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春を寿ぐ旋律 2
しおりを挟む響は土蔵から衣都を連れ帰り、ゲストルームで律が医師を連れてくるのを待った。
しかし、待てど暮らせど戻ってくる気配がない。
……当たり前だ。
招待客は政財界の人間ばかりだ。医師免許を持っている人間などいるはずがない。
プログラムを一部変更し、衣都の出番を遅らせたが、同じ手は二度は使えない。
響は頭の中である決断を下した。
(今回は諦めよう)
ピアノを弾くためには鍵盤の他にも、足元にあるペダルを操らなければならない。右足を負傷した状態でピアノを弾くなんて無理な話だ。
ところが、衣都は演奏を中止にする気はさらさらないようだ。
「響さん、テーブルの上の譜面を取っていただけますか?」
「無理しない方が良い。演奏は中止にしよう。父さんにもそう伝えてくる」
「中止にはしません!右足がダメなら左足でペダルを踏みます!だから……!」
「衣都……」
衣都の気持ちはよくわかった。この日のために練習を積み重ねてきたのだ。悔しいに決まっている。
秋雪から次のチャンスが与えられるかも、今のところはわからない。
それでも響は自分の決断を翻すつもりはなく、衣都も頑として首を縦に振らなかった。
互いに譲らず、事態が硬直し始めたその時、律がひとりの男性を連れて戻ってきた。
「怪我人はこちらの女性ですか?」
律が連れていた男性は、あるスポーツ用品メーカーの重役だった。確か、トライアスロンが趣味で、大きな大会で優勝した経験もあったはずだ。
スポーツ経験者なら、足の捻挫には詳しいだろう。
響は律の機転に舌を巻いた。
「ちょっと立ってみてください」
男性に促されると、衣都はそろそろと立ち上がり、地面に足をついた。痛みはあるが、立てないことはないようだ。
「骨は折れてなさそうですね。とりあえずRICEしましょうか。すみません、氷水を持ってきていただけますか?」
男性は律に必要なものを指示し、それが届くとテキパキと応急処置を始めた。
手際よく患部を冷やし、タオルと椅子で足首を心臓よりも高い位置にあげていく。
「ありがとうございました。もう平気です」
ひと通りの処置が終わり立ちあがろうとした衣都を律が慌ててその場に押しとどめた。
「無理すんなよ!今は痛くないと思っても、後から痛みが増してきたらどうすんだよ!」
「私はピアノを弾かないといけないの!」
苦痛に耐えながらも、衣都の瞳は爛々としていた。
響すら圧倒する燃え立つような激しいオーラに、思わず全身が総毛立つ。
妻にと望む女性の奮い立つ姿に、響はただただ魅力されていた。
響が惚れ込んだのはまさしく、この勇ましい姿だった。
「本当にやるんだね?」
「……はい」
改めて決意を尋ねると、衣都は何の迷いもなくそう答えた。こうなったら、衣都は響の言うことなど聞かないだろう。
「何を馬鹿なことを言ってんだ!さっさと病院に……!」
「律」
響は妹の無茶を止めようとする律を左手で制した。
衣都の好きにやらせてあげたい。いざという時は責任は自分がとるつもりだった。
律はすっかり困り果てていたたが、やがて諦めたように顔をあげ、男性に声を掛けた。
「テーピングもお願いできませんか?必要な物は、こちらで用意しますので……」
テーピングの準備をする間、響は衣都とこの後の段取りを確認した。
「ピアノまでは僕がエスコートする。なるべく僕に寄りかかって身体を預けてくれ」
「はい」
「靴も踵が低いものに履き替えよう。すぐに用意させる」
テーピングの準備が整うと、衣都は右足首を固定してもらった。
律はテーピングをしてもらっている衣都のかたわらで苦々しげに叫んだ。
「演奏が終わったら絶対に病院へ連れて行くからな!」
「ありがとう、兄さん……」
衣都にお礼を言われた律は、更に渋い顔つきになった。
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