18 / 41
君にしかけた甘い罠 1
しおりを挟む(大人しい子なんだな)
響が最初に衣都へ抱いた印象は、ごくありきたりなものだった。
衣都の父親が経営を担っていた『三宅製薬』は、この年、大変な苦境に立たされていた。
元々経営状態が芳しくなかったところに、大手製薬会社からM&Aを仕掛けられたのだ。
製薬会社の狙いは三宅製薬の持つ創薬技術の特許だった。
これまで徹底した一族経営により事業継承を行ってきた三宅一族だったが、昨今の経営状態を鑑みた結果、M&Aを受け入れるべきだという賛成派が多数現れた。
三宅一族は賛成派と反対派に分かれ、お互いの利益を主張するようになった。
……要するに、血で血を洗う御家騒動へと発展したのだ。
そこへ追い打ちをかけるように、取締役である衣都の父親が交通事故によりこの世を去った。
遺産として三宅製薬の株式を譲り受けた二人は、意地汚い大人達に囲まれ、選択を迫られることになった。
この頃になるとマスコミも三宅製薬の御家騒動を面白おかしく騒ぎ立て始めた。
御家騒動の渦中にある悲劇の兄妹を、誰も放っておいてはくれなかった。
心ない親戚からの罵声。
あるいは真逆の甘言。
自分たちの利益しか考えないハイエナのような汚らわしい大人達。
両親の死を悼む時間すら与えられない、過酷な日々。
秋雪が彼らの法定代理人として名乗りを上げなければ、事態は沈静化しなかっただろう。
会社名義だった家屋敷を追い出された三宅兄妹がしばしの間、四季杜家の屋敷に身を寄せることになったのは致し方のないことだった。
「響も仲良くしてあげてちょうだい~!」
「わかりました」
綾子からひと通りの説明を受けた響は小さく頷いた。
響自身も二人の境遇には不憫なものを感じていた。
区画は違えど同じ屋敷に住むのだから、ある程度の人間関係を築く必要性もある。
兄の方は特段、問題なかった。
律は自分達の現状を正しく理解しており、取り乱すこともなく、すんなりと四季杜の屋敷に馴染んだ。
……問題は妹の衣都だった。
「あ……」
たまたま廊下で鉢合わせしただけなのに、衣都は響の顔を見るなり踵を返し走り去って行った。
律からは運動が苦手だと聞いていたが、やけに俊敏な動きだ。
初めて言葉を交わした日以来、どうしてか避けられている。
何度か話しかけようと試みたものの、大体、避けられるか、逃げられるかのどちらかになる。
割合としては逃げられることの方が多めといったところ。
(まるで行動が読めないな)
弟妹のいないひとりっ子の響には年下の思春期の女の子にどう接するのが正しいのか、よくわからなかった。
衣都の行動は理解不能だった。
(まあ、好きにすればいいよ)
響には衣都を追いかけ、自分を避ける理由をわざわざ聞きだす情熱もなければ、義理もなかった。
三宅兄妹が四季杜家の屋敷で暮らすのは、成人するまでのわずかな期間だけ。
距離が縮まろうと広がろうと別にそれほど問題にはならない。
一緒の屋敷に暮らせど、所詮は赤の他人だ。
あちらが嫌がっているのに無理強いすることもないと、響は早々に良好な関係の構築を諦めた。
ところが、響の考えとは裏腹に、衣都との距離が縮まるような出来事が起こるのだった。
◇
(ピアノ……?)
その日、響はカウチソファに寝転がり、本を読んでいた。
一定間隔でページをめくり、文章に没頭していた響の耳に、突然鮮烈なピアノの音が飛び込んできた。
普段なら気にも留めないが、今日に限ってはなぜかその音色に興味を引かれた。
四季杜家の屋敷には、グランドピアノがある。
響は中学校を卒業するまでピアノを習っていたからだ。
本気でピアニストを目指していたわけではない。
四季杜の後継者としての教養を身に着けるために、習わされていたのだ。
したがって、響自身はピアノが好きでも、嫌いでもない。
(誰が弾いているんだ……?)
響がピアノをやめて以来、この屋敷にピアノの音がするのは初めてのことだった。
響は想像を膨らませながら、自室を出て廊下を歩いた。
ピアノは屋敷の中ではなく、イングリッシュガーデンを抜けた離れに設置されている。
ピアノに近づいていくにつれ、音の厚みが増し、鋭さが際立っていく。
響は離れの窓から、こっそり中の様子をうかがった。
そして、スツールに座る人物の横顔に、目を見張ったのだった。
――ピアノを弾いていたのは制服姿の衣都だった。
大胆に身体全体を揺り動かしながら、一心不乱に指を動かしている。
真剣な眼差しはひたすら鍵盤に向けられており、覗き見している響に気がつく様子はない。
衣都のピアノは荒々しかった。
感情の赴くままに、脇目も振らずにピアノへと向かう衣都に、思わず目が釘づけになる。
まるで自分の感情をすべてピアノにぶつけているかのようだった。
口数の少ない衣都の代わりに、ピアノが雄弁に語りかける。
彼女の怒り、苦しみ、悲しみ、嘆き、痛み。
次から次へと違う感情がピアノにこめられていく。
聞いてるこちらまで、どうにかなりそうな音の奔流だった。
(当たり前か……)
衣都はまだ十四歳。
たった数ヶ月の間に両親を失い、住み慣れた家からも追い出されてしまった。
親戚を頼りにすることもできず、父親が守ろうとした会社は買収され、世間から三宅製薬の名前は消え去った。
厳しい現実を受け入れるには、衣都はあまりに幼かった。
そうして窓の外で立ち尽くしていると、やがて音が鳴りやんだ。
一曲弾き終えた衣都は、ハアハアと肩で息をしていた。
何度か唾を飲み込むと、今度は目尻から涙が次から次へと零れ落ちた。
声を上げて泣き叫ぶのではなく、じっと耐え忍ぶように静かに涙を流すその様は――途方もなく美しかった。
響はとっさに目を逸らした。
(どうした……?)
