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カウントダウン 4
しおりを挟む「この人は?」
「高瀬物産の……えっと……。下河原さん?」
「趣味は?」
「ゴルフとウイスキー」
「……まあ、いいだろう」
律から招待客リストの暗記を試されていた衣都は、無事に合格点をもらえて満面の笑みを浮かべた。
「本番は明後日か。あっという間だったな」
「うん」
分厚い招待客リストを抱えながら律のマンションに通うのも、これで最後かと思うと感慨深かった。
兄妹ふたりきりで過ごす時間もこれっきりなのかもしれないと、突然寂しさにも似た感情に襲われる。
……ブラコンのようで恥ずかしいけれど。
衣都は本音を押し隠すようにダイニングテーブルの上に置かれたマグカップに口をつけ、温かい緑茶を胃の中に流し込んだ。
「綾子さんの説得はできたのか?」
衣都はにんまりと口角を上げ、鼻高々で頷いた。
「出席してくださるそうです」
「そうか。そりゃ良かったな」
律はテーブルから身を乗り出しおざなりに衣都の頭を撫でたかと思うと、姿勢を正し急に真顔になった。
「衣都、お前に伝えておきたいことがある」
「どうしたの?急にかしこまって……」
律は謙虚や礼儀という言葉とはとことん無縁の男だ。
かしこまった姿なんて、オスの三毛猫ぐらい珍しい。
「お前の部屋を荒らした犯人が捕まった」
衣都は息を呑んだ。
先ほど飲んだ緑茶が逆流しそうなほど、胃の中がずしりと重くなっていく。
「被害届は提出しなかったはずでしょう?」
「響さんがマンションの管理会社に被害届を提出するよう根回ししたんだよ。被害者が四季杜に縁のある女性とわかれば、警察も真面目に捜査するさ」
律はあえて業務連絡のように淡々と説明した。
「逮捕されたのは、二十代の男性二人組。SNSでいいアルバイトがあると、誘われたらしい。依頼人は衣都の部屋を荒らした写真を送ると、報酬を倍にしてくれたそうだ。随分と景気のいい話だよな?」
つまり、犯行は無差別ではなく、意図的に行われたということだ。
足がつかないようにSNSで人を集めるくらいだ。手慣れているのか、かなり頭がいい。
わざわざ他人を雇い衣都に嫌がらせをするほど、恨みを募らせている人物はそう多くはない。
「それから、響さんから頼まれて、例の教え子の母親の交友関係も調べた。半年ほど前から尾鷹紬が主催するサロンに頻繁に足を運んでいたようだ」
律は黒幕は尾鷹紬に違いないと暗に示してた。
一連の出来事の関連性を指摘され、衣都の表情がこわばっていく。
響の予想は最も最悪の形で当たったことになる。
「気をつけろよ。まだ何か仕掛けてくるつもりかもしれない」
「うん。心配してくれてありがとう、兄さん」
衣都には律の忠告の意味が手に取るように分かった。
まだ事件は終わっていないのだ。むしろ、これからが本番なのかもしれない。
(私達、本当に無事に結婚できるのかしら……)
すべてが順調に回り始めているというのに、どうあっても不安が拭えない。
今はただ、梅見の会を無事に終えられることを祈るばかりだった。
◇
梅見の会の当日。
天気は清々しいほどの晴れになった。
先日降り積もった二センチほどの雪もすっかり溶けてなくなり、早咲きの梅の花が嬉しそうに凛と空を見据えていた。
「すごい数の梅の木……」
衣都と響は準備のため、早朝から現地入りした。
数十年ぶりに旧四季杜邸を訪れた衣都は、立ち並ぶ数百本の梅の木に圧倒されていた。
職人の手によって日頃から丹念に手入れされている梅園は、ちょうど見頃を迎えていた。
夜露で濡れ、朝日で光る梅の花。
桜のような華やかさはなくとも、控えめで愛らしい梅の花は素朴で慎ましく感じられた。
梅見の会が開催される旧四季杜邸は大正時代に建築された、鉄筋コンクリート造りの洋館だ。
その設計には本場で学んだ建築家が携わり、当時では珍しいヨーロッパの上級階級を思わせる邸宅は、華やかで品があり、数十年が経った今でも多くの人に愛されている。
