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不協和音 4

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 ◇

「あのさあ……。覚える気、あんのか?」

 この日、衣都は招待客リストどこまで覚えたかテストしてもらうために、律のマンションを訪れていた。
 結果は、散々なものだった。
 教室を休むことになり時間はたっぷりあったはずなのに、ひとつとしてまともに回答できず、お叱りを受ける羽目になった。

「あのなあ、衣都。暇そうにみえるけど、俺だってまあまあ忙しいんだぞ?」
「ごめんなさい……」
「早めのマリッジブルーかなんか?響さんも、『衣都の様子が変だ』って心配してたぞ」

 響の名前が出てきて、ドキリと心臓が跳ね上がる。
 マリッジブルーという単語で済ませられるなら、まだよかったのかもしれない。
 ぎゅっと唇を噛み締める衣都を見て、律は気休めを口にした。

「結婚が嫌になったらやめてもいいんだぞ?多少周りから白い目で見られるかもしれないけど、没落した三宅の人間なんてどうせ大昔に忘れられてる。どっちにしろ眼中にないだろうし、困ることもない」

 口では結婚をやめてもいいと言ってはいるが、『四季杜海運』に務める律にとって、破談はひとごとではないはずだ。
 律には愛する妻と養うべき子どもがいる。
 律にここまで言わせてしまったことについては、衣都に責任があった。

「心配かけてごめんなさい。次はちゃんと覚えてくるわ」
「そうか。じゃあ頑張れよ」

 律は無理に何があったのか聞き出そうとはしなかった。
 反省の意を示すと、グシグシと無遠慮に頭を撫でられた。
 衣都にとって律はいつまで経っても子供扱いしてくれる、無条件で甘えられる存在だった。

「飯、食ってくか?昨日の残りのカレーだけど」
「奥さんは?」
「子供と一緒に出掛けてる。ママ友とカフェランチするんだと。夕方には戻ってくる。衣都に会いたいって言ってたぞ」

 衣都は律が作ったと思しき残り物のカレーをいただくことにした。
 律が作った料理を食べるのは、律が結婚し、衣都と別れて暮らすようになった時以来だった。
 ところが、兄妹水入らずのホッと安らげる時間は瞬く間に終わりを告げた。
 カレーを食べ終わりシンクに食器を片付けていると、衣都のスマホが鳴り始めた。
 相手は誰かと画面を覗き込むと、衣都のマンションの管理会社からだった。

「もしもし?」

 不審に思いながらも電話をとった衣都は信じられない知らせを耳にした。

「どうした?」

 ただならぬ事態を察知した律から、何があったのか話すように急かされる。
 衣都は真っ青になり、浅い呼吸を繰り返した末にやっとの思いでこう告げた。

「私が住んでいた部屋が……誰かに荒らされたみたいなの……」



 二人は衣都の借りていたマンションに急行した。
 入口で管理会社の人間と落ち合い、現状確認に向かう。
 
「なにこれ……」
「ひでーな」

 衣都の部屋の扉には赤いペンキで『売女』と大きく書かれていた。
 鍵は無理やり壊され、もはや防犯の役割を果たしていない。
 ……部屋の中はもっと酷かった。
 クローゼットや引き出しの中身はすべてひっくり返され、足の踏み場もなかった。

「ピアノが……!」

 衣都の悲痛な叫びが、部屋の中にこだまする。
 愛用していたアップライトピアノは、バケツの水を逆さにしたようにぐっしょりと濡れていた。
 その上、ヘドロのようなひどい汚れがこびりついていて、とんでもない悪臭を放っていた。これでは二度と使い物にならない。

(あんまりだわ……!)

 律と管理人は協議の上、警察を呼んだ。
 この短期間で二度も警察のお世話になるとは、衣都自身、夢にも思わなかった。
 律からも警察からも被害届を提出するようにすすめられたが、衣都は頑なに首を横に振った。
 ……犯人は例の母親かもしれない。
 万が一、想像通りの結果だった場合、悲しむのは衣都の教え子だ。
 衣都の荷物のほとんどが響のマンションに運び終わった後だったことは不幸中の幸いだった。
 ……ピアノを除けばの話だけれど。


 現場検証を終えた警察が帰って行くと、律は変わり果てた部屋の中を眺めて、大きく息を吐いた。

「とりあえず、ピアノを含め、荷物は全部処分ってことでいいよな?」

 衣都は無言で頷いた。
 割れたマグカップの欠片を拾い集めながら、泣きそうになっていた。
 大切な……本当に大切なアップライトピアノだった。
 四季杜の屋敷を出て、音大に入学した衣都に律が買い与えてくれたものだ。
 当時、株式の配当金とアルバイトで生計を立てていた律にとって、ピアノは決して安い買い物ではなかったはずだ。
 衣都は思い入れのあるピアノを二度と弾けない状態にされた怒りと悲しみを持て余していた。
 そんな最中、律のスマホが鳴る。

「お、響さんだ。ちょうどよかった」
「ダメ!」

 着信相手が響と聞くやいなや、衣都は弾かれたように立ち上がり、律から無理やりスマホを奪い取った。
 着信音はしばらく鳴り続け、やがてピタリと聞こえなくなった。

「……どうした?」

 スマホを奪われた律は呆気に取られていた。

「お願い!響さんには言わないで……」
「どうしてだ?」
「響さん、すごく忙しいんだもの。こんなことで手を煩わすわけにはいかないわ……」

 響は港湾ストライキの対応と並行し、イーグル商事に代わる新規取引先との契約に奔走している。
 帰宅の時間も遅く、出張という名目で地方に出掛けることも多くなった。
 ……彼が嘘をついていなければ。


「こんなことって……。あのなあ、衣都。惚れた女が大変な目に遭ったってことを後から知らされる男の身にも……」
「本当に私のことを愛しているかわからないじゃない!」

 律は驚きで目を丸くしていた。
 響の愛情を疑い声を荒らげる衣都の様子に、普段とは違うものを感じたのだろう。

「……おい。本当にどうしたんだよ?まさか本気で言っているわけじゃないよな?」

 律は心配そうに衣都の瞳を見つめていた。
 いつも飄々としている律の本気の困り顔を見ていたら、何かがぷつりと切れてしまった。

「兄さん……。私……もうどうしていいのか……っ!」

 衣都は律の胸の中で、さめざめと泣いた。
 短期間に色々なことがありすぎた。
 この結婚はかりそめのものであり、講師の仕事は奪われ、思い出のピアノは処分しなくてはならない。
 その全てが衣都に重くのしかかり、身動きが取れなくなっている。

 衣都は律にすべてを打ち明けた。
 デートに向かう途中で、紬と遭遇したこと。
 紬が女性とホテルの客室に入る響の写真を手にしていたこと。
 生徒の父親と不倫していると疑いをかけられ、教室を休むように言われたこと。
 響のことを信じたいのに、信じられないこと。


 衣都が抱えていたものを受け止めきった律は、手を額にやり天を仰いだ。
 
「そういうことか……。まさか、隠し撮りされていたとはな……」
「心当たりがあるの?」
「俺の口からは言えない。こればかりは本人に聞いてくれ」

 律はそう言うと、響の秘書として沈黙を守り続けた。
 結局、最後まで真実は教えてもらえなかった。


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