見てはいけないものを見てしまった罪悪感と、この世のものとは思えぬほど美しいものを見た高揚感のせいなのか。
心臓の鼓動がやたらと速い。
見咎められないうちにこの場から退散しようとも思ったが……泣いている衣都をどうしても放っておくことができなかった。
考えあぐねいた末に、響は食堂からチョコレートをいくつかくすねた。
食後のティータイムの時に出されるお茶請けのひとつだ。
響は離れに戻ると、チョコレートをのせた小皿を扉の内側にこっそり置いた。
甘いものを食べれば少しは気休めになるかもしれない、という響らしからぬ非合理的な論理だった。
10
お気に入りに追加
51
あなたにおすすめの小説
私が一番近かったのに…
和泉 花奈
恋愛
私とあなたは少し前までは同じ気持ちだった。
まさか…他の子に奪られるなんて思いもしなかった。
ズルい私は、あなたの傍に居るために手段を選ばなかった。
たとえあなたが傷ついたとしても、自分自身さえも傷つけてしまうことになったとしても…。
あなたの「セフレ」になることを決意した…。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
冬のカフェからはじまる長いプロポーズ
藤井ことなり
恋愛
イブの夜、起圭一郎は同棲中の恋人美恵とささやかだけどロマンチックな夜にしようとレストランで食事をするつもりだった。
しかしブラコンでかなり美人の女装男子である弟の恵二郎の登場によりめちゃくちゃになる。
どたばたの末、少々思い込みの激しい美恵にプロポーズをするが、そこから恵二郎と実家の事。そしてシスコンである美恵の兄、さらには美恵の親友が絡んできてなかなかゴールにつかない。
果たして圭一郎は美恵と結ばれるのか。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
【完結】maybe 恋の予感~イジワル上司の甘いご褒美~
蓮美ちま
恋愛
会社のなんでも屋さん。それが私の仕事。
なのに突然、企画部エースの補佐につくことになって……?!
アイドル顔負けのルックス
庶務課 蜂谷あすか(24)
×
社内人気NO.1のイケメンエリート
企画部エース 天野翔(31)
「会社のなんでも屋さんから、天野さん専属のなんでも屋さんってこと…?」
女子社員から妬まれるのは面倒。
イケメンには関わりたくないのに。
「お前は俺専属のなんでも屋だろ?」
イジワルで横柄な天野さんだけど、仕事は抜群に出来て人望もあって
人を思いやれる優しい人。
そんな彼に認められたいと思う反面、なかなか素直になれなくて…。
「私、…役に立ちました?」
それなら…もっと……。
「褒めて下さい」
もっともっと、彼に認められたい。
「もっと、褒めて下さ…っん!」
首の後ろを掬いあげられるように掴まれて
重ねた唇は煙草の匂いがした。
「なぁ。褒めて欲しい?」
それは甘いキスの誘惑…。
ただいま冷徹上司を調・教・中!
伊吹美香
恋愛
同期から男を寝取られ棄てられた崖っぷちOL
久瀬千尋(くぜちひろ)28歳
×
容姿端麗で仕事もでき一目置かれる恋愛下手課長
平嶋凱莉(ひらしまかいり)35歳
二人はひょんなことから(仮)恋人になることに。
今まで知らなかった素顔を知るたびに、二人の関係は近くなる。
意地と恥から始まった(仮)恋人は(本)恋人になれるのか?
狡くて甘い偽装婚約
本郷アキ
恋愛
旧題:あなたが欲しいの~偽りの婚約者に心も身体も囚われて~
エタニティブックス様から「あなたが欲しいの~偽りの婚約者に心も身体も囚われて」が「狡くて甘い偽装婚約」として改題され4/14出荷予定です。
ヒーロー視点も追加し、より楽しんでいただけるよう改稿しました!
そのため、正式決定後は3/23にWebから作品を下げさせて頂きますので、ご承知おきください。
詳細はtwitterで随時お知らせさせていただきます。
あらすじ
元恋人と親友に裏切られ、もう二度と恋などしないと誓った私──山下みのり、二十八歳、独身。
もちろん恋人も友達もゼロ。
趣味といったら、ネットゲームに漫画、一人飲み。
しかし、病気の祖父の頼みで、ウェディングドレスを着ることに。
恋人を連れて来いって──こんなことならば、彼氏ができたなんて嘘をついたりしなければよかった。
そんな時「君も結婚相手探してるの? 実は俺もなんだ」と声をかけられる。
芸能人みたいにかっこいい男性は、私に都合のいい〝契約〟の話を持ちかけてきた!
私は二度と恋はしない。
もちろんあなたにも。
だから、あなたの話に乗ることにする。
もう長くはない最愛の家族のために。
三十二歳、総合病院経営者 長谷川晃史 × 二十八歳独身、銀行員 山下みのり
切ない大人の恋を描いた、ラブストーリー
※エブリスタ、ムーン、ベリーズカフェに投稿していた「偽装婚約」を大幅に加筆修正したものになります。話の内容は変わっておりません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる