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秘めた熱情 1

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 朝、目を覚ますと、これは本当に現実なのかいつも疑ってしまう。

 夜が明け始めた朝六時。スマホのアラーム音で目を覚ました衣都は澄んだ朝の空気を吸いこむと、ぶるりと身体を震わせた。

 十二月上旬になり、冬物のコートやマフラーが大活躍するようになってきた近頃。
 空調の効いた室内であってもパジャマ一枚では心もとない。衣都は二年近く愛用しているふわもこカーディガンをクローゼットから取り出し羽織った。
 ハンガーラックの半分を埋めるブランド品には目もくれない。なんなら、あえて見ないようにしているくらいだ。
 用を済ませた衣都は後ろ手で、クローゼットの折戸を閉めた。

(まだ夢の中にいるみたい……)

 目の前に広がる光景は、狭いながらも全てが過不足なく詰まっていた自分のワンルームとは、雲泥の差があった。
 宝石を散りばめたような煌びやかなドレッサー。
 適度な反発で横たわる人を快適な睡眠に誘うベッド。
 すべてにおいて効率よりも、ゆとりが重視された贅沢なインテリアの配置としつらえ。
 窓から見える風景だって大違いだ。
 広い敷地に建てられたレジデンスは周囲の住宅からの視線を遮るようあちこちに木々が植えられており、まるで公園の中で過ごしているような気持ちになる。

 ――衣都が響と暮らし始めてから早くも二週間が経過していた。

 急に決まった同居生活ではあったが、これまで何ひとつ不自由なく暮らしている。
 専属のハウスキーパーが細々とした家事全般を担っているため、衣都自身があくせく動くこともない。
 毎日部屋を掃除してもらい、ベッドには洗い立てのシーツをかけてもらう。
 清潔なシーツの香りを嗅ぐと、響とひとつになった夜のことを思い出さずにはいられない。
 響の腕の中で、愛される喜びを貪ったあの日から――衣都の日常は百八十度、変わってしまった。

「おはよう、衣都」
「おはようございます、響さん」

 パジャマのままリビングに行き、既に起床していた響と朝の挨拶を交わす。
 響は朝食を食べ終わり、シンクに食器を下げていたところだった。
 最初は新鮮だった黒の上下のリカバリーウェア姿も、もう見慣れてしまった。
 衣都は冷蔵庫から朝食がのせられたトレーを取り出し、ダイニングチェアに腰掛けた。
 朝食は家政婦が昨晩のうちに作り置きしてくれたものを、テーブルの上に置くだけだ。

「コーヒー飲むよね?」

 そう言ってコーヒーカップを食器棚から取り出そうとする響を見て、慌てて立ち上がる。

「自分でやります!」
「自分の分を淹れるついでだよ。衣都は座っていて」

 響は慣れた手つきで豆を挽き、ドリッパーにフィルターをセットした。


 数分後、衣都の手元には淹れたてのコーヒーが届けられた。

「どうぞ」
「ありがとうございます」

 コーヒーがテーブルに届くと、衣都は朝食の皿に手を伸ばした。
 近所にあるという高級食パン店で購入されたクロワッサンは、味も値段も一級品だ。
 普段口にしていた食パンよりもはるかに美味しいはずなのに、置かれた環境のせいなのか味気なく感じられる。

「今日は仕事?」
「はい」

 土曜日のこの日、響の仕事が休みである一方、衣都は仕事の予定だ。
 衣都の休日は教室が休みの祝日と日曜日、あとは担当するレッスンがない水曜日だ。
 大人向けのクラスは一般企業の休みと合わせるように、土曜日に多く開催されており、当然衣都達講師に休みはない。
 なんとか朝食を食べ終え、服を着替え髪をヘアアイロンで整えると、もう出勤時間が迫ってくる。

