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不協和音 3

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 女性が暴れた理由が分かったのは、更に二日後のことだった。
 先日の出来事を鑑みて、週明けまで臨時休業となったにも関わらず、衣都は和歌子から教室に呼び出された。

「わざわざ呼び出してごめんなさいね、衣都先生」
「和歌子先生……」

 数日前のことなのに、和歌子の顔には疲労が色濃く残っていた。心なしかやつれたようにも見える。
 和歌子は応接室スペースの椅子に腰掛けるようにすすめてくれた。


「昨日、ユウくんのお父様から丁寧な謝罪がありました」

 和歌子は即座に本題に入り、衣都に彼女の正体について教えてくれた。
 彼女は衣都の受け持っている生徒の母親だったのだ。
 衣都の記憶が正しければ、お迎えは父親か祖父母ばかりで、母親は一度も教室にきたことがないはずだ。
 その理由は、すぐに明らかにされた。

「ユウくんのお母様は、長い間心を病んで伏せっていらしたそうよ」

 父親の話によると、彼女は元々、精神的に不安定であり、寝たきりになったり、元気になったりを何度も繰り返していたらしい。

「それがなぜ急に……?」

 いきなりあのような凶行に及んだのだろう。
 もちろん、衣都が生徒の父親と不倫をしたという事実は一切ない。
 精々、送迎の際に世間話やレッスンの様子を話すくらいだ。

「わからないわ。何を聞いても、『あの女が悪い』と衣都先生を名指ししているそうよ」

 衣都と自分の夫が不倫をしているという妄想に取り憑かれているのだと思うと、背筋がゾッとした。

「お父様から、今後はこんなことがないようにするから、示談に応じて欲しいとお願いされたわ。被害に遭われた衣都先生には悪いのだけれど、今回は受け入れようと思うの」
「私も示談で構いません」

 幸いなことに衣都は床に突き飛ばされたくらいで、大した怪我は負っていない。物的被害にあった教室の経営者である和歌子が示談に納得しているなら、それでいい。

 事件の落とし所が見つかり、ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間。
 気まずそうに和歌子から告げられたのは、まさに寝耳に水の話だった。

「それでね……。衣都先生にはしばらく教室を休んでもらいたいの」

 戸惑いと絶望が胸の奥に広がっていく。
 なぜ、自分が休まなければならないのか。どうしても理解できなかった。
 
「……なぜですか?」

 理由を尋ねると和歌子は疲れ切ったようにうなだれた。

「どうやら、衣都先生が保護者の男性や生徒さんに色目を使っているって噂があちこちで出回っているらしいの……。あなたがそんなことをするはずないって、もちろんわかっているわよ?婚約のことも聞いているしね。でもね、この間の騒動についても、保護者の方から安心して預けられないって何件かクレームがきているのよ」

 衣都は顔を伏せ、爪の痕が残るほど拳を固く握りしめた。
 和歌子の心痛の原因は、例の事件ではなく、こちらが本命だったのだ。

「梅見の会も控えているし、ほとぼりが冷めるまでしばらくお休みしてもらうのがいいのかと思って……」
「お気遣い……ありがとうございます」

 衣都は粛々と首を垂れた。
 これ以上、何が言えよう。
 和歌子はコスモスハーモニー音楽教室の経営を担っている。悪評がたって困るのは衣都ではなく、和歌子なのだ。
 恩師でもある和歌子に駄々をこね、迷惑をかけるわけにはいかなかった。
 クビにならないだけましだと、自分を慰めるしかない。
 
「梅見の会には私も招待されているの。あなたのピアノが聞けるのを楽しみにしているわ」

 和歌子は最後に、気遣うように言ってくれた。

 ◇

(なんでこんなことになってしまったの……?)

 悲痛な心の叫びには、誰も答えてくれなった。
 心ここに在らずの状態で電車に乗り、機械的にレジデンスに帰ると、そこには帰国した響が衣都を待ち受けていた。

「おかえり、衣都!」
「響さん……。お帰りなさい」

 衣都はしまったとばかりに、慌てて笑みを顔に貼り付けた。
 帰国の日を連絡してもらっていたのに、事件のせいですっかり頭の中から抜けていた。

「会いたかった……」
「……私もです」

 響は衣都をぎゅっと抱きしめると、二週間分のスキンシップに興じた。
 額、瞼、頬へと上から順に口づけ、最後には唇を塞いでいく。
 衣都は目を瞑り、黙って身を任せた。

「すれ違わなくてよかった。早く会いたかったから、教室まで迎えに行こうかと思ってたんだよ」
 
 うっかり心臓が止まるかと思った。教室まで迎えにこられていたら、臨時休業のことが知られてしまうところだった。

「どうしたんだい?」
「ううん!なんでもないです!部屋でコートを脱いできますね」

 パタンと自室の扉を閉めると、ずるずるとその場にへたりこんでしまう。

(響さんには言えない……)

 不名誉な噂のことを響に相談したら、婚約の話がなかったことになるかもしれない。
 そんなことになったら、生きていけそうもない。

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