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不協和音 1

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 衣都は軋む心に鞭を打ち、十五分もかけて、体調が優れないからデートをキャンセルしたいと響にメッセージを送った。
 すると、即座に電話が掛かってきた。
 
『衣都、大丈夫かい?熱は?病院には行った?』
「熱はありません。少し疲れが出たみたいで……。少し休めば良くなると思います」
『最近、色々と予定を詰めこんだせいかな?僕のことは気にせずゆっくり休んで。今日は早めに帰るから』

 電話を切ると、衣都は大きなため息をついた。
 身体を気遣う優しい台詞が余計に衣都を苦しめていく。
 響は相変わらず衣都に優しかった。
 突然の予定変更にも文句ひとつ言わない。
 楽しいデートの計画を台無しにしてしまった罪悪感で胸が締めつけられる。
 しかし、衣都はすべてを隠し平然とデートができるほど、神経が図太くできていなかった。
 幸いなことに、紬に叩かれた頬は氷で冷やすと徐々に腫れが引いていった。
 この分なら、響が帰ってくる頃には、すっかり元通りの顔に戻っているだろう。
 ……問題は心に負った傷の方。
 見た目の傷とは違って、心の傷はそう簡単には塞がらない。


(どうしたらいいの……?)

 衣都は自室のベッドに横になり、小さくうずくまった。
 胸に渦巻くどす黒い気持ちを吐き出すように、シーツを固く握りしめる。

 紬の話を聞いて、正直ショックだった。

 響が何人もの女性と遊び歩いていたことはもとより、"初めて"だと嘘をつかれていたことに、ひどく打ちのめされている。

(愛していると言ってくれたのも嘘なの……?)

 性急な結婚話の真相を本人に直接尋ねる勇気はなかった。
 ひょっとしたら、一緒に暮らしている今でも、他の女性と関係を持っているのではないか?

(そんなの嫌っ……!)

 響の熱い吐息を、甘く囁く声を他の誰かに知られていると思うと、絶望しか感じられない。
 名前もわからない女性達に対する嫉妬の炎で焼き尽くされそうだ。
 ひとつ疑い出したら、あれもこれも嘘だったのではないかと簡単に揺らいでしまう自分が嫌だった。

(何も考えたくない……)

 衣都は現実を受け入れるのを拒絶し、ぎゅっと固く目を瞑り、耳を塞いだ。
 そうしているうちに、いつの間にか寝入ってしまったのだった。


 ガタンと何かの物音がして、衣都はまどろみの中から目覚めた。
 ベッドから窓を眺めるとカーテンの向こう側はすっかり暗くなっている。スマホで時刻を確認すると夜の九時を過ぎていた。

(響さんが帰ってきたのかしら?)

 デートをキャンセルしたことを謝ろうと、衣都はベッドから起き上がり、ドアノブに手をかけた。しかし、扉を押し開く前に異変に気がつき、動きをとめた。
 ……響とは異なる話し声がもうひとつ聞こえてくる。

「本当にしきたりを廃止するつもりですか?」
「ああ、そうだ」

 響に質問を投げかけているのは律だった。
 衣都は扉に耳を当て、神経を研ぎ澄ませた。
 今、しきたりを廃止すると聞こえた。
 一体どういうことだろう?

「四季杜の人間の中には、しきたりを守っていない連中の方が多い。あのしきたりは最早、意味を成していない」
「まあ、そうですよねえ……」
「『初めて』かどうかなんて、所詮自己申告だしね。これまで放置しすぎたんだ」

 響は心底うんざりしたように、ため息をついた。

「なにも、今このタイミングで廃止にしなくてもいいんじゃないですか?」
「律、僕はね。僕の人生の邪魔をしたあのしきたりが、いまだに存在していることが腹立たしいんだ。品のない言い方をするならば、『しきたりなんてクソ食らえ』とも思っている」

 口調こそ丁寧なものの、響は本気で怒っている。それが伝わっているのか、律はそれ以上反論をしなかった。

「はいはい。わかりましたよ。ご親族の皆様への根回しはこちらでやっておきますんで」
「助かるよ、律」
「あ、衣都に『お大事に』と、伝えておいてください。あいつ、昔から何かに集中すると他のことが疎かになるんで、無理しすぎだと思ったら適当なとこで注意してやってください」
「ああ、わかってる」

 律の声が聞こえなくなってまもなく、玄関の扉が閉まる音がした。
 しばらくすると足音が近づいてきて、衣都は急いでベッドに戻った。
 頭から布団を被ると、数秒後に扉がノックされた。

「衣都?寝ているのかい?」

 返事をしないでいると、響は衣都を起こさぬよう静かに部屋に入ってきた。
 衣都は息を潜め、狸寝入りを続けた。身動きしないよう身体を縮め、息を張り詰める。
 響は衣都が寝ていると思い込み、枕元に水分補給用のイオンウォーターやゼリー飲料を置くと、そっと部屋から出ていった。

(響さん、なんで……)

 聞いてはいけないことを聞いてしまったせいで、心臓がまだバクバクと小刻みに振動している。

 響はしきたりのせいで自由を奪われたことに、激しい憤りを感じていた。
 しきたりのおかげで響と結婚できる衣都とは大違いだ。
 しきたりが憎いのに、なぜ嘘をついてまで衣都と結婚しようとするのか。
 紬の言うように響にとってかりそめの花嫁として、衣都ほど都合のいい存在はいないから?
 衣都には家同士のしがらみも関係なければ、気を使うような後ろ盾もいない。心配されるような、浪費癖もない。
 極めつけは、婚約予定を聞きつけてひと晩の思い出を欲しがるほど、響を愛している。
 愛しているからこそ、結婚後にどう振る舞われようと彼を許すに違いない。
 盲目的に夫を愛する、愚かな妻役にこれほど相応しい人間は他にいないだろう。

(最初から分かっていたじゃない……)

 あの人は自分には手の届かない人だって。
 一晩だけでいいと覚悟して、抱かれたのは他ならぬ衣都だ。
 思いがけず結婚できることになり、愛してると囁かれて、すっかり浮かれていた。


(本当、私って単純なんだから……)

 知らず知らずのうちに、自嘲の笑みが湧いてくる。
 響の演技に気づかず、相思相愛なのだと勘違いをしていた。
 でも、たとえ利用されていようとも、響を責める気にはなれないのは、やはり彼を愛しているからに他ならない。
 結婚してもらえるだけで、ありがたいと思わなければ。

(あ、ダメ……)

 幸せだった気分が急に遠のいていく。
 まるで真っ暗なベールが目の前に降りてきたかのようだった。


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