たびたび歴史の表舞台にも登場し、政府要人との会合や、海外からの賓客のもてなしに使用された。
四季杜家は大戦を機に、住まいを現在の場所に移したため、都心の一角にある広大な敷地と屋敷は現在、結婚式や会食などの用途で一般に貸し出されている。
ただし、旧四季杜邸を借りられるのは、社交界でも品格と功績が認められた一部の人間だけであった。
「うわあ……!」
旧四季杜邸の内部に足を踏み入れた衣都はビロードの絨毯が敷かれた大階段を見上げ、感嘆の声をもらした。
廊下を歩けばアンティークの調度品が、お行儀よく揃って出迎えてくれた。
メイン会場となる二階の大広間にはグランドピアノが設置されている。
普通の住宅よりは天井が高い分、音の響きがよさそうだ。
ピアノの音を想像しながらフラフラ歩いていると、響に肩を抱かれる。
「今日は出来る限り君の傍にいるからね」
「でも……」
今宵の響はホストのひとりでもある。
招待客の相手に、プログラムの段取りと、本来なら衣都にかまけている余裕はないはずだ。
いくらなんでも招待客が大勢いる中で乱暴なことはできやしない。
面倒をかけることにためらいを覚える衣都に対し、響は一切表情を崩さずこう言った。
「君に何かあったら僕は生きていけないって、ちゃんと自覚しているのかい?」
不意打ちを食らった衣都の顔は耳まで真っ赤に染まった。
最大級の愛の台詞は脚色ではなく、本気でそう思っているからこその破壊力があった。
「わかりました……」
観念した衣都が渋々頷いたその時、大広間の扉がギイッと軋んだ音をたてながら押し開かれた。
「やあ、衣都ちゃん。調子はどうだい?」
「おじ様!」
片手を上げた秋雪が靴音をかき鳴らしながら、こちらにやってくる。
軽く会釈した衣都は異変にすぐに気がついた。
秋雪の傍らにいつも寄り添っている綾子の姿がどこにも見当たらない。
「あの……おば様は?」
「私も一応、出がけに声はかけたのだけれどね……」
秋雪はバツが悪そうに、頭を掻いていた。秋雪もまさか綾子がここまで意地を張ると思っていなかったのだろう。
(そんな……!)
崖から真っ逆さまに突き落とされたような絶望的な気持ちだった。
出席すると言っていたはずの綾子が約束を違えた。
(ううん。決めつけるのは早いわ。まだ時間はあるもの……。きっと後から来てくださるわ)
しかし、衣都の願いも虚しく、招待客を建屋の中に招き入れる時刻になっても、綾子は姿を見せなかった。
「衣都、そう気を落とさないで」
「わかっているわ、響さん……」
予定の時刻になり、大広間には着飾った大勢の招待客が集まっていた。
バルコニーのカーテンは開け放たれ、窓からは美しい梅園が一望できた。
綾子不在の中、梅見の会が始まろうとしている。
既に着替えを済ませタキシード姿の響は、落胆する衣都を慰めるように背中をさすった。
四季杜に嫁入りする人間として、与えられた役目は果たすべきだ。
たとえ綾子がいなくても、招待客に恥じない演奏をしなくてはならない。
「本日はどうぞお楽しみください」
秋雪によって会の始まりが華々しく宣言されると、衣都は響の隣を定位置にして会場中を挨拶して回った。
(パーティーって大変……!)
かつては良家の子女でもあった衣都だが、本格的な社交会は初めてだった。
ホストを務める四季杜家の面々は、目の回るような忙しさだった。
四季杜家と交流を深めたい人達は大勢いる。
響は招待客ひとりひとりと談笑しながら、余興の采配から、グラスの空き状況までさりげなく気を配っていた。
まるで聖徳太子のような早業だった。とても真似できない。
更に衣都を困らせたのは、皆が口をそろえて綾子はどこかと尋ねてくることだった。
気さくでいつも笑顔を絶やさない綾子は招待客の誰からも愛される存在だった。
……衣都など足元にも及ばない。
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