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恋とピアノとチョコレート 5

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 ◇
 
「ふう……」
 
 ドレスを脱ぎ、私服のワンピースに着替え終えた衣都は大きく息を吐いた。
 生徒が全員帰った後、片づけを終えると、ようやく講師陣も帰宅の途に着くことが出来る。

「お疲れ様でした」
「お疲れ様~」

 バックヤードの扉から外に出ると、互いに挨拶を交わしながら、ひとりまたひとりとその場から離れていく。

(ひと仕事終わった~!)

 衣都は駅までの道のりを歩きながら、すっかり日が暮れた空に向かって、大きく伸びをした。
 発表会は当然、講師にとっても大仕事だ。
 十一月の冷たい風に吹かれながら達成感を噛み締めていたその時、ふっと誰かが近づいてくる気配がした。
 なんとはなしに後ろを振り返った衣都は、目を見張った。
 
「衣都、お疲れ」
「響さん!先に帰ったんじゃ……」
「頑張った衣都にご褒美をあげようと思ってね。こっそり待っていたんだ」

 響は衣都に見えるように、手に下げていた紙袋を掲げてみせた。

「ご褒美って、まさか……」
「そのまさかだよ」

 響は優美に微笑んでみせた。



『寒いから車に行こう』と促され、駐車場に停めてあった響の車に場所を移した。
 助手席に座るなり、紙袋を渡される。紙袋の中に入っていたのは、手のひらに乗るくらいの小さな小箱だった。リボンを解き蓋を開けると同時に、衣都は歓声を上げた。
 
「わあ!美味しそうなチョコレート!」
「衣都は昔からチョコレートが好きだよね」
「はい!」
 
 小箱の中には光沢のあるチョコレートが宝石のように、綺麗に並べられていた。

「ひとつ食べてもいいですか?」
「いいよ」

 もう家まで待てなかった。
 発表会の運営のために、朝から動きっぱなしで腹ペコだったのだ。
 衣都はどれにしようか迷った結果、フリーズドライしたイチゴでおめかしをされたひと粒を口の中に入れた。
 口いっぱいに広がるビターな甘さ。トロリと濃厚なアーモンドのプラリネ。ほんのり感じるイチゴの酸味。ひと粒食べただけで、元気が湧いてくる。

「美味しい?」
「はい、とっても……」
「わざわざ買いに行った甲斐があったね」

 衣都を喜ばせることに成功した響は、悪戯が成功した子供のような茶目っ気を出しニヤリと笑った。

(私の、ために……?)

 響の頭の片隅を占有していた嬉しさがじわじわと込み上げ、胸が熱くなる。

(もっと味わって食べればよかった……!)

 チョコレートは口の中で溶けて、すぐになくなってしまった。
 残ったチョコレートは、大事に食べようと心に決める。

「今日の演奏、すごくよかったよ」
「よかったあ……!沢山練習したんです」

 響に褒めてもらえると、勤務終わりと休みの日に、自主練を重ねてきた努力が報われたような気がする。
 衣都はすっかりご機嫌になった。

「おば様にも演奏を褒めていただいたんです。響さん、今日はお会いにならなかったんですね?」
「顔を合わせると面倒なことになりそうだからね。隠れていたんだ」

 響はわざとらしくため息をついてみせた。
 衣都は困惑してしまった。

(響さんがこんなに消極的な行動に出るなんて……)

 面倒とはどういう意味だろう。もしかして、綾子と一緒にいた女性と関係があるのだろうか。
 差し出がましいような気もしたが、押し寄せる好奇心には勝てなかった。

「おば様が連れていた女性と何か関係があるんですか?」
「……彼女は僕の婚約者候補なんだよ」

 頭を鈍器で殴られたような衝撃が走る。助手席に座っていなかったら、その場に立っていられなかったかもしれない。

「婚約者、ですか……?」
「僕もとっくに三十路を過ぎているしね。そろそろ年貢の納め時ってことかな?」

 響は困り果てたように、眉を下げた。

(あの綺麗な人が響さんの……)

 彼女は身の内から自信が滲み出ていた。
 言葉の端々に豊かな知性がうかがえ、年の離れた綾子と打ち解ける社交性がある。
 衣都はピアノ以外はからきしダメで、勉強も運動も頑張ってやっと人並み程度にこなせる。
 引っ込み思案な性格のせいで交友関係も狭い。
 自分とは真逆の女性が、響と結婚する。その事実に打ちのめされそうだった。

「婚約、おめでとうございます」

 衣都は苦心してありきたりなお祝いの言葉を口から捻りだした。

「気が早いよ。まだ本当に婚約するかどうか決まってないって。母さんが勝手にやっていることだしね」
 
 響はそう言うが、綾子が発表会に連れてきたということは婚約も時間の問題だろう。
 これまで響の結婚話は何度かあったが、ここまで具体的になるのは初めてだった。
 衣都はそれ以上何も言えなくなってしまった。

「家まで送るよ」

 響が沈黙を破るように、そっと告げた。


 
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