「いってらっしゃい」
「はい。いってきます」

 響に見送られてレジデンスを出発した衣都は、からっ風で靡くマフラーを手で押さえながら最寄りの駅までテクテクと歩いた。
 響と暮らし始めたことで、歩いて二十分ほどだった通勤時間が倍以上になった。
 責任を感じた響が運転手をつけようと申し出てくれたが、衣都は必要ないと断ってしまった。
 毎日、運転手に仰々しく送り迎えしてもらう自分の姿が、どうしても想像できなかったのだ。

 五十分後、教室に到着した衣都はタイムカードを押すと、今日の予定を今一度確認した。
 今日は朝から音楽大学を受験する学生用の対策レッスンがあり、和歌子のアシスタントを務めることになっている。
 音楽大学の入学選抜試験では、学科試験の他に実技試験がある。ピアノの演奏技術はもちろんのこと、他にも聴音や新曲視唱といった試験項目があり、専用の対策が必須なのだ。

(そろそろ皆、追い込みの季節ね)

 数年前、自分も通った道を思い出し、懐かしさに襲われる。
 音楽大学を受験する者にとって、冬は大切な季節だ。
 年を明けると直ぐに苛烈な入学選抜試験に身を投じなければならない。

「はい、皆さん揃ったところでミーティングを始めます」

 講師陣が全員出勤したところで、和歌子から主導による朝のミーティングが始まる。
 ミーティングが終わると、下っ端の衣都はレッスン室のセッティングを始めた。
 レッスンで使用する譜面を棚から取り出し、テーブルに置き、ピアノのカバーを外し、毛ばたきで鍵盤の埃を払っていく。
 最後に、その日のピアノのコンディションを確かめる意味でも、心を落ち着ける意味でも一曲弾く。

 この日、衣都が選んだのは、ベートーヴェンの三大ピアノソナタのひとつである『月光』だ。

 しっとりとした緩やかなメロディーが波立った心を鎮めてくれる。
 ピアノがあってよかった。辛うじて正気を保っていられる。


(私はずるい……)

 心のどこかで後ろめたさを感じながら、それでも響と同居を続ける自分自身に、とことん嫌気がさしている。
 口では『そんなつもりはなかった』と弁解するくせに、結婚の話を未だに保留にしているのは卑怯者のやり方だ。
 響が迎えに来た時、逃げ出さなかったのも、理由はどうあれ好きな人の関心を引いている状況が心地良かったからに違いない。
 
(響さんは何を考えているのかしら……)

 しきたりだからと結婚を迫る響の心がよくわからない。
 浮世離れしていて掴みどころのない響だが、これまで衣都に何かを強制するようなことはなかった。
 そもそも、響は他人にそこまで興味がない。
 衣都に対しても、この先は踏み込まないという線が明確に敷かれていたと思う。
 だからこそ、断られることを覚悟であんなお願いをしたのだ。
 それなのに……どうして今回に限っては遠慮なしにズカズカと踏み込んでくるのか。

 最後までピアノを弾き終えても、衣都はしばらく鍵盤の上から指を離せないでいた。
 ……何か釈然としない。


「今日は随分と悩ましい弾き方なのね。何か悩み事でもあるのかしら?」

 拍手をしながらレッスン室に入ってきたのは和歌子だった。

「衣都先生は、昔から音に感情が乗るタイプよね。ピアノの前では嘘がつけない」

 和歌子は衣都をからかうように、朗らかに笑った。
 衣都はかつて音楽大学を受験する際、綾子の紹介で和歌子に指導を仰いだことがある。その時も同じことを指摘された。
 何年経っても進歩がないと言われているような気がしてなんだか恥ずかしかった。
 
「お見苦しいものを聴かせてしまってすみません……」
「別に謝ることないわ。悪いと言っているわけではないのよ?口下手なあなただからこそ、強く宿るものがあるのね」

 長年、音大受験に挑む学生の指導にあたってきた和歌子にとっても、衣都のピアノの聞こえ方は珍しい部類に入るらしい。

「その調子で未来の後輩も指導してちょうだい」
「はい」

 自分の置かれている状況は、レッスンを受けにくる生徒には一切関係ない。
 衣都は気を引き締めると、いつも以上の熱意を持ってその日のレッスンに取り組んだ。


 
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