
 
「秋雪さん……」
「綾子、お前……」

 秋雪は綾子がこの場にいることに、心底驚いていた。
 
「ごめんなさい秋雪さん!私がいけなかったの!あの日からずっと貴方を……騙して……いました……」
 
 綾子は意を決したように秋雪を真っ直ぐ見つめ訴えかけた。秋雪はきょとんと目を丸くするばかりだ。
 
「一体何の話だ?」
「綾子さん!」

 紬は声を荒らげ、綾子を止めようとしたが……。

「私はもう……貴女のいいなりになって衣都ちゃんと響を困らせたくない。秋雪さん、貴方にお話しなくてはいけないことがあります」

 綾子はきっぱりとした態度で、彼女を跳ねつけた。衣都の演奏が綾子の心を変えたのかもしれない。
 切り札があっけなく失われて、紬は歯軋りをした。

「ハッ!どこまでも気持ちの悪い一族!しきたりなんかに振り回されて滑稽だわ!あんた達なんかこちらから願い下げよ!」

 紬は分が悪いと悟ると捨て台詞を吐き、逃げるように立ち去って行った。
 久方ぶりに訪れた静寂を破ったのは律だった。

「衣都、お前は今から病院に行くぞ。車を待たせてある」
「でも……」

 梅見の会はまだ終わっていない。
 なにより、あの状態の綾子をひとりにさせるわけにはいかない。後ろ髪を引かれるような思いがした。

「衣都ちゃん。私ならもう平気よ。もう覚悟は出来ているの」

 胸のつかえがすべてなくなった綾子はいつものひだまりのような笑顔で衣都を送り出した。


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