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君にしかけた甘い罠 1

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(大人しい子なんだな)

 響が最初に衣都へ抱いた印象は、ごくありきたりなものだった。

 衣都の父親が経営を担っていた『三宅製薬』は、この年、大変な苦境に立たされていた。
 元々経営状態が芳しくなかったところに、大手製薬会社からM&Aを仕掛けられたのだ。
 製薬会社の狙いは三宅製薬の持つ創薬技術の特許だった。
 これまで徹底した一族経営により事業継承を行ってきた三宅一族だったが、昨今の経営状態を鑑みた結果、M&Aを受け入れるべきだという賛成派が多数現れた。
 三宅一族は賛成派と反対派に分かれ、お互いの利益を主張するようになった。
 ……要するに、血で血を洗う御家騒動へと発展したのだ。
 そこへ追い打ちをかけるように、取締役である衣都の父親が交通事故によりこの世を去った。

 遺産として三宅製薬の株式を譲り受けた二人は、意地汚い大人達に囲まれ、選択を迫られることになった。
 この頃になるとマスコミも三宅製薬の御家騒動を面白おかしく騒ぎ立て始めた。
 御家騒動の渦中にある悲劇の兄妹を、誰も放っておいてはくれなかった。


 心ない親戚からの罵声。
 あるいは真逆の甘言。

 自分たちの利益しか考えないハイエナのような汚らわしい大人達。
 両親の死を悼む時間すら与えられない、過酷な日々。
 秋雪が彼らの法定代理人として名乗りを上げなければ、事態は沈静化しなかっただろう。
 会社名義だった家屋敷を追い出された三宅兄妹がしばしの間、四季杜家の屋敷に身を寄せることになったのは致し方のないことだった。

「響も仲良くしてあげてちょうだい~!」
「わかりました」
 
 綾子からひと通りの説明を受けた響は小さく頷いた。
 響自身も二人の境遇には不憫なものを感じていた。
 区画は違えど同じ屋敷に住むのだから、ある程度の人間関係を築く必要性もある。
 兄の方は特段、問題なかった。
 律は自分達の現状を正しく理解しており、取り乱すこともなく、すんなりと四季杜の屋敷に馴染んだ。
 ……問題は妹の衣都だった。



「あ……」

 たまたま廊下で鉢合わせしただけなのに、衣都は響の顔を見るなり踵を返し走り去って行った。
 律からは運動が苦手だと聞いていたが、やけに俊敏な動きだ。

 初めて言葉を交わした日以来、どうしてか避けられている。

 何度か話しかけようと試みたものの、大体、避けられるか、逃げられるかのどちらかになる。
 割合としては逃げられることの方が多めといったところ。

(まるで行動が読めないな)

 弟妹のいないひとりっ子の響には年下の思春期の女の子にどう接するのが正しいのか、よくわからなかった。
 衣都の行動は理解不能だった。

(まあ、好きにすればいいよ)
 
 響には衣都を追いかけ、自分を避ける理由をわざわざ聞きだす情熱もなければ、義理もなかった。
 三宅兄妹が四季杜家の屋敷で暮らすのは、成人するまでのわずかな期間だけ。
 距離が縮まろうと広がろうと別にそれほど問題にはならない。
 一緒の屋敷に暮らせど、所詮は赤の他人だ。
 あちらが嫌がっているのに無理強いすることもないと、響は早々に良好な関係の構築を諦めた。
 ところが、響の考えとは裏腹に、衣都との距離が縮まるような出来事が起こるのだった。



 ◇
 
(ピアノ……?)

 その日、響はカウチソファに寝転がり、本を読んでいた。
 一定間隔でページをめくり、文章に没頭していた響の耳に、突然鮮烈なピアノの音が飛び込んできた。
 普段なら気にも留めないが、今日に限ってはなぜかその音色に興味を引かれた。
 四季杜家の屋敷には、グランドピアノがある。
 響は中学校を卒業するまでピアノを習っていたからだ。
 本気でピアニストを目指していたわけではない。
 四季杜の後継者としての教養を身に着けるために、習わされていたのだ。
 したがって、響自身はピアノが好きでも、嫌いでもない。

(誰が弾いているんだ……?)

 響がピアノをやめて以来、この屋敷にピアノの音がするのは初めてのことだった。
 響は想像を膨らませながら、自室を出て廊下を歩いた。

 ピアノは屋敷の中ではなく、イングリッシュガーデンを抜けた離れに設置されている。
 ピアノに近づいていくにつれ、音の厚みが増し、鋭さが際立っていく。

 響は離れの窓から、こっそり中の様子をうかがった。
 そして、スツールに座る人物の横顔に、目を見張ったのだった。


 ――ピアノを弾いていたのは制服姿の衣都だった。

 大胆に身体全体を揺り動かしながら、一心不乱に指を動かしている。
 真剣な眼差しはひたすら鍵盤に向けられており、覗き見している響に気がつく様子はない。

 衣都のピアノは荒々しかった。
 感情の赴くままに、脇目も振らずにピアノへと向かう衣都に、思わず目が釘づけになる。
 まるで自分の感情をすべてピアノにぶつけているかのようだった。
 口数の少ない衣都の代わりに、ピアノが雄弁に語りかける。
 彼女の怒り、苦しみ、悲しみ、嘆き、痛み。
 次から次へと違う感情がピアノにこめられていく。
 聞いてるこちらまで、どうにかなりそうな音の奔流だった。

(当たり前か……)
 
 衣都はまだ十四歳。
 たった数ヶ月の間に両親を失い、住み慣れた家からも追い出されてしまった。
 親戚を頼りにすることもできず、父親が守ろうとした会社は買収され、世間から三宅製薬の名前は消え去った。
 厳しい現実を受け入れるには、衣都はあまりに幼かった。

 そうして窓の外で立ち尽くしていると、やがて音が鳴りやんだ。

 一曲弾き終えた衣都は、ハアハアと肩で息をしていた。
 何度か唾を飲み込むと、今度は目尻から涙が次から次へと零れ落ちた。
 声を上げて泣き叫ぶのではなく、じっと耐え忍ぶように静かに涙を流すその様は――途方もなく美しかった。
 響はとっさに目を逸らした。

(どうした……?)

 見てはいけないものを見てしまった罪悪感と、この世のものとは思えぬほど美しいものを見た高揚感のせいなのか。
 心臓の鼓動がやたらと速い。

 見咎められないうちにこの場から退散しようとも思ったが……泣いている衣都をどうしても放っておくことができなかった。

 考えあぐねいた末に、響は食堂からチョコレートをいくつかくすねた。
 食後のティータイムの時に出されるお茶請けのひとつだ。
 響は離れに戻ると、チョコレートをのせた小皿を扉の内側にこっそり置いた。
 甘いものを食べれば少しは気休めになるかもしれない、という響らしからぬ非合理的な論理だった。




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