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春を寿ぐ旋律 1

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「おば様!扉を開けてください!」

 衣都は扉の向こうにいる綾子に必死で訴えた。

「ごめんなさいね、衣都ちゃん……。私を許して……」

 啜り泣く綾子の声が次第に遠ざかっていく。
 閂で塞がれた扉は押しても引いても開かなかった。
 衣都はなす術もなく、扉の前でくずおれた。

(どうして、おば様……)
 
 梅見の会でピアノを披露できなければ、衣都を花嫁に選んでくれた響の面目は丸潰れになる。
 そうなったら終わりだ。秋雪が衣都に二度目のチャンスを与えるとは思えない。

(どうしよう……!)

 助けを呼ぼうにもゲストルームに衣都がいないことを知っているのは綾子だけだった。
 響も他の招待客も全員大広間で酒宴を楽しんでいる。
 迂闊なことにスマホも置いてきてしまった。

(どうにかしてここから出ないと……)

 衣都は薄暗い土蔵の中を見回した。
 出入口はあの開かずの扉がひとつ。窓らしき窓は、衣都の頭上四メートルほどの位置にある明かり取り用の小さな窓だけだ。
 土蔵の中には、古びた椅子や木箱、行李などが保管されていた。
 これらを積み上げたら、明かり取りの窓に手が届くのではないか。衣都の体格なら、身を乗り出せば外に出られそうだ。柱に縄をくくりつけて、窓の上から外に落としておけば、縄を頼りにして安全に降りられるかもしれない。
 ただし、万が一途中で体勢を崩したら無事ではすまないだろう。
 それでも……。

(私は……響さんと結婚するって誓ったのよ)

 クルーズ船での約束を忘れるはずがない。衣都の目に迷いはなかった。

 ◇

「衣都……?」

 衣都の様子を窺いにきた響はもぬけの殻になったゲストルームを見て愕然とした。

「衣都、どこにいる?」

 パウダールームにも、トイレにも、バルコニーにもいない。
 テーブルの上には広げたままの譜面とスマホが放置されていた。
 さきほどまでこの場にいたことは確かなのに、一体どこに消えたというのだろう。
 荒らされた形跡もないことが、違和感に拍車をかけた。

(嫌な予感がする……)

 胸騒ぎがした響はすぐさまゲストルームに律を呼んだ。

「衣都がいない?大広間にもいませんよ」

 衣都の行方を尋ねても、律は心当たりがないという。
 二人は互いに顔を見合わせた。
 本番の時間まであと三十分を切っている。
 これが何を意味するか、わからないほど呑気ではない。

「律、衣都を探してくれ。くれぐれも父さんに見つからないようにな」
「……わかりました」

 優秀な律はすぐさま警備担当に電話をかけ、人手を募り始めた。

 本音を言うのであれば、今すぐ自分も衣都を探しに行きたい。しかし、響が長時間いなくなったら、秋雪に異常を察知されてしまう。
 響は身を切られるような思いで大広間に戻った。
 ゲストと談笑する頭の片隅で、自由にならない身の上をひたすら恨む。

(どうか無事でいてくれ……)

 衣都が見た目通りのただ大人しい女性だったら、こんなに夢中になったりしない。
 あの日、怒りをすべてピアノにぶつけていたように、身の内に激しいものを持っていると知っているからこそ、無茶をしないか心配でたまらないのだ。
 
「響さん」

 衣都を探しに行っていた律が、そっと響に呼びかける。険しい表情からして、いい知らせではなさそうだ。
 律は人目を憚るように、耳打ちをした。

「……本当か?」

 律が持ってきたのは、梅見の会を欠席したはずの綾子を発見したという報告だった。


「母さん!」
「ああ、響……」

 椅子に座っていた綾子は、響がやってくると、顔を上げ涙ぐんだ。
 綾子は旧四季杜邸と同じ敷地内にある使用人住宅の一室で保護されていた。
 
「梅園のベンチにひとりで座っているところを発見されたそうです」
「そうか」

 響は綾子をまじまじと見下ろし、母親の変わり果てた姿に驚いた。
 唇は青紫色に変わり、温かい部屋の中に連れてこられてなお、ブルブルと身体を震わせている。
 すっかり憔悴していて、まるで生気がない。
 響は綾子の前に跪いた。
 
「母さん、何があったんです?なぜここに?今日は来ないとばかり……」

 綾子は口を噤んだまま何も答えようとしなかった。
 ……おかしなことがふたつも続けば、それは必然だ。
 本来なら、諭し、おだて、懐柔して、言葉巧みに自白するよう誘導するが、今はとにかく時間がない。
 響はあえて核心をついた。
 
「衣都をゲストルームから連れ出したのは母さんですね?彼女はどこにいるんですか?答えてください」
「し……知らないわ~!」

 綾子はふいと顔を背けた。明らかに目が泳ぎ、呼吸が荒くなっている。


(相変わらず嘘が苦手な人だ)

 しらばっくれていても、顔を見れば嘘をついているかどうかわかってしまう。綾子は響と違って、生来の善人なのだ。
 嘘をつくことにも、他人を陥れることにも慣れていない。……衣都と似ている。
 響は率直に自分の本心を伝えた。

「母さん、貴女は衣都がどんな想いで屋敷に通っていたかご存知ですか?彼女は打算も策略もなしに、『おば様に認めてもらいたい』とその一心だったんですよ」

 綾子との不和に思い悩み、来る日も来る日も屋敷に通い詰めた衣都を思うと不憫でならなかった。

「衣都をどこにやったんです……!母さん、お願いです。教えてください!」

 最後の方はとても平静ではいられなかった。
 普段は己を律し、取り乱すことのない響の切実な訴えは、凍てついた綾子の心をゆっくりと溶かしていった。
 
「ど、土蔵に……」
「土蔵?」

 土蔵と聞いて思い浮かべる場所はひとつしかない。
 敷地の東側には、案内図にも記されていない土蔵がある。
 子供の頃、敷地内を散策していた時に遊び半分で忍びこんだことがあった。
 どんな宝物が出てくるかワクワクしていたのに、土蔵の中には四季杜家の歴代当主が集めた骨董品や趣味のガラクタしかなくがっかりした。
 あんなに暗くて狭いところに衣都がひとりで閉じ込められている?
 居ても立っても居られなくなり、響は部屋の中から飛び出していった。


「響さん!」
「話は後だ。衣都を助けに行く」

 あとを追いかけてきた律と一緒に、土蔵まで敷地内を走り抜けていく。
 息を切らしながらたどり着いた土蔵には、外側から閂がしてあった。
 埃が拭われた跡は新しく、つい最近開けられたことを意味していた。
 響は閂を抜き取り、祈るような思いで扉を開いた。
 そして、真っ先に目に飛び込んできた光景に唖然とした。
 衣都は土蔵の中にあった木箱を積み重ね、その上によじ登っていたのだ。
 
「衣都!何をしているんだ!」
「響さん……?」

 自分の身を顧みない危険な行為に思わず声を荒らげた。……これが失敗だった。
 
「きゃっ!」

 集中力を切らした衣都が体勢を崩し、ガラクタごと崩れ落ちたのだ。

「衣都!」

 響はガラクタを掻き分け、衣都を必死で掘り起こした。木箱はいくつか壊れ中身が割れていたが、今は衣都の無事を確認するのが先だ。

「大丈夫かい!?」
「ええ……」

 衣都に目立った外傷はなく、響は心の底から安堵した。
 しかし次の瞬間、衣都の顔が苦痛に満ちた表情に変わった。

「いっ……!」
「どこが痛い?」
「み、右足が……」

 落ちた拍子に足を捻ったのか、衣都は痛そうに右足をさすった。これから大事なピアノ演奏を控えているというのに、まさかの出来事だった。

「医者を探してきます!」

 律はすぐさま旧四季杜邸の母屋に走って行った